第307話 英雄の見る景色
賢者の住居の観測室。
その部屋の空気は、いつもひやりと冷たい。だが、今の俺の心の内にある氷のような虚無感に比べれば、まだ温かいとさえ思えた。
俺は、水晶球に映し出されたロルディア王国の姿から、目を逸らすことができずにいた。富める者たちの飽くなき贅沢と、貧しい者たちの声なき呻き。俺が命を懸けて守り、友がその礎となったはずの平和が、こんなにも醜く、歪んだ形で実を結んでいる。
(俺は、一体、何を守ったんだ……?)
その問いが、二百年の時を経て、今さらながらに、鉛のような重さで胸にのしかかる。
俺は世界を救ったのではない。
ただ、緩やかに死に向かう、安楽な眠りを与えただけなのではないか。
戦いも、苦しみもない代わりに、夢も、希望も、未来への渇望すらない世界。
そんな世界を、俺は、本当に望んでいたのだろうか。
「カイン」
静かな声に、俺は、はっと我に返った。
いつの間にか、エルンが、俺の背後に立っていた。その翡翠色の瞳には、俺の心を映したかのような、深い憂いの色が浮かんでいる。
「……また、王都を視ていたのですか」
「ああ」
俺は、短く応えることしかできなかった。
エルンは、俺の隣にそっと立つと、水晶に映る、停滞した街並みを静かに見つめた。
「……悲しい、光景です。ですが」
彼女は、言葉を選びながら、俺を慰めるように、その言葉を紡いだ。
「ですが、カイン。それでも、この二百年間、大きな戦はありませんでした。理不尽な暴力によって、命が奪われることはなかった。家族が、引き裂かれることもなかった。……それは、何物にも代えがたい、尊い平和だと、私は信じています」
彼女の言うことは、正しい。
エルフとして、永い時を生きる彼女にとって、命そのものが奪われないことこそが、絶対的な善なのだろう。
だが、俺の魂は、その正しさを受け入れることができなかった。
「……本当に、そうだろうか」
俺の声は、自分でも驚くほど、冷たく、そして乾いていた。
「戦で死ぬことはない。だが、希望を持てずに、ただ生きるためだけに働き、搾取され、緩やかに死んでいく。それは、本当に『生きている』と言えるのか? 俺には、そうは思えない」
俺は、水晶から視線を外し、エルンの、その美しい瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺がいた世界と、同じだ。生まれで全てが決まり、努力は報われず、ただ、決められたレールの上を歩くだけ。そんな世界を、俺は、この手で、また作ってしまったのかもしれない。……だとしたら、俺がセイオンを討ったことは、本当に、正しかったのか……?」
「カイン……!」
エルンが、悲痛な表情で俺の名を呼ぶ。
彼女は、俺の心の闇の深さに、ようやく気づいたのかもしれない。
俺が抱えているのは、この世界の現状に対する失望だけではない。元の世界で、何者にもなれなかった、竹内悟志としての、拭い切れない後悔と絶望。その二つが、二百年の時を経て、俺の中で、一つの巨大な怪物と化していた。
「……すまない。少し、一人にさせてくれ」
俺は、エルンの優しさから逃れるように、その場を後にした。
彼女の慰めの言葉は、今の俺には届かない。
なぜなら、この苦しみは、このエルフの身体ではなく、俺の、人間の魂そのものから、湧き上がってくるものなのだから。
俺は一人、賢者の屋敷のバルコニーに立ち、夕陽に染まる森を、ただ、見つめていた。
英雄が見る景色。それは、あまりにも美しく、そして、あまりにも、孤独だった。




