第269話 底知れぬ混沌
古竜の心臓――ドラグハート。
主を失った今もなお、尽きることのない生命力を宿し、力強く脈動する神話の遺産。それは、失われた仲間たちの腕を取り戻すための、唯一にして、最後の希望だった。
だが、その希望を俺たちに示したのは、この全ての悲劇を、まるで盤上の駒を動かすかのように操っていた張本人、セイオンだった。
俺は、竜の心臓から視線を外し、ゆっくりと、彼に向き直った。
仲間を救えるかもしれないという安堵よりも、今は、この男への、腹の底から湧き上がるような、冷たい怒りの方が遥かに強かった。
「お前の、真意は何だ」
俺の問いに、セイオンは、ただ静かに微笑んでいる。
その、全てを見透かすような態度が、俺の怒りに、さらに火を注いだ。
「お前がしてきたことは許せない。いずれ必ず、お前を討つ」
それは、賢者としてではなく、ただ一人の男としての、揺るぎない誓い。
俺の、明確な敵意が込められた言葉。
だが、セイオンは、その宣言を、まるで子供の癇癪でも聞くかのように、穏やかに受け流した。
「……賢者というには、いささか短慮だな」
彼の声には、侮蔑も、怒りもなかった。ただ、出来の悪い生徒を見るかのような、失望の色だけが浮かんでいた。
「君が討つべきは、私ではない。君自身の『選択』がもたらす、未来の『混沌』のはずだ。……それとも」
セイオンは、その視線を、地に伏せるレオナルドとセリスへ、ゆっくりと移した。
「私への復讐と、仲間の命とを、天秤にかけるというのか? 今は仲間の治療を優先すべきでは?」
その言葉は刃のように俺の心を抉った。
そうだ。この男に、今、怒りをぶつけたところで、何の意味もない。俺には、やるべきことがある。守るべき仲間がいる。
俺は唇を強く噛みしめ、それ以上、言葉を返すことができなかった。
「……賢明な判断だ」
セイオンは満足げに頷くと、俺たちに興味を失ったように静かに背を向け、何事もなかったかのように瓦礫の中を歩き去っていった。
その背中に、剣を抜き、斬りかかりたい衝動に駆られた。だが、気力も、魔力も尽きた俺の剣など、奴に届くはずもないだろう。仲間たちもまた、疲弊しきっている。レオナルドとセリスは、腕を失い、もはや戦える状態ではない。何より、この男は、古竜の動きすら止めてみせた、理の外の存在だ。今の俺たちが、束になってかかったところで、果たして、その衣の裾に、刃が届くかどうか……。
現状では、奴を止める術はない。俺たちは、ただ、その背中を、見送ることしかできなかった。その、あまりにも屈辱的な事実を、歯を食いしばって、飲み込むしかなかった。




