第304話 賢者の憂鬱
セリスとアルヴィンが森に帰還してから、さらに幾星霜の時が流れた。
エルフェンリートの森は、永い、永い平和の只中にあった。季節は規則正しく巡り、木々は芽吹き、葉を茂らせ、そして静かに落葉する。精霊たちは穏やかに歌い、民は健やかに、昨日と同じ今日を、そして今日と同じ明日を生きていた。
その、完璧なまでの調和の中心に、俺、カインはいた。
賢者としての日々は穏やかすぎた。
森はあまりに平穏で、些事は民だけで事足りて、賢者を必要とするような事案は何一つ起こらなかった。俺の役割は、年に一度の儀式で大精霊エルメノスに祈りを捧げることと、時折訪れる民に、ただそこに在る象徴として、穏やかに微笑みかけることだけだった。
誰もが俺を「カイン様」と呼び、敬う。だが、そこに切実な願いはない。俺は、この森にとって、美しい置物のような存在となっていた。
だが、俺の心は、その穏やかな日常の中で、ゆっくりと確実に、色を失っていった。
その日も、俺は賢者の住居の書斎で、ただ窓の外を眺めていた。かつてはエルドレアが遺した膨大な記録の整理に没頭したこの場所も、今では全ての作業が終わり、ただ時が過ぎるのを待つだけの空間となっていた。
インクの匂いも、羊皮紙の乾いた感触も、遠い記憶だ。
(……また、一日が、終わる)
窓の外に目をやると、夕陽が森を茜色に染めていた。美しい光景のはずなのに、その色彩が、俺の心には届かない。二百年前、カズエルが死んだあの日から、俺の世界は、どこかモノクロームのように、くすんで見えた。
賢者の住居に戻ると、エルンが温かい夕食を用意して待っていてくれた。
テーブルには、森で採れた新鮮な野菜のサラダと、焼きたてのパン、そして湯気の立つシチューが並んでいる。その傍らで、ルナと、すっかり精悍な青年へと成長したアルヴィンが、何やら魔法理論について、楽しげに議論を交わしていた。
「だから、炎の魔力はね、ただ大きくすればいいってもんじゃないの! いかに高密度に圧縮して、一点を焼き切るかが大事なんだって!」
「ですがルナ姉さん、それではエネルギー効率が。父上の理式によれば、広範囲を均一な熱量で飽和させる方が、結果的に総消費魔力は……」
微笑ましい光景だ。
だが、俺はその輪の中に、うまく溶け込むことができなかった。
「カイン、どうかしましたか? 顔色が……」
エルンが、心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女の翡翠色の瞳には、深い愛情と、そして、拭いきれない憂いの色が浮かんでいた。
俺は無理に笑みを作って見せた。
「いや、何でもない。少し、考え事をしていただけだ」
嘘だった。
俺は何も考えてなどいない。ただ、虚無が心を支配しているだけだ。
食事を終え、俺は一人、夜の森を散策していた。月明かりが、静かな木々を銀色に照らし出している。
この森は、何も変わらない。百年前も、二百年前も、そしておそらく、千年後も。
だが、俺の知る世界は、もうどこにもない。
二百年の時は、多くのものを変えた。レオナルドは森の守護者としての役目を次代に譲り、今は自らの道場を開いて若者たちの育成に励んでいる。セリスもまた、剣を置き、アルヴィンの成長を静かに見守る母となった。彼らはエルフとして、それぞれの時の流れの中で、穏やかに、しかし確実に変化している。
だが、俺だけが、取り残されている。親友の笑い声も、共に戦った日々の熱も、永すぎる時の流れの中で、少しずつ、その輪郭を失い始めている。
その時、俺は、心の底から理解した。
カイランが、かつて俺に語った、あの言葉の意味を。
『本来の森とは、人間の感覚で言えば、すぐにでも死にたくなるほどに、退屈なものだ』
それは、ただの退屈などではなかった。
目的を失い、変化を失い、ただ永い時の中を、同じ場所で漂い続けることの、魂がすり減っていくような、静かな絶望。
俺は、この完璧な平和の中で、緩やかに死につつあったのだ。
「カイン」
背後から、エルンの声がした。彼女は、薄いショールを肩にかけ、俺の隣に静かに立った。
「……また、カズエル様たちのことを、考えていたのですか?」
その問いに、俺はもう、嘘をつくことができなかった。
「……ああ」
俺は振り返り、彼女の心配そうな瞳を見つめ返した。そして、心の奥底に溜め込んでいた、どうしようもない苦悩を、初めて言葉にした。
「なあ、エルン。俺は、この身体はエルフだが……魂は、やっぱり人間なんだと思い知らされたよ」
「カイン……?」
「二百年だ。この森に来てから、もう二百年以上が過ぎた。お前たちにとっては、瞬きのような時間だったかもしれない。だが、俺にとっては……あまりにも、永すぎた。人間の寿命は、百年にも満たない。その先があるなんて、考えたこともなかったんだ。毎日が同じことの繰り返し……戦いも、大きな変化もない、この穏やかな日々が、人間である俺の心を、少しずつ殺していくのが分かる。……俺は、この永い時間を、どうやって生きていけばいいのか、分からなくなってきてるんだ」
それは、賢者でも英雄でもない、ただの竹内悟志としての、魂からの叫びだった。
エルンは俺の告白を、ただ黙って聞いていた。
やがて彼女は、俺の冷たくなった手を、その両手で、そっと包み込んだ。
「……ええ。私には、あなたのその痛みの、本当の深さは、分からないのかもしれません」
彼女の声は静かだったが、その瞳には、深い共感と、揺るぎない愛情が宿っていた。
「ですが、カイン。一つだけ、忘れないでください。あなたは、一人ではありません」
彼女は、一歩、俺に近づいた。
「あなたが人間としての心を持つからこそ、私たちは救われました。あなたが、時の流れに苦しむのなら、私が、あなたの隣で、その手を引き続けます。千年でも、一万年でも。……あなたが、あなたでいられるように」
その、あまりにも温かい言葉。
俺は、目頭が熱くなり、何も答えられなかった。
ただ、彼女が握ってくれた手の温かさだけを、確かめるように、強く、握り返した。
しばらくそうしていると、エルンは俺の心を察したように、そっとその手を離した。
「……今夜は冷えます。あまり、長く外にいてはなりませんよ」
そう言い残し、彼女は静かに賢者の住居へと戻っていった。その背中には、俺を一人にしてくれる優しさと、それでもなお拭いきれない憂いが滲んでいた。
残された俺は、天を仰いだ。
星々は、二百年前と何も変わらず、ただ、冷たく輝いている。
俺が守りたかったはずの、この平和な世界。
それが今、俺を閉じ込める、美しい檻となって、その壁の冷たさだけを、俺に教え続けていた。




