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50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく  作者: かわさきはっく
最終章 零(ゼロ)の賢者

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309/313

第309話 揺らぐ正義

 賢者の住居の書斎は静寂に満ちていた。

 かつては仲間たちの声や、古文書をめくる音で満たされていたこの場所も、今では、俺一人の、重い沈黙が支配している。

 俺は窓辺に立ち、二百年の時を経ても変わらぬ、穏やかな森の景色を眺めていた。木々は青々と茂り、精霊たちは楽しげに歌う。完璧なまでの平和。俺が、仲間たちが、命を懸けて守り抜いたはずの世界。

 だが、その景色が、今は、色褪せた絵画のようにしか見えなかった。


(……俺は、間違っていたのか……?)


 その問いが、ここ数十年、鉛のように重く、心にのしかかっている。

 水晶球を通して見た人間領の姿。活気を失い、富める者はさらに富み、貧しい者は希望すら持てずに生きる、緩やかな腐敗。それは、俺が憎んだ、元の世界の縮図そのものだった。

 争いをなくした代わりに、俺は、この世界から「変化」という名の熱を奪ってしまったのではないか。


 その、答えの出ない問いに苛まれ、俺の足は、自然と、書斎の隣にある、もう一つの部屋へと向かっていた。

 そこは、アルヴィンの私室だった。

 扉を叩くと、「どうぞ」という、落ち着いた声が返ってくる。


 部屋の中は、父であるカズエルが使っていた頃の面影を色濃く残していた。壁一面を埋め尽くす書棚、テーブルの上に広げられた精緻な理式の設計図、そして、微かに香る、古い羊皮紙とインクの匂い。

 その中心で、アルヴィンは、父の遺した書物を静かに読み解いていた。

 栗色の髪、理知的な黒い瞳。その横顔は、年々、親友の面影を強く宿していく。だが、その奥にある光は、父とは違う、彼自身のものだった。


「……賢者殿。何か、御用でしょうか」


 俺の姿を認めると、アルヴィンは書物を閉じ、静かに立ち上がった。

 その、どこまでも礼儀正しい態度が、今は、少しだけ寂しい。


「いや……少し、お前の考えが聞きたくなってな」


 俺は、部屋の椅子に腰を下ろした。


「アルヴィン。お前は、聡明だ。父君から多くのことを学び、母君からこの森の心を受け継いだ。……そんなお前から見て、今のこの世界は、どう映る?」


 俺の、あまりにも漠然とした問い。

 だが、アルヴィンは、その問いの裏にある俺の苦悩を、正確に読み取っていたようだった。

 彼は、しばらくの間、窓の外に広がる、完璧なまでに平穏な森を見つめていた。

 やがて、ゆっくりと、その口を開いた。


「……美しい、と思います。そして、……悲しいほどに、静かすぎるとも」


 その答えは、俺の心を、静かに、しかし深く抉った。


「父上は、よく話してくれました。あなた方、英雄たちが、いかにしてこの平和を勝ち取ったのか。その戦いは、あまりにも壮絶で、尊いものだったと。……ですが」


 彼は、俺の目を、真っ直ぐに見据えた。

 その瞳は、父カズエルのように、全てを見透かすような、鋭い光を宿していた。


「父上なら、きっと、こうも考えたでしょう。平和とは、ゴールではない。次なる時代へと向かうための、スタートラインに過ぎないと」


「……」


「今の世界は、あまりにも長く、そのスタートラインに立ち尽くしているように見えます。誰もが、ゴールテープを切った後の、心地よい疲労感に浸り、次の一歩を踏み出すことを、忘れてしまっている」


 アルヴィンの言葉は、刃のように、俺が目を背けていた現実を切り裂いていく。


「賢者殿。あなたは、自らがセイオンを討ったことを、後悔しておられるのですか?」


「……後悔、ではない。だが、迷っている」


 俺は、正直な気持ちを吐露した。


「奴の思想は、狂気だ。だが、奴が言っていた『行き過ぎた秩序は腐敗を生む』という言葉だけが、二百年の時を経て、まるで真実であったかのように、俺の心を縛るんだ」


「……父上なら、きっと、こう言ったでしょう」


 アルヴィンは、静かに、しかし、揺るぎない確信を込めて、その言葉を紡いだ。


「『問題があるのなら、解決策を探せばいい。既存のルールで解決できないのなら、新しいルールを、自ら作ればいい』と。……父上は、そういう人でした。世界の理そのものを、より良いものへと書き換えるためなら、いかなる努力も惜しまない。……時には、既存の秩序を、自らの手で破壊してでも」


 その言葉が、雷のように、俺の心を打ち抜いた。

 そうだ。松尾は、そういう男だった。

 諦めることを知らない。常に最適解を探し続ける。そのために、常識という名の壁を、いとも容易く乗り越えていく。

 俺は、親友の死という喪失感に囚われ、その最も大切な本質を忘れかけていた。


「……ありがとう、アルヴィン」


 俺は、ゆっくりと立ち上がった。


「お前の言葉で、少しだけ、霧が晴れた気がするよ」


「いいえ。私は、父上から聞いた話を、お伝えしただけです」


 アルヴィンは、静かに、そう言って、一礼した。

 俺は、彼の部屋を後にした。

 だが、俺の心は、もはや、以前のようには静まっていなかった。


 アルヴィンの言葉が、停滞していた俺の思考に、新たな、そして、危険な火を灯したのだ。

 既存の秩序を破壊してでも。

 その、あまりにも魅力的で、そして、あまりにもセイオンの思想に近い言葉が、俺の中で、大きな渦となって、ざわめき始めていた。

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