第310話 内なる声
その夜、エルフェンリートの森は嵐に見舞われた。
風が唸りを上げて木々を揺らし、激しい雨が賢者の住居の窓を叩く。まるで、俺の心の荒れ模様が、そのまま世界の天候に反映されたかのようだった。
俺は書斎の椅子に深く身を沈め、一人、窓の外で荒れ狂う闇を見つめていた。
アルヴィンの言葉が、脳裏から離れない。
『父上なら、この停滞を打ち破るための新たな『理』を模索したでしょう。時には、既存の秩序を、自らの手で破壊してでも』
親友の息子が放った、あまりにも真っ直ぐで、そして、あまりにも危険な言葉。
それは、俺が心の奥底で感じていながらも、必死に蓋をしていた感情を、容赦なく抉り出した。
(俺は、何をしている……?)
賢者として、森の民に敬われ、穏やかな日々を送る。
だが、その実態はなんだ? ただ、美しい置物として、この静かな檻の中で、緩やかに魂がすり減っていくのを待っているだけではないか。
かつて、竹内悟志だった頃の俺。社会から必要とされず、変化のない毎日の中で、ただ無力感に苛まれていた、あの頃の俺と、今の俺に、一体何の違いがあるというのだ。
セイオンを討ち、世界に平和をもたらした。
だが、その結果生まれたのが、この希望のない停滞だというのなら。
俺は、本当に世界を救ったと言えるのか?
苦悩が頂点に達した、その瞬間だった。
俺の魂の、最も深い場所で、二百年以上もの間、固く閉ざされていた扉が、軋むような音を立てた。
ぞわり、と。
全身の肌が粟立つような、異質な感覚。
俺の内に眠っていた、あの冷たい力が、俺の心の揺らぎに呼応するかのように、ゆっくりと脈動を始めたのだ。
エルドレアの死と引き換えに、カイランがその身に受けた、闇の大精霊ノクスとの契約。その、忘れかけていたはずの力が、今、俺の絶望を糧とするかのように、その存在を主張し始めていた。
『……力が、欲しいか?』
声がした。
それは、カイランの声ではない。もっと深く、冷たく、そして、甘美な響きを持つ、内なる声。
闇そのものが、俺に語りかけてくるかのようだった。
「……誰だ」
『我は、お前自身だ。お前が目を背けてきた、渇望そのものだ』
声は続ける。
『お前は、この停滞を憂いている。この腐敗を、憎んでいる。ならば、壊せばいい。お前の手で、この偽りの平和を』
その言葉は、悪魔の囁きのように、俺の心の隙間に染み込んでくる。
そうだ。俺には力がある。この世界を、もう一度、ざわつかせるだけの力が。
俺の身体から、微かに、黒い靄のようなオーラが立ち上り始めた。
部屋の空気が急速に冷え、テーブルの上の水差しが、カタカタと微かに震える。
闇の力が、俺の絶望に応え、その封印を解き放とうとしていた。
俺が、その抗いがたい誘惑に、身を委ねようとした、その時。
『――待て』
別の声が、頭の中に響いた。
弱々しい、しかし、どこか懐かしい、あの声。
(……カイラン……!?)
『その力に、心を委ねるな。それは、お前を救いはしない。ただ、深淵へと引きずり込むだけだ』
二百年の沈黙を破り、カイランの意識が、闇の奔流に抗うかのように、浮上してきたのだ。
だが、その声は、あまりにもか細い。
『……面白い。まだ、抗うか。光の賢者よ』
闇の声が、嘲笑う。
俺の頭の中で、二つの声がせめぎ合う。
変化を促す、甘美な闇の囁き。
それを制止しようとする、理性の光の声。
「ぐ……っ、あああああっ!」
俺は頭を抱え、その場にうずくまった。
魂が、二つに引き裂かれるような、激しい苦痛。
嵐は、もはや、窓の外だけではなかった。俺の内側で、光と闇の、壮絶な戦いが始まっていた。
隣室で、そのただならぬ気配を察したエルンが、ベッドから跳ね起きた。
彼女の顔には、これまでにないほどの、深い憂慮の色が浮かんでいる。
「カイン……! あなたの心に、一体、何が……」
彼女は杖を握りしめ、俺のいる書斎へと、駆け出そうとしていた。
森の賢者は、今、自らの魂の嵐の中で、一人、立っていた。
その先に待つのが、光か、闇か。
その答えを、まだ、誰も知らなかった。




