第288話 故郷への道、焦燥の蹄
その日、エルフェンリートの森は嵐の前の静けさと呼ぶにはあまりにも穏やかな陽光に包まれていた。賢者の屋敷の書斎。ミラネは山と積まれた古文書の整理にあたっていた。カインが不在の間、この森の知を守り、未来へと繋ぐ。それが、留守を預かる彼女の役目だった。
その静寂を切り裂くように、一羽の小鳥が、まるで燃え尽きるかのように翼をばたつかせながら、開かれた窓から転がり込んできた。
学術都市アーカイメリアにいるはずのエルンから放たれた、緊急の精霊通信だ。
ミラネは小鳥の足に結ばれた羊皮紙を震える手で解き、そこに記された絶望的な警告に目を通した瞬間、血の気が引くのを感じた。
「ワイバーンロード三体が森を襲撃する。急ぎ対処せよ――」
最悪の事態だった。カインが率いる連合軍に森の戦士たちの多くが参加している今、この故郷の守りはあまりにも手薄い。
だが、悲しみに暮れている時間はない。
彼女は弾かれたように立ち上がると、議事堂へと駆け込み、森全体に危険を知らせるための警鐘を自らの手で打ち鳴らした。
カン、カン、カン、カン……! カン、カン、カン、カン……!
甲高い鐘の音が平和な森の空気を切り裂く。民は家々から飛び出し、不安げに空を見上げた。
「皆、落ち着いて聞いてください! 敵襲です! すぐに子供と老人を大樹の地下聖域へ避難させて!」
ミラネは即座に指示を飛ばす。残された数少ない戦士たちが、民の避難誘導と、貧弱な防衛線の構築を急ぐ。だが、誰もがその顔に絶望の色を隠せずにいた。伝説級の竜が三体。勝てる道理がなかった。
その混乱の中、一人の老エルフが、ミラネの元へと静かに歩み寄ってきた。賢者の職を辞し、隠居していたはずのヴィンドールだった。
「口出しはせん……わしにも、手伝わせてくれ」
その声にはかつての傲慢さはなく、ただ故郷を憂う者の悲痛な覚悟がにじんでいた。
「ヴィンドール様……」
ヴィンドールは杖を突き、集まってきた民と戦士たちを前に腹の底から声を張り上げた。
「顔を上げよ、我が同胞よ! 竜の脅威が迫っておる! だが、怯えることはない! この森は我らの庭だ! 木々の一本、風の流れ一つに至るまで、我らの味方ぞ! 精霊は今こそ我らに最大限の加護を与えるだろう! 地の利はこちらにある!」
かつての保守派の筆頭、厳格なる長老の檄。それは、恐怖に凍りついていた民の魂に火を点けた。
ミラネもまた、声を張り上げる。
「賢者カイン様は、必ず戻られます! 私たちはその時まで、この森を、私たちの故郷を、この手で守り抜くのです!」
かつて対立していた二人の言葉が一つになり、森の民の心を奮い立たせた。
「おおおっ!」
決意の雄叫びが森中に響き渡る。
神殿の周囲では魔術師たちが総出で結界の強化を急ぎ、戦士たちは大樹の枝を利用して対空用の弩を構える。
森全体が一つの意志を持った要塞へと変貌していく中、空の彼方から、圧倒的な死の気配が急速に近づいていた。
***
――森へと急ぐ者たち
ドドドドドドッ……!
駆ける馬の蹄が荒野の大地を叩き続けていた。俺たちは、ただひたすらに森を目指す。
「ルナ、また何か見えたのか?」
馬上で身を乗り出し、俺は叫んだ。心臓が焦燥に焼かれるようだった。
『学術都市』を離脱してから、昼夜を問わず馬を駆り続けている。
エルンが風の魔法で馬の疲労を和らげ、レオナルドが最短の獣道を切り開く。それでも、目的地はあまりに遠かった。
「見えてる……ずっと見えてるよ!」
俺の後ろに座るルナが、必死の形相で前方を指差す。彼女の瞳には現実の風景ではない、未来の光景が焼き付いていた。
「三つの大きな影……やっぱり、まっすぐ森に向かってる。少しも迷ってない」
「目標が定まっている、ということか」
レオナルドが馬上で振り返ることなくつぶやく。
「うん。でもね……」
ルナの声が恐怖に震えた。
「ただ森を襲うんじゃない。……たった一つの場所を目指してる」
「なんだって?」
俺が聞き返すと、ルナは悲痛な表情で、その目的地を告げた。
「あれは……『賢者の神殿』だよ……!」
その名を聞いた瞬間、エルンの顔から血の気が引いた。
「そんな……! あそこは、大精霊エルメノス様が御心を取り戻された、森の力の源泉です! もし、神殿が破壊されるようなことがあれば、森は……今度こそ本当に……!」
森の死。それは、ルナがかつて悪夢として視た、あの絶望的な未来そのものだった。
「戦略的にも、あまりに的確すぎる一手だ」
レオナルドが奥歯を噛みしめる。
「これは、ただの破壊ではない。森という存在そのものを完全に殺すための、明確な一手だ。……セイオンめ」
全てのピースが繋がった。
セイオンは俺たちを『学術都市』に引きつけている間に、俺たちの帰るべき場所、力の源、その全てを根こそぎ破壊するつもりなのだ。俺が、仲間たちが、何のために戦い、何を守ろうとしてきたのか。その意味そのものを無に帰そうとしている。
「……っ!」
俺は無言で、さらに馬の腹を蹴った。限界を超えて走る馬に心の中で詫びながら、俺はただ、前だけを見据える。
(守らなければ……)
エルドレアが、カイランが、そして森の民が俺に託してくれた、あの穏やかな日々。ようやく一つになった、あの故郷。それをこんな理不尽な悪意に踏みにじられてたまるか。
どれほどの時間が過ぎただろうか。エルンが俺の側に馬を寄せてきた。
「カイン、もう少しよ!」
彼女の叫び声にも、焦りの色が濃い。
「見えた……!」
先頭を走っていたレオナルドの声に、俺たちは丘の稜線へと馬を乗り上げた。
地平線の先に見慣れた森の輪郭が、黒い影となって浮かび上がっている。
だが、それは俺たちが知る、穏やかな故郷の姿ではなかった。
森の上空、巨大なドーム状の魔法結界が、まるで嵐の中の小船のように激しく揺らめいている。
その表面で、三つの点滅する赤い光――ワイバーンロードが吐き出す極大のブレスが、絶え間なく炸裂していた。
ゴオオオオオオッ!!
大地を震わせるような咆哮と爆発音が、風に乗ってここまで届いてくる。
戦いはすでに始まってしまっている。
俺は手綱を握りしめる手に爪が食い込むのも構わずに、ただ心の底から叫んでいた。
(頼む、持ち堪えてくれ……!)
俺たちの帰還は果たして間に合うのか。その答えは燃え盛る故郷の空だけが知っていた。




