第306話 腐敗の兆し
二百年の平和。
その言葉の響きは、甘く、そして心地よい。だが、その実態は、緩やかに進行する病に他ならなかった。俺が水晶球を通して見たロルディア王国は、その病巣そのものだった。
そして、その光景には、見覚えがありすぎた。
王都の貴族街は、二百年前とは比べ物にならないほど、その輝きを増していた。彼らが身にまとう絹の衣服は、一着で平民の数年分の生活費に相当するほどの価値を持つ。戦いの記憶はもはや遠い昔のおとぎ話となり、英雄たちの名は吟遊詩人が歌う叙事詩の中にしか存在しない。彼らは、先祖が築いた平和という名の遺産を、ただ食い潰すだけの存在へと成り下がっていた。
その、きらびやかな世界のすぐ隣で、闇は静かに、そして深く広がっていた。
平民街の空気は重く、淀んでいる。貴族たちの贅沢を支えるための重税は、民の暮らしを容赦なく圧迫し、その顔からは笑顔が消えて久しい。多くの人々は、硬いパンと薄いスープだけで、その日一日を生き延びるのが精一杯だった。
(……俺がいた世界と、何も変わらないじゃないか)
俺の脳裏に、竹内悟志として生きた、あの灰色の時代の記憶が蘇る。
生まれで、全てが決まる。親が裕福であれば子も裕福に。親が貧しければ、子は這い上がる機会すら与えられない。俺が生きた就職氷河期と呼ばれた時代。そこには、努力だけではどうにもならない、分厚く、冷たい壁があった。俺たちは、社会の都合で、そうやって切り捨てられた世代だった。
そして、最も深刻な腐敗の兆しは、かつてレオンハルト王がその治世で完全に根絶したはずの、あの制度の復活だった。
奴隷制度。
それは、巧妙に法の抜け穴を利用する形で、再びこの国に根を張り始めていた。
借金の形として、あるいは、些細な罪を犯した罰として。貧しい者たちは、その労働力だけでなく、尊厳すらも、富める者たちに買い叩かれる。一度その身分に落ちれば、二度と這い上がることはできない。それは、合法化された、緩やかな死刑宣告だった。
かつて、世界を救うために固く結ばれた三国同盟も、今やその形を失っていた。
エルフの森は外界との関わりを絶ち、ドワーフの都は自らの技術の探求にのみ没頭する。人間たちは、異種族への関心を失い、ただ自らの領地の中の、小さな権力争いに明け暮れていた。
二百年の平和は、種族間の絆すらも、風化させてしまったのだ。
(俺は、この世界に、同じものを作ってしまったのか……?)
俺は、その光景を、賢者の住居の観測室から、ただ、見つめていた。
水晶に映る、腐敗した平和。
それは、俺が守りたかった世界では、断じてなかった。
争いをなくした代わりに、希望を奪ってしまったのではないか。
その、拭い切れない後悔が、鉛のように重く、俺の心にのしかかる。
俺の心は、この世界の緩やかな死と歩調を合わせるかのように、静かに、そして確実に、闇の中へと沈んでいこうとしていた。




