第261話 氷獄の理式
俺たちは、再びあの灼熱の盆地へと戻っていた。
だが、その瞳に宿るのは、もはや敗北の絶望ではない。不可能を可能にするという、無謀で、しかし唯一の希望を胸にした、戦士たちの覚悟だった。
「……ここだ」
カズエルは、盆地を見渡せる小高い丘の上、いくつかの岩が同心円状に並ぶ、奇妙な場所で足を止めた。
「この場所が霊峰の地脈が最も強く交差するポイントだ。ここからなら、山全体の地熱エネルギーに干渉できる」
彼はそう言うと、持っていた鞄から、数本の水晶の杭と、銀色の粉末が入った小瓶を取り出した。そして、俺たちに、最後の指示を出す。
「これより俺は理式の構築に入る。完成まで、おそらく一時間以上はかかるだろう。その間、何があっても、俺はこの場を動けない。……つまり、俺の命は皆に預ける」
「ああ、任せろ」と俺は力強く頷いた。
「何人たりとも、お前には指一本触れさせん」
カズエルは俺たちの覚悟を確認すると、円の中心に座し、目を閉じて深く集中し始めた。彼の周囲に淡い光を放つ理式の紋様が、幾何学的に、そして複雑に展開されていく。
俺たちは、そのカズエルを守るように四方に散開し、警戒態勢に入った。
レオナルドとセリスが前衛、エルンが後方支援、そして俺は遊撃。ルナは、その鋭敏な感覚で、敵の気配を探る、俺たちの「目」だ。
張り詰めた時間が、ゆっくりと流れていく。
その静寂を最初に破ったのは、ルナの鋭い警告だった。
「来たよ! 右手の岩陰から、三体!」
その声と同時に、竜の目覚めに引き寄せられたのであろう、鱗を持つ魔獣たちが、地を蹴って襲いかかってきた。
「させん!」
レオナルドの双剣が、一番に飛び出した魔獣の喉を切り裂く。セリスもまた、流れるような剣技で、二体目の攻撃を受け流し、その体勢が崩れたところを、深々と貫いた。
「残るは一体!」
「《光の矢》!」
エルンの放った光の矢が、最後の魔獣の眉間を正確に撃ち抜き、その動きを完全に止めた。
戦闘は一瞬で終わった。だが、これは、ただの始まりに過ぎなかった。
「また来るよ! 今度は左の後方から! 数が多いかも!」
ルナの的確な指示が休む間もなく飛ぶ。
俺たちは、カズエルの詠唱を中断させまいと、必死に、そして完璧な連携で、次々と現れる魔獣たちを迎撃していく。
長い、長い、緊張に満ちた時間が過ぎた。
仲間たちの呼吸は荒くなり、その額には、玉のような汗が浮かんでいる。
だが、その瞳の光は、決して揺らいではいなかった。
そして、ついに、その時が来た。
カズエルが、ゆっくりと目を開いた。彼の瞳は、もはや人間のそれではない。世界の理そのものを映し出すかのような、深い、蒼色に輝いていた。
「――理式展開」
彼の、静かだが、世界に響き渡るかのような声が告げる。
「――絶対零度領域!」
次の瞬間、世界が白く凍りついた。
俺たちの足元から、絶対的な冷気が波のように広がっていく。灼熱を帯びていた大地は、瞬時に白く凍てつき、川のように流れていた溶岩は、黒い煙を上げながら、音もなく、その動きを止めた。
竜の巣がある盆地全体が、一瞬にして極寒の氷獄へと変貌していく。
そのあまりにも壮大な光景を前に、俺たちは、ただ、息を呑むことしかできなかった。
カズエルが、この戦いを全く新しいステージへと、引き上げたのだ。




