第274話 生命の賢者と奇跡の触媒
再び訪れた『学術都市』の空気は以前にも増して冷たく、そして静謐に満ちていた。
天を突く白亜の塔、光を反射する水晶の橋。完璧なまでに秩序化された街並みは、訪れる者を拒むかのような威圧感を放っている。
レオナルドとセリスの腕を治すという重い使命を胸に、俺たちはこの街の異様な静けさの中を進んだ。
「よし、まずはヴァレリウス様のところへ行こう。事情を話せば、きっと力になってくれるはずだ」
カズエルの先導で俺たちは大書庫の奥、禁書庫の一画にあるヴァレリウスの書斎へと向かった。
書斎の主は以前と変わらず、山と積まれた古文書の中で静かに書物を読みふけっていた。
俺たちの来訪に気づいたヴァレリウスは穏やかに顔を上げた。だが、その視線がレオナルドとセリスの姿を捉えた瞬間、驚愕に目を見開いた。
「……その腕はいったい……。何があったのじゃ」
その問いに、カズエルが代表してこれまでの経緯を語り始めた。
古竜マグナ・イグニスとの死闘、仲間たちが負ったあまりに大きな代償、そして、最後の希望として手に入れた『ドラグハート』について……。
話を聞き終えたヴァレリウスはしばらくの間、黙していた。彼の瞳には俺たちが負った犠牲への深い同情と、ドラグハートという未知の存在への学術的な興味が複雑に交錯している。
「……そうか。そのような壮絶な戦いを……」
彼は深く息を吐くと、静かにうなずいた。
「……わかった。この都市で、その分野を任せられる者はただ一人しかおらん。わしの古くからの友人じゃ。……こちらへ」
ヴァレリウスに導かれ、俺たちは大書庫の生命科学研究棟へと足を踏み入れた。
そこはこれまでの書庫とは明らかに異質な空間だった。
薬草の匂い、錬金術に用いられる鉱物の微かな金属臭、そして、何かの標本を保存するための液体が放つ独特の刺激臭。
生命科学。この世界における最も神の領域に近い学問。その研究室がここにあった。
部屋の中央で巨大な水晶の培養槽を拡大鏡片手に見つめている一人の小柄な神官がいた。
白衣をまとった華奢な体つきの女性。その瞳は少女のように飽くなき探究心と好奇心に輝いていた。
「エリアーデよ。客人を連れてきたぞ」
ヴァレリウスの声に老神官――生命科学の権威、エリアーデはゆっくりとこちらを振り返った。
「あら、ヴァレリウス。お客様なんて珍しいわね」
エリアーデは俺たちに穏やかな視線を向けた。
俺は懐から、厳重に布に包んだドラグハートの欠片を取り出し、彼女の前に差し出した。
「これを見ていただきたい」
欠片から放たれる、穏やかで、しかし圧倒的な生命力の波動。それに触れた瞬間、エリアーデの瞳が大きく見開かれた。
「これは……」
彼女は震えを抑えた手で慎重に欠片を受け取ると、すぐさま拡大鏡を取り出し、その内部構造を食い入るように見つめ始めた。
「……信じられない。これほど高純度の生命エネルギー……。神話の時代の遺物、ドラグハート。……実物を見るのは初めてだわ」
彼女は顔を上げ、カインたちを見据えた。
「それで……この奇跡の触媒で私に何をしろと?」
カズエルがレオナルドとセリスの腕について説明すると、エリアーデの瞳の奥に、長年の探求が実を結ぶ瞬間の、静かだが強い光が灯った。
「……そう。……そうでしたか。ならば、可能かもしれません。……私の生涯をかけた理論が」
「先生の理論、と申しますと?」
「ええ」
エリアーデは興奮を抑えるように一度ゆっくりと息をつき、書棚から一枚の巨大な設計図を取り出した。
「私が生涯をかけて探求してきた、究極の再生術式……『魂からの肉体再構築』です」
彼女はその設計図を俺たちの前に広げた。そこに描かれていたのは、人体の構造図と、それを寸分の狂いもなく再現するための、緻密な理式の数々だった。
「魂には、その者が最も健康であった時の肉体の完全な情報が記録されています。この理式は、その魂の情報を読み取り、外部から供給される高純度の生命エネルギーを触媒として、失われた肉体を再構築するというもの。……これまでは触媒となるほどの生命エネルギーが存在せず、ただの机上の空論でした。でも」
彼女はドラグハートの欠片を、そっと掲げた。
「この奇跡の触媒があれば、私の理論は現実のものとなり得るのです」
カズエルがその設計図を信じられないといったように、しかし専門家としての鋭い目で、食い入るように見つめている。
「……すごいな。生命の設計図をここまで精緻に、論理的に記述するとは。……これなら確かに可能かもしれない」
カズエルのその一言が、俺たちの最後の希望を確かなものへと変えた。
「エリアーデ様。どうか、我々の仲間を……」
俺が頭を下げると、エリアーデは研究者としての静かな誇りを込めて、力強くうなずいた。
「……わかりました。お任せください。この世紀の研究を私の手で、必ず成功させてみせましょう」
絶望の淵で見つけたドラグハートという最後の光。それが今、この知の殿堂で確かな奇跡の軌跡を描き出そうとしていた。




