第268話 ドラグハート
「いやだ……! 治らないなんて、そんなのって……」
ルナの悲痛な叫びが、氷獄の静寂に突き刺さった。
エルンの癒しの光が消えた後、そこには、血こそ止まったものの、無残に失われた仲間たちの腕と、なすすべもないという、絶対的な絶望だけが残されていた。勝ったはずだった。だが、俺たちの目の前にあるのは、あまりにも大きな、取り返しのつかない代償だった。
その、絶望に満ちた空気を楽しむかのように、筆頭神官セイオンが、静かに口を開いた。
「……おや、もう終わりかね? 『神授の媒介者』ともあろう者が、その程度のことで思考を停止させてしまうとは。実に嘆かわしい」
彼は憎悪を込めて睨みつけるカズエルを見て、心底楽しそうに続ける。
「失われた腕を取り戻したい、そう願うのだろう? 君ならば当然、その方法を知っていると思ったが……。アーカイメリアの書庫に眠る、神話時代の錬金術や生命科学の記録。君ほどの男が、それらを読み解いていないとでも?」
その言葉に、カズエルはハッとしたように目を見開く。脳裏を、膨大な知識の断片が高速で駆け巡る。神話の時代、神々と竜が戦ったという伝説。そして、その戦いで地に落ちた竜の亡骸から、ありえないほどの生命力を持つ『心臓』が見つかったという、眉唾物の記述。
「……まさか」
カズエルが、かすれた声で呟く。
「竜の心臓……『ドラグハート』か…? だが、それはただの御伽噺のはずだ。肉体を再生させるなどという理式、理論上は存在しても、触媒となるほどの生命エネルギーがこの世には……」
セイオンはカズエルが答えにたどり着いたのを見て、満足げに微笑んだ。
「御伽噺は、時に真実の欠片から生まれるものだよ。そして、君たちの目の前には、神話そのものが横たわっているではないか」
彼の視線が、沈黙したマグナ・イグニスの巨体へと向けられる。
「その竜の心臓に、確かな『可能性』が秘められていることだけは、教えてあげよう。もっとも、それを引き出す術を君たちが持っているかどうかは、また別の話だがね」
たとえ、敵が仕掛けた罠だとしても、そこに仲間を救える可能性が、ほんの僅かでもあるのなら。
俺たちは、それを確かめずにはいられない。
「……確かめに行こう」
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
「セイオンの言葉を信じるわけじゃない。だが、このまま、何もせずに諦めることだけは、絶対にできない」
俺は倒れたマグナ・イグニスの巨体へと、一人、歩み寄った。
近づけば近づくほど、そのスケールは現実感を失っていく。山と見紛うほどの巨躯、黒曜石のように硬い鱗。俺たちが、こんな化け物を本当に倒したというのか。
俺が最後に放った《蒼閃》が穿った、首の付け根の傷口。その、巨大な孔の奥を、俺は覗き込んだ。
そして、見つけた。
「……あった」
竜の分厚い胸郭の奥。
そこには、巨大な紅い宝石のような塊が、静かに、力強く脈動していた。
生命力そのものが、形を成したかのような、圧倒的な存在感。
古竜の心臓――ドラグハート。それは、主を失った今もなお、尽きることのない、強大な生命力を宿し、この場で生き続けていた。
「……本当に、あったのね」
エルンが俺の隣で、息を呑む。
セイオンの言葉は真実だった。
俺たちの手の中には、仲間を救うための最後の希望がある。
その事実は、俺たちの心を、再び、一つの方向へと向かわせた。
セイオンは、その光景を、ただ静かに見つめていた。彼の表情からは、何も読み取れない。だが、その瞳の奥に、新たな「可能性」という名の駒が、盤上に置かれたことへの、冷たい満足感が揺らめいているのを、俺だけは見逃さなかった。




