第26話 予兆
次の試練の内容が分かるのは三日後。立て続けの試練で疲弊していた俺は、一日くらい一人で心を落ち着けたいと思い、エルンに静かな場所を教えてもらった。
エルフェンリートの森の奥深く、神秘的な霧が漂う泉のほとり。俺は苔むした岩に腰を下ろし、鏡のように澄み切った水面を見つめていた。そこに映る自分の姿は長く鋭い耳を持つ、見慣れたはずのエルフの青年。だが、その瞳の奥には今も50代のしがない男、竹内悟志の記憶が揺らめいていた。
「……本当に俺は俺なんだろうか?」
誰に向けるでもない問いを投げかける。泉の水面は静かに波紋を広げ、答えを持たぬまま消えていった。賢者カイランの記憶と力、そして候補者という立場。それは確かに俺の一部になりつつある。だが、それらはすべて、この世界に来てから与えられたものだ。元の俺は何者でもなかった。その虚しさが時折、胸の奥を冷たくする。
その静寂を破るように俺は背後に気配を感じた。
「カイン……なにか、きになる?」
振り向くと、そこには金色の毛並みを輝かせたルナがいた。息を弾ませ、心配そうにこちらを見上げている。どうやら、森の奥から急いで戻ってきたらしい。
「ルナ!? いつの間に戻ってきたんだ! 仲間には会えたのか?」
「うん! みんな、ケガが治っててびっくりしてた! でもね、カインの心が、なんか、ゆらゆらしてたから……心配で飛んできたの」
ルナの黄金の瞳が俺の心の奥まで見透かすようにじっと見つめる。彼女は本能的に俺の中にある不安を察したのだろう。
「いや……ちょっと、考えごとをしていただけだ」
俺はそう言って立ち上がった。しかし、その瞬間、身体の奥底から強烈な違和感が走る。まるで、自分の身体ではないかのような、奇妙な浮遊感——。
「……なんだ、これは?」
直後、俺の視界がぐにゃりと揺らいだ。世界が反転するかのようなめまいと共に、頭に鮮烈な映像が流れ込んでくる。
——古びた石造りの神殿。その中央に崩れかけた祭壇。そこに立つ、一人の見知らぬエルフ。彼は何かを求めるように必死の形相で叫んでいた。
「カイラン……フェルシス……! なぜだ、なぜ応えてくれない!」
その男がつぶやいた瞬間、俺の視界は現実に戻った。
「カイン!」
ルナが俺の肩を必死に支えていた。気づけば俺は地面に膝をついており、荒い息を吐いている。額には冷たい汗が滲んでいた。
「……今のは……幻覚か?」
「カイン、だれかの名前、言ってたよ。それに、すごく苦しそうだった。なにが見えたの?」
俺は拳を強く握り締めた。あの神殿、あのエルフ。そして、呼ばれた名。カイラン・フェルシス——それはこの身体の元の持ち主の名前。だが、あのエルフは誰だったのか?
「……ルナ、俺は確かに何かを見た。だが、それが過去の記憶なのかは分からない」
「それは……カイランの記憶?」
「いや……そうとは言い切れない。あれはもしかしたら……未来かもしれない」
未来。そう、確信はなかったが、俺の中には妙な予感があった。あの光景は単なる過去の幻影ではなく、これから訪れる現実なのではないか、と。
「何かが、起ころうとしている……」
俺の言葉にルナは不安げに耳を傾けた。何が起ころうとしているのか、まだ分からない。ただ、胸騒ぎだけが静かな森の中で不気味に響いていた。
――その頃、遠く離れたロルディア王都。
城の奥深く、一人の男が目を細め、側近からの報告を聞いていた。
「エルフェンリートの森にて、賢者カイラン復活の兆しだと?」
「はっ。確かな情報です。殿下。森で何かが動き始めています」
その言葉を聞いた男——ロルディア王国第二王子レオンハルトは神妙な面持ちでつぶやいた。
「それが真実か、あるいは新たな動乱の火種か。……確かめるとしよう」
エルフェンリートの森とロルディア王都、それぞれの地で新たな波乱が動き出していた。
そして、世界は静かに、しかし確実に、ざわつき始める——。




