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50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく  作者: かわさきはっく
最終章 零(ゼロ)の賢者

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312/313

第312話 二人の賢者の対話

 賢者の住居の書斎。

 窓の外では、二百年の平穏を嘲笑うかのように、激しい嵐が森を打ちつけていた。その混沌とした外界とは裏腹に、室内は絶対的な静寂に支配されていた。

 エルンは、ただ息を呑んで、目の前の存在を見つめることしかできなかった。


 カインの身体に宿る、もう一人の賢者。

 二百年の沈黙を破り、闇の理さえもその身に取り込んで覚醒した、カイラン・フェルシス。

 彼の蒼い瞳は、もはやこの世の理を超越したかのような、深い叡智を湛えていた。


「……やれやれ。少々、眠りすぎたか」


 カイランは、まるで埃を払うかのように、自らの身体から立ち上っていた禍々しい気配を、完全に霧散させた。そして、俺の心の中で荒れ狂っていた絶望の嵐を、ただ一言、『静かにしろ』という意志だけで、完全に鎮めてみせた。


 俺の意識は、身体の主導権を奪われたまま、魂の深層へと引きずり込まれていた。そこは、光も闇もない、思考だけの空間。目の前には、カイランの精神体が、俺と同じ姿で、静かに立っていた。


『……二百年の停滞は、人間であるお前の魂には、あまりに永すぎたか』


 カイランが、静かに語りかける。その声は、俺の苦悩を、まるで最初から理解していたかのように、穏やかだった。


「……お前には、分かるのか。この、どうしようもない虚しさが」


『ああ、分かるさ。私もまた、永劫の退屈から逃れるために、お前をこの世界に呼んだのだからな』


 彼は、自らの過ちを認めるかのように、静かに頷いた。


『だが、カインよ。お前が今、囚われようとしているその絶望は、セイオンが望んだものと、何ら変わりはないぞ』


「……なんだって?」


『セイオンの思想を思い出せ。「行き過ぎた秩序は停滞を生み、停滞は緩やかな腐敗だ」と。お前は今、その言葉を、真実だと受け入れてしまっている。違うか?』


 カイランの指摘は、俺の心の最も痛い部分を容赦なく抉った。

 そうだ。俺は、二百年の時を経て、俺が討ち果たしたはずの敵と、同じ結論にたどり着いてしまっていた。


「じゃあ、どうしろって言うんだ! このまま、世界が腐っていくのを、ただ指をくわえて見ていろとでも言うのか!」


 俺の魂の叫びに、カイランは、静かに首を横に振った。


「セイオンの思想は、一見、理に適っているように聞こえる。だが、それは巧妙な詭弁だ。彼は『世界の進化』などという大義を掲げているが、その本質は違う。彼はただ、自らの知的好奇心を満たすためだけに、この世界を壮大な実験場としか見ていない。停滞は悪だが、混沌による強制的な進化は、より大きな悲劇を生むための、彼の口実に過ぎん」


 カイランは、かつての協力者であった男の本質を、冷徹に見抜いていた。


「そして、カイン。最も危険なのは、お前自身だ」


「……俺が?」


『ああ。お前のその心の揺らぎ、停滞への怒り、変化への渇望……。それこそが、新たな混沌を呼び覚ます、最大の引き金となる。お前が闇の力に心を委ねれば、お前は第二のセイオンとなるだろう。いや、彼以上に厄介な存在と化す。なぜなら、お前の行動には、民を想う『正義』という、最もたちの悪い大義名分が与えられてしまうからだ』


 その言葉に、俺は息を呑んだ。

 そうだ。俺は、この世界を救いたいと願いながら、その実、自らの手で、この世界を、より深い混沌へと突き落とそうとしていたのかもしれない。


 俺たちの魂の対話の間、エルンは、ただ、目の前のカイランの姿を、固唾をのんで見守っていた。

 彼の瞳は、時折、遠くを見つめるように虚空を彷徨い、またある時は、自らの内側と対話するかのように、深く、閉じられる。

 彼女には、今、この身体の中で、二人の賢者が、世界の未来を賭けた、壮絶な対話を行っていることだけが、肌で感じ取れていた。


 やがて、カイランの蒼い瞳が、再び、エルンを捉えた。


「……エルンストよ。心配をかけたな」


 その声は、再び、穏やかなものへと戻っていた。


「この男の魂の嵐は、ひとまず、収まった。だが、問題の根本は、何も解決してはいない」


 カイランは、窓の外で未だ荒れ狂う嵐を、静かな瞳で見つめた。


「この世界を、どう『デザイン』していくべきか。停滞も、混沌も、どちらも望まぬ未来だとするならば、我々は、第三の道を探さねばなるまい」


 彼は、エルンに向き直ると、二百年の時を経て、初めて、穏やかな笑みを浮かべた。


「そして、その答えを探すことこそが、今の私にとって、最も刺激的で、面白い『知の探求』だ。……この男と共に、な」


 その言葉を最後に、カイランの蒼い瞳の光が、すっと、その奥へと沈んでいく。

 俺の身体が、一度だけ、大きく揺らめいた。

 次に目を開いた時、そこにあったのは、いつもの、俺の瞳だった。


「……カイン……?」


 エルンが、おずおずと、俺の名を呼ぶ。

 俺は、まだ混乱する頭で、彼女の顔を見つめ返した。


「……ああ。俺だ」


 俺の心の中に、カイランの最後の言葉が、静かに、しかし、確かに響いていた。

 闇に堕ちるな。だが、停滞もするな。

 第三の道を、探せ、と。


 それは、あまりにも難しく、そして、あまりにも賢者らしい問いかけだった。

 嵐はまだ止んでいない。

 俺の本当の戦いは、ここから始まるのだ。

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