第246話 カイン、想いを込めて
その夜、俺はエルンを屋敷のバルコニーへと呼び出した。
月明かりが、王都の街並みを銀色に照らしている。眼下では、復興の槌音こそ止んでいるものの、人々の暮らしを示す温かい光が無数に瞬いていた。
「……すまないな、急に呼び出して。こんな馬鹿げた作戦に最後まで付き合わせる形になってしまって」
「いいえ」
エルンは手すりにそっと手を置きながら、静かに首を横に振った。
「これは、あなたが、私たちが、この世界で生きていくために、選ばなければならなかった道です。……謝る必要などありません」
その、あまりにも優しい答えに、俺は、かえって胸が痛んだ。
この「作戦」という言葉で、自分の本当の気持ちを誤魔化し続けることは、もうできない。
俺は一度、深く息を吸い込んだ。そして、彼女の、月明かりに照らされた翡翠色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「エルン。……これは、もう、作戦じゃないんだ」
俺の言葉に彼女がわずかに目を見開く。
「ネフィラの件で、俺が死を受け入れようとしていたとき……いや、違うな。お前が、俺を救うために、たった一人で、自分の魂を闇に捧げようとした、あの夜。俺は本当の意味で、お前を失うことの恐怖を知った」
あの時の血の気が引くような感覚。心が、魂が、根こそぎ抉り取られるような、絶望。
「俺は、もう二度と、あんな思いはしたくない。賢者としてでも、英雄としてでもない。ただの俺として、……カインとして、お前の隣にいたい。お前を守りたいんだ」
俺は懐から、グレンダに作ってもらった小さな革袋を取り出した。
その中から、静かな蒼い輝きを放つ指輪を取り出し、彼女の前に、そっと差し出す。
「だから、これは、偽りの関係を終わらせるための、俺の本心だ。……受け取って、くれるか?」
それは、プロポーズと呼ぶには、あまりにも無骨で、不器用な言葉だった。
エルンは、俺の手の中にある指輪と、俺の顔を交互に見つめた。その瞳が、驚きと、戸惑いと、そして、どうしようもないほどの喜びで、潤んでいく。
やがて彼女は、静かに、しかし、はっきりと頷いた。
「……私も、同じです、カイン」
その声は、わずかに震えていた。
「最初はカイラン様の面影をあなたの中に見ていました。ですが、共に旅をし、戦い、笑い合う中で、いつの間にか……私は、あなたという、一人の不器用で、優しくて、そして誰よりも強い魂に惹かれていました」
彼女は俺の手から、そっと指輪を受け取った。
「ええ……喜んで。あなたの隣に、ずっと、いさせてください」
その言葉に、俺はようやく、心の底から安堵の息を吐いた。
俺は彼女の左手を取り、その薬指に、水の加護を宿した指輪を、ゆっくりとはめていく。
ひんやりとした金属の感触が、彼女の温かい指に確かに伝わった。
偽りの婚約は、今、この瞬間に終わりを告げた。
そして、その代わりに、俺たちの間には言葉にはできない、温かく、そして揺るぎない真実の誓いが生まれた。
俺たちは、どちらからともなく、そっと手を繋ぎ、眼下に広がる王都の夜景を、ただ静かに見つめていた。




