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50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく  作者: かわさきはっく
最終章 零(ゼロ)の賢者

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310/313

第310話 内なる声

 その夜、エルフェンリートの森は嵐に見舞われた。

 風が唸りを上げて木々を揺らし、激しい雨が賢者の住居の窓を叩く。まるで、俺の心の荒れ模様が、そのまま世界の天候に反映されたかのようだった。

 俺は書斎の椅子に深く身を沈め、一人、窓の外で荒れ狂う闇を見つめていた。


 アルヴィンの言葉が、脳裏から離れない。

『父上なら、この停滞を打ち破るための新たな『理』を模索したでしょう。時には、既存の秩序を、自らの手で破壊してでも』

 親友の息子が放った、あまりにも真っ直ぐで、そして、あまりにも危険な言葉。

 それは、俺が心の奥底で感じていながらも、必死に蓋をしていた感情を、容赦なく抉り出した。


(俺は、何をしている……?)


 賢者として、森の民に敬われ、穏やかな日々を送る。

 だが、その実態はなんだ? ただ、美しい置物として、この静かな檻の中で、緩やかに魂がすり減っていくのを待っているだけではないか。

 かつて、竹内悟志だった頃の俺。社会から必要とされず、変化のない毎日の中で、ただ無力感に苛まれていた、あの頃の俺と、今の俺に、一体何の違いがあるというのだ。


 セイオンを討ち、世界に平和をもたらした。

 だが、その結果生まれたのが、この希望のない停滞だというのなら。

 俺は、本当に世界を救ったと言えるのか?


 苦悩が頂点に達した、その瞬間だった。

 俺の魂の、最も深い場所で、二百年以上もの間、固く閉ざされていた扉が、軋むような音を立てた。


 ぞわり、と。

 全身の肌が粟立つような、異質な感覚。

 俺の内に眠っていた、あの冷たい力が、俺の心の揺らぎに呼応するかのように、ゆっくりと脈動を始めたのだ。

 エルドレアの死と引き換えに、カイランがその身に受けた、闇の大精霊ノクスとの契約。その、忘れかけていたはずの力が、今、俺の絶望を糧とするかのように、その存在を主張し始めていた。


『……力が、欲しいか?』


 声がした。

 それは、カイランの声ではない。もっと深く、冷たく、そして、甘美な響きを持つ、内なる声。

 闇そのものが、俺に語りかけてくるかのようだった。


「……誰だ」


『我は、お前自身だ。お前が目を背けてきた、渇望そのものだ』


 声は続ける。


『お前は、この停滞を憂いている。この腐敗を、憎んでいる。ならば、壊せばいい。お前の手で、この偽りの平和を』


 その言葉は、悪魔の囁きのように、俺の心の隙間に染み込んでくる。

 そうだ。俺には力がある。この世界を、もう一度、ざわつかせるだけの力が。


 俺の身体から、微かに、黒い靄のようなオーラが立ち上り始めた。

 部屋の空気が急速に冷え、テーブルの上の水差しが、カタカタと微かに震える。

 闇の力が、俺の絶望に応え、その封印を解き放とうとしていた。


 俺が、その抗いがたい誘惑に、身を委ねようとした、その時。


『――待て』


 別の声が、頭の中に響いた。

 弱々しい、しかし、どこか懐かしい、あの声。


(……カイラン……!?)


『その力に、心を委ねるな。それは、お前を救いはしない。ただ、深淵へと引きずり込むだけだ』


 二百年の沈黙を破り、カイランの意識が、闇の奔流に抗うかのように、浮上してきたのだ。

 だが、その声は、あまりにもか細い。


『……面白い。まだ、抗うか。光の賢者よ』


 闇の声が、嘲笑う。

 俺の頭の中で、二つの声がせめぎ合う。

 変化を促す、甘美な闇の囁き。

 それを制止しようとする、理性の光の声。


「ぐ……っ、あああああっ!」


 俺は頭を抱え、その場にうずくまった。

 魂が、二つに引き裂かれるような、激しい苦痛。

 嵐は、もはや、窓の外だけではなかった。俺の内側で、光と闇の、壮絶な戦いが始まっていた。


 隣室で、そのただならぬ気配を察したエルンが、ベッドから跳ね起きた。

 彼女の顔には、これまでにないほどの、深い憂慮の色が浮かんでいる。


「カイン……! あなたの心に、一体、何が……」


 彼女は杖を握りしめ、俺のいる書斎へと、駆け出そうとしていた。

 森の賢者は、今、自らの魂の嵐の中で、一人、立っていた。

 その先に待つのが、光か、闇か。

 その答えを、まだ、誰も知らなかった。

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