第305話 二百年の眠り
親友カズエルの墓に最後の別れを告げてから二百年の歳月が流れた。
エルフの身体を持つ俺にとって、それは瞬きのようでありながら、あまりにも静かで、長く重い時間だった。
世界は平和だった。
セイオンという絶対的な「悪」が去った後、大きな争いも、世界を揺るがす厄災も起こらなかった。三国同盟は緩やかにその形骸を保ち、各種族は過度に干渉することなく、それぞれの領地でただ平穏な時を刻んでいた。
俺が命を懸けて守りたかったはずの、静かな世界。だが、その凪のような静けさは、俺の魂をゆっくりと、しかし確実に蝕んでいた。
***
賢者の住居の最上階。そこに設えた観測室で、俺は巨大な水晶球に手をかざしていた。
遠見の魔法。かつては世界の脅威を監視するために使ったこの術も、今では俺の退屈を紛らわすための、ただの窓となっていた。
水晶の向こうに映し出されるのは、人間の王国ロルディアの、二百年後の姿だ。
街並みは二百年前とほとんど変わらない。石畳の道、レンガ造りの家々。だが、そこに流れる空気は明らかに淀んでいた。活気がないのだ。
市場には品物が溢れている。だが、それを売買する人々の顔に、かつてのような熱気や興奮の色はない。ただ決められたものを、決められた値段で交換するだけの、無感情なルーチンワーク。
冒険者ギルドの掲示板にはもはや血湧き肉躍る討伐依頼など貼られておらず、家畜の捜索やドブさらいといった、生活のための雑務ばかりが並んでいる。
かつて、英雄たちの物語に目を輝かせた子供たちはもういない。彼らは皆、親と同じ仕事に就き、親と同じように、変化のない明日を迎えることを「幸福」だと教え込まれている。
平和の代償として、世界は「挑戦」という名の熱を失ってしまったのだ。
そして、その停滞は、より根深い「腐敗」を培養していた。
貴族街は二百年前よりもさらに豪華絢爛になり、その富は民衆からの搾取によって支えられている。一方で、平民街の路地裏では、痩せこけた子供たちが虚ろな目で座り込んでいる姿も珍しくない。
かつては固く禁じられていた奴隷制度も、「契約労働」という名の法の抜け穴を利用する形で実質的に復活し、貧しい者たちはその尊厳すらも富める者たちに買い叩かれている。
俺が、カズエルが、仲間たちが血を流して守ったはずの国。その姿は二百年の時を経て、熟しすぎた果実のように内側から腐り始めていた。
(……これが、俺が望んだ平和の結末か……?)
俺は水晶から手を放し、深く息を吐いた。
その時だった。脳裏にあの男の声が、二百年の時を超えて呪いのように蘇った。
『行き過ぎた秩序は停滞を生む。停滞は緩やかな腐敗だ』
筆頭神官セイオン。混沌の使徒。俺がこの手で討ち果たしたはずの最大の敵。
彼のあの歪んだ思想が今、この世界の現実そのものとなって、俺の正義を根底から揺さぶっていた。
俺は世界を救ったのではない。ただ緩やかに死に向かうための、安楽な眠りを与えただけなのではないか。
戦いも苦しみもない代わりに、夢も希望も、未来への渇望すらない世界。そんな「死んだような生」を俺は本当に望んでいたのだろうか。
答えは出なかった。
ただ賢者の憂鬱は、二百年という永い眠りの時を経て、より深く、そしてより暗いものへと変質し始めていた。
俺の心の揺らぎ。それこそが、この停滞した世界に新たな「ざわめき」を呼び覚ます、最初の兆候であることを――この時の俺はまだ知る由もなかった。




