第311話 闇の理を識る者
賢者の住居の書斎。
その部屋は、今や光と闇がせめぎ合う、魂の戦場と化していた。
俺は床にうずくまり、頭を抱えていた。嵐が窓を叩く音と、俺自身の荒い呼吸だけが、室内に響いている。
『壊せ』
声がする。
魂の奥底から、甘美な闇が囁きかける。
『この停滞した世界を。偽りの平和を。お前の手で、もう一度、ざわめかせるのだ。お前には、その力がある』
そうだ。俺には力がある。エルドレアの死と引き換えに得た、この冷たい闇の力が。
黒い靄が、俺の身体からゆらりと立ち上る。それは、俺自身の絶望と、二百年の停滞に対する怒りが形となったものだった。
『やめろ……その力に、心を委ねるな……』
か細い声が、闇の奔流に抗う。カイランだ。
だが、二百年の沈黙を経た彼の声は、あまりにも弱々しい。
『光の賢者よ。もはや、お前の時代ではない。この男が選ぶのは、変化をもたらす混沌。静寂ではなく、ざわめきだ』
闇の声が、俺の思考を支配しようとする。
もう、どうでもいい。この苦しみから解放されるのなら――。
俺が、その抗いがたい誘惑に身を委ねようとした、その時。
書斎の扉が、勢いよく開かれた。
「カイン!」
エルンだった。
彼女は、部屋に満ちる禍々しい気配に息を呑みながらも、ためらうことなく俺へと駆け寄る。
「しっかりしてください! その闇に、飲まれてはなりません!」
彼女は杖を構え、治癒の光を俺へと注ごうとする。
だが、俺の身体から溢れ出す黒い靄が、その聖なる光を、まるで拒絶するかのように弾き返した。
「くっ……! これは、ただの魔力の暴走ではない……。魂そのものが……!」
エルンの悲痛な声が、遠くに聞こえる。
もう、駄目だ。俺は、このまま――。
『――静かにしろ』
その声は、雷鳴のように、俺の魂を打ち抜いた。
甘美な闇の囁きも、か細い光の抵抗も、その、あまりにも絶対的な響きの前では、まるで児戯のように、ぴたりと鳴り止んだ。
俺の身体から立ち上っていた黒い靄が、まるで主の帰還を恐れるかのように、すっと、その身の内へと収まっていく。
俺は、ゆっくりと、顔を上げた。
糸が切れたように、身体から力が抜けていく。
だが、それは虚脱感ではない。魂の主導権が、完全に、別の存在へと移り変わったことによる、静かな変化だった。
俺は立ち上がった。
その動きには、これまでの俺が持っていた、不器用さや、迷いなど微塵も感じられない。
まるで、水が流れるかのように、自然で、完璧な所作。
伏せられた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
「……カイン……?」
エルンが、目の前の存在の変化に、戸惑いの声を上げた。
そこに現れた瞳は、俺本来の温かみのあるものではなかった。
深く、静かで、計り知れないほどの叡智を湛えた、蒼い光。
そして、その全身から放たれる気配は、光でも闇でもない。その両方を内包し、超越した、絶対的な静寂そのものだった。
「……やれやれ。少々、眠りすぎたか」
俺の口から、俺のものではない、低く、落ち着き払った声が漏れた。
エルンは、はっとしたように、その名を呼んだ。
「……カイラン、様……?」
「ああ」
カイラン――俺の身体に宿る彼は、静かに頷くと、自らの掌を、まるで初めて見るかのように、ゆっくりと開いた。
「二百年。闇の大精霊ノクスとの契約を、ただ受け入れるだけでは芸がない。私は、その理を、内側から、完全に解き明かした。……闇とは、何か。静寂とは、何か。その答えを、ようやく、この身に得ることができた」
彼は、もはや、かつての光の賢者ではなかった。
闇の理をも識り、その力を完全に掌握した、超越者。
二百年という永い瞑想は、彼を、全く新しい存在へと変貌させていたのだ。
カイランは、俺の心の中で起きていた嵐の正体を、エルンに、淡々と解説し始めた。
「先ほどの闇は、ノクスの意志ではない。この男――カインの、絶望と変化への渇望が、契約の力を触媒として、形を成したに過ぎん。魂の奥底に眠る、純粋な『願い』。それこそが、闇の本質だ」
その、あまりにも冷静な分析。
エルンは、目の前の存在が、自らが知る、あのカイラン様とは、全く別の次元にいることを、肌で感じ取っていた。
カイランは、窓の外で荒れ狂う嵐を、静かな瞳で見つめた。
「だが、彼の苦悩も理解できる。この停滞した世界は、確かに、醜い」
彼は、ゆっくりと、エルンに向き直った。
「故に、対話が必要だ。この身体に宿る、もう一人の賢者と。……そして、この世界の未来を、どう『デザイン』していくべきか、決めねばなるまい」
その声には、神の如き、揺るぎない意志が宿っていた。
エルンは、その圧倒的な存在感を前に、ただ、息を呑むことしかできなかった。
二百年の沈黙を破り、真の賢者が、今、この森に、再び、降臨したのだ。




