第300話 混沌の終焉、そして…
柔らかな光が、瞼の裏を優しく照らす。
微かに聞こえるのは、鳥のさえずりと、穏やかな風が木の葉を揺らす音。鼻腔をくすぐるのは、懐かしい薬草の香り。
俺はゆっくりと、意識の浮上を感じていた。
「……ん……」
重い瞼をこじ開けると、そこには見慣れた賢者の住居の木の天井があった。
そして、その視界の端に、二つの影が映り込む。
「……カイン!」
「カイン、目が覚めたの!?」
心配そうに俺の顔を覗き込む、エルンとルナの姿があった。その瞳は潤み、憔悴しきった彼女たちの顔には、安堵の色が浮かんでいる。
「……ああ。俺は……」
横になったまま、俺は霞のかかった記憶を探る。
確か、セイオンを倒して……森の民の歓声の中で、勝利を宣言したはずだ。だが、その後の記憶が、ぷつりと途切れている。
俺がゆっくりと身体を起こそうとすると、ルナが嬉しそうに飛び跳ねた。
「わーい! 本当に起きた! ちょっと待ってて、カズエルたちを呼んでくる!」
そう叫ぶと、彼女は小さな嵐のように部屋を飛び出していった。
残された部屋で、エルンが俺の手にそっと自身の手を重ねた。その指先は、少しだけ冷たく、震えていた。
「……よかった。本当に……」
「エルン、俺は、どれくらい眠っていたんだ?」
「一月です」
彼女は静かに告げた。
「あなたは、勝利の宣言をした直後に倒れました。まるで魂だけがどこかへ行ってしまったかのように、糸が切れた人形のように……。息も、脈も、ほとんど感じられず、まるで死人のように、ただ、動かなくなってしまった」
その言葉に俺は息を呑んだ。
あの時、俺の身体に何が起きていたのか。その答えを、部屋に飛び込んできた親友が、もたらしてくれた。
「カイン!」
ルナに呼ばれ、カズエルがセリスと共に駆け込んできた。
その二人が、無事な姿で、そこに立っている。アーカイメリアでの過酷な戦いを乗り越えた、頼もしい仲間たちの姿。
「カズエル、セリス……! よかった、無事で……」
俺が安堵の笑みを浮かべた、その瞬間だった。
「――ふざけるな、竹内ッ!!」
カズエルの、これまでに聞いたこともないほどの怒声が響き渡った。
彼は俺の胸倉を掴み、その瞳は、怒りと、そして、心の底からの恐怖に、わなないていた。
「お前、自分が何をしたか、分かっているのか!? 魂を代償にする魔法なんて、禁術中の禁術だ! カイランの記憶にあったからといって、安易に手を出していいものじゃない!」
「……!」
「アーカイメリアから戻ってきて、お前の状態を見た時、血の気が引いたぞ。魂が肉体から乖離しかけていた。ただの魔力切れじゃない、魂そのものが消えかかっていたんだ! エルンの治癒魔法も、森の術師たちの力も、表層を撫でるだけで届かなかった!」
彼の叱責は、俺の胸に深く、深く突き刺さった。
そうだ、俺は確かに、魂を代償にした。
脳裏に、カイランの最後の警告が蘇る。『二度と安易に使うな。次はないと思え』と。
だが、俺は心の中で、静かに反論していた。
(安易に使ったんじゃない。あの瞬間、仲間を、エルンを守るためには、あれしか道はなかった。俺は、覚悟して使ったんだ)
俺はカズエルの、親友の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……ああ、分かってる。カイランにも止められてた。次はない、ともな」
俺は一度、言葉を切った。そして、少しだけ、悪戯っぽく笑ってみせた。
「でもな、松尾。俺はどうしても、セイオンを倒したかった。それに……お前みたいな、優秀すぎる仲間がいるんだ。俺がどんな無茶をしたって、最後には、何とかしてくれるって、頭の隅にあったんだ」
その、あまりにも俺らしい不器用な信頼の言葉。
カズエルは、一瞬だけ呆気に取られたような顔をしたが、やがて、その目から怒りの色が消え、深々と、大きな溜息をついた。
「……そういう、とこだよ、お前は……」
彼は、俺の胸倉を掴んでいた手を、そっと放した。そして、その手で、俺の肩を、一度だけ、強く叩いた。
その無言の感触が、親友の、心の底からの安堵を、何よりも雄弁に物語っていた。
俺は隣で泣きじゃくっているルナと、静かに涙を流すエルンを、そっと両腕で抱きしめた。
「……ただいま」
その一言に、二人は嗚咽を漏らしながら、強く頷いた。
数日後、完全に回復した俺は、森の民が集まる議事堂の前に立っていた。
俺は自らの回復を報告し、そして、改めて、この森と共に生きていくことを、高らかに宣言した。
その言葉に、長老会の面々も、森の民たちも、これまでにないほどの、温かい拍手を送ってくれた。
レオナルド、ヴィンドール、ミラネは、それぞれの務めに戻っていた。セイオンに受けた傷は深く、森の治癒術師たちの手を焼かせたが、皆、無事に治療を終えていた。彼らは今、森の復興のために力強く動き始めている。
混沌のない日常。それが、ようやく、この森に訪れた。
アーカイメリアの顛末は、後にカズエルから聞いた。
セイオンが暴走させたゴーレムによって、都市は大きなダメージを受けたらしい。彼の所有施設は、約束通り三国同盟に明け渡されたが、その全てが、ゴーレムによって破壊し尽くされた後だったという。
今、アーカイメリアはヴァレリウスを中心に、混沌の使徒を排斥し、知の殿堂としての誇りを取り戻すため、再建の道を歩んでいるとのことだった。
そして、俺たちの仲間にも、一つの、大きな転機が訪れた。
夕暮れの光の中、カズエルとセリスは、少し照れくさそうに、しかし、晴れやかな顔で、俺たちに告げた。
「俺たちは、二人で、ロルディアに住もうと思う」
「えっ!?」とルナが驚きの声を上げる。
「まあ、なんだ」カズエルは頭を掻いた。
「俺は人間だし、エルフだらけの森では、正直、少し浮いている。それに、俺もセリスも、王都では英雄として求められている。あっちで、俺たちの新しい生活を始めてみたいんだ」
その決断を、俺たちは寂しさを感じながらも、心から祝福した。
森の入り口で、俺とエルン、ルナの三人は、旅立つ二人を見送った。
「また、いつでも会えるからな」
カズエルとセリスは、手を振りながら、夕陽の中へと消えていく。
その背中を見送りながら、俺は隣に立つエルンへと、そっと、向き直った。
「エルン」
「はい」
「俺も、約束する。この森で、お前と二人、手を取り合って、生きていこう」
その言葉にエルンは、幸せそうに涙を浮かべて、静かに頷いた。
二人の間に、温かい空気が流れる。
その、甘い雰囲気を、ルナの元気な声が盛大に割り込んだ。
「もっちろん、ルナも一緒だからねっ!」
彼女は、俺とエルンの間に、えいっ、と飛び込んでくる。
俺たちは顔を見合わせ、そして、腹の底から笑い合った。
この森から始まって、本当に、色々あった。
追放され、仲間と出会い、世界を揺るがす敵と戦い、多くのものを失い、そして、それ以上に多くのものを得た。
元の世界で、何者でもなかった俺が、今、ここにいる。
俺は大切な二人の仲間を、その腕で強く抱きしめた。
今なら、自信を持って言える。
これが、幸せだ、と。
第十七章・完




