第301話 永い平和と友の旅立ち
混沌の使徒、筆頭神官セイオンが俺たちの手によって討たれてから、五十年の歳月が流れた。
世界は、まるで永い悪夢から覚めたかのように、穏やかな光を取り戻していた。エルフの森、人間の王国ロルディア、ドワーフの都グラムベルクは、かつてないほど強固な三国同盟を結び、互いの種族と文化を尊重し合う、平和な時代を築いていた。魔族領もまた、無益な争いは完全に鳴りを潜めていた。
世界は、俺たちが命を懸けて勝ち取った、穏やかな光の中にあった。
俺は賢者としてエルフェンリートの森に帰還し、エルン、そしてルナと共に、静かな日々を送っていた。書庫に籠って伝承を編纂し、森の民の相談に乗り、時には子供たちに簡単な魔法を教える。戦いのない日常。それは、かけがえのない宝物だった。
「カイン様、今日の午後は、若手の戦士たちへの体術指南でしたね。お忘れなく」
「カイン、お昼ご飯できたよー! 今日は森で採れたキノコのスープ!」
書斎で古文書の解読に没頭していると、エルンとルナが顔を出す。五十年の時は、エルンをさらに思慮深い女性に、ルナを太陽のように明るい娘へと成長させていた。この光景も、すっかり見慣れた日常だ。俺はペンを置き、二人の声に応える。
「ああ、わかってる。スープ、美味そうだな。すぐ行くよ」
この平穏が、ずっと続けばいい。
心の底から、そう願っていた。
だからこそ、王都から届いた一羽の精霊便がもたらした報せは、俺の心を深く揺さぶった。
「……カズエルが、病に?」
手紙を読み終えた俺の呟きに、エルンとルナが息を呑む。
差出人はセリスだった。そこには、夫であるカズエルが老衰により病床に伏し、もはや残された時間は長くない、とだけ、簡潔に記されていた。
人間としての寿命。
エルフである俺たちにとっては、まだ遠い未来にあるはずの、その絶対的な摂理。それが、親友の身に、今まさに訪れようとしていた。
俺はエルンとルナを伴い、急ぎ王都へと向かった。
三国同盟の礎を築いた英雄の来訪に、王都は静かに、しかし敬意をもって俺たちを迎えた。案内されたのは、かつて俺たちが拠点としていた屋敷ではなく、王宮に隣接する、カズエルとセリスが暮らす壮麗な邸宅だった。
寝室の扉を開けると、薬草の匂いと、そして、紛れもない「死」の気配が、俺の鼻をついた。
ベッドに横たわっていたのは、俺の知る親友の姿ではなかった。髪は白く、その顔には深い皺が刻まれ、その呼吸は、あまりにも弱々しい。五十年の歳月は、彼を、穏やかな老人へと変えていた。
「……よう、竹内。……わざわざ見舞いに来てくれたのか」
俺の姿を認めると、カズエル――松尾和浩は、かすれた声で、昔と変わらない悪戯っぽい笑みを浮かべた。
その傍らで、セリスが潤んだ瞳で静かに控えている。彼女の美しさは時を経ても変わらない。だが、その表情には、愛する者を失おうとしている、深い悲しみが刻まれていた。
「……馬鹿野郎。見舞いに決まってるだろうが」
俺はベッドの脇に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。言葉が、うまく出てこない。
俺たちは、元の世界で、五十を過ぎたおっさん同士だった。だが、この世界で、俺はエルフとして若さを保ち、彼は人間として、再び、その生の終焉を迎えようとしている。その残酷なまでの対比が、俺の胸を締め付けた。
「……まあ、見ての通りだ。どうやら俺の冒険も、ここまでのようだな」
カズエルは、自嘲気味に笑った。
「……後悔は、ないのか」
俺の問いに、彼は、ゆっくりと首を横に振った。
「ないな。……むしろ、最高の人生だった」
彼はセリスの手を、その皺だらけの手で、優しく握った。
「愛する妻と、自慢の息子に恵まれた。お前という最高の親友と、肩を並べて戦うこともできた。『神授の媒介者』なんて、大げさな名前までもらってな。……元の世界で、ただのプログラマーとして死んでいくはずだった俺にしちゃ、上出来すぎる人生だ」
その言葉に、セリスの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
エルンとルナもまた、部屋の隅で、静かに涙を流している。
「……カイン」
カズエルが、俺の名を呼んだ。
「一つだけ、頼みがある。……息子、アルヴィンのことだ。あいつは、俺の頭脳と、セリスの剣を受け継いだ。だが、ハーフエルフとして、これから多くの困難に直面するだろう。……どうか、あいつのこと、時々でいい、気にかけてやってはくれないか」
「……当たり前だろ」
俺は声を震わせながら、力強く頷いた。
「あいつは、俺にとっても、息子みたいなもんだ。……任せろ」
「……そうか。……なら、安心だ」
カズエルは、心の底から安堵したように、深く、息を吐いた。
そして、その瞳から、ゆっくりと、光が失われていく。
「……なあ、竹内。……俺たちの、あの約束……。ちゃんと、果たせたよな……?」
「ああ」
俺は、彼の冷たくなっていく手を、強く握りしめた。
「ああ、果たせたさ。……俺たちは、二人で、ちゃんと無双した」
「……そっか……。……なら、よかった……」
その言葉を最後に、カズエルの呼吸は、完全に止まった。
静かな、あまりにも穏やかな、大往生だった。
俺は、動かなくなった親友の亡骸を前に、ただ、立ち尽くしていた。
胸にぽっかりと穴が空いたような、埋めようのない喪失感。
エルフとして、これから永い時を生きる俺にとって、これが、友との、最初の、そして、あまりにも大きな、別れだった。




