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50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく  作者: かわさきはっく
最終章 零(ゼロ)の賢者

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307/313

第307話 英雄の見る景色

 賢者の住居の観測室。

 その部屋の空気は、いつもひやりと冷たい。だが、今の俺の心の内にある氷のような虚無感に比べれば、まだ温かいとさえ思えた。

 俺は、水晶球に映し出されたロルディア王国の姿から、目を逸らすことができずにいた。富める者たちの飽くなき贅沢と、貧しい者たちの声なき呻き。俺が命を懸けて守り、友がその礎となったはずの平和が、こんなにも醜く、歪んだ形で実を結んでいる。


(俺は、一体、何を守ったんだ……?)


 その問いが、二百年の時を経て、今さらながらに、鉛のような重さで胸にのしかかる。

 俺は世界を救ったのではない。

 ただ、緩やかに死に向かう、安楽な眠りを与えただけなのではないか。

 戦いも、苦しみもない代わりに、夢も、希望も、未来への渇望すらない世界。

 そんな世界を、俺は、本当に望んでいたのだろうか。


「カイン」


 静かな声に、俺は、はっと我に返った。

 いつの間にか、エルンが、俺の背後に立っていた。その翡翠色の瞳には、俺の心を映したかのような、深い憂いの色が浮かんでいる。


「……また、王都を視ていたのですか」


「ああ」


 俺は、短く応えることしかできなかった。

 エルンは、俺の隣にそっと立つと、水晶に映る、停滞した街並みを静かに見つめた。


「……悲しい、光景です。ですが」


 彼女は、言葉を選びながら、俺を慰めるように、その言葉を紡いだ。


「ですが、カイン。それでも、この二百年間、大きな戦はありませんでした。理不尽な暴力によって、命が奪われることはなかった。家族が、引き裂かれることもなかった。……それは、何物にも代えがたい、尊い平和だと、私は信じています」


 彼女の言うことは、正しい。

 エルフとして、永い時を生きる彼女にとって、命そのものが奪われないことこそが、絶対的な善なのだろう。

 だが、俺の魂は、その正しさを受け入れることができなかった。


「……本当に、そうだろうか」


 俺の声は、自分でも驚くほど、冷たく、そして乾いていた。


「戦で死ぬことはない。だが、希望を持てずに、ただ生きるためだけに働き、搾取され、緩やかに死んでいく。それは、本当に『生きている』と言えるのか? 俺には、そうは思えない」


 俺は、水晶から視線を外し、エルンの、その美しい瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「俺がいた世界と、同じだ。生まれで全てが決まり、努力は報われず、ただ、決められたレールの上を歩くだけ。そんな世界を、俺は、この手で、また作ってしまったのかもしれない。……だとしたら、俺がセイオンを討ったことは、本当に、正しかったのか……?」


「カイン……!」


 エルンが、悲痛な表情で俺の名を呼ぶ。

 彼女は、俺の心の闇の深さに、ようやく気づいたのかもしれない。

 俺が抱えているのは、この世界の現状に対する失望だけではない。元の世界で、何者にもなれなかった、竹内悟志としての、拭い切れない後悔と絶望。その二つが、二百年の時を経て、俺の中で、一つの巨大な怪物と化していた。


「……すまない。少し、一人にさせてくれ」


 俺は、エルンの優しさから逃れるように、その場を後にした。

 彼女の慰めの言葉は、今の俺には届かない。

 なぜなら、この苦しみは、このエルフの身体ではなく、俺の、人間の魂そのものから、湧き上がってくるものなのだから。


 俺は一人、賢者の屋敷のバルコニーに立ち、夕陽に染まる森を、ただ、見つめていた。

 英雄が見る景色。それは、あまりにも美しく、そして、あまりにも、孤独だった。

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