第231話 混沌の種子
怒りは何の解決にもならない。この男を前にしては、特に。
レオナルドとセリスが激昂し、剣の柄に手をかけているのが気配で分かる。だが、俺はそれを視線だけで制した。この男に感情で挑んでも意味がない。
(……こいつに、俺たちの価値観など、何の意味もなさない。間に合わなかった。……なら、今は次の手だ)
俺は心の奥底で燃え上がりかけた怒りを、理性で無理やり鎮めた。そして思考を切り替える。
この男は混沌の使徒を「醜悪だ」と断じた。ならば、利用できる。
「マルヴェス」
俺は声のトーンを変え、交渉相手として彼に向き直った。
「お前の言う『熱病』の本当の正体について、俺たちは情報を掴んだ。お前にとっても無関係な話ではないだろう。……その情報を提供しよう」
その提案に、マルヴェスは愉快そうに口の端を吊り上げた。
俺はアーカイメリアで掴んだ情報を、淡々と、しかし正確に告げた。筆頭神官セイオンの存在、人の心を操る理式、そして、世界に意図的に『混沌』を生み出そうとする、奴らの歪んだ思想。
俺の話を聞き終えたマルヴェスは、しばらく黙していた。
やがて、その口元に、これまでとは質の違う、深い、知的な笑みが浮かんだ。
「……混沌の使徒、か。面白い。実に、面白い。世界を恣意的にざわつかせ、進化を促すなど、愚かで、そして、あまりにも人間らしい発想だ。……その『熱病』は私が思っていたよりも、ずっと根が深いらしい」
彼は俺の情報を認め、そして、取引に応じるかのように、その言葉を続けた。
「土産話の礼に、賢者カインよ。一つ、忠告をやろう」
マルヴェスの視線が、俺たちの足元――いや、俺たちのパーティそのものへと向けられる。
「世界の熱病は、お前たちが思うより巧妙に、そして身近な場所に巣食うものだ。お前たちの足元にも、すでに新たな病巣が生まれているやもしれんぞ?」
その言葉は呪いのように、俺たちの心に突き刺さった。
身近な場所。足元。新たな病巣。
その言葉が指し示すものに、俺たちは気づかざるを得なかった。
俺たちの視線が自然と、パーティの後方で怯えている、リナとセリシアへと向かう。
二人は、マルヴェスの圧倒的な気配に、ただ腰を抜かさんばかりに震えているだけだ。その姿は、どこからどう見ても、ただの力のない、若い冒険者にしか見えない。
だが、マルヴェスの警告は、その純粋さそのものが、最も巧妙な「病巣」なのだと冷徹に告げていた。
「せいぜい、私を愉しませてくれ、賢者カイン」
マルヴェスはそう言い残すと、再び影の中へと溶けるように、その姿を消した。
後に残されたのは、完全な静寂と、そして、互いへの拭い切れない疑念だけだった。
エルンとセリス、レオナルドの視線が、リナとセリシアへと、刃のように突き刺さる。
カズエルは眼鏡の奥で、冷徹な分析者の目をしていた。
俺は混沌の使徒の、その本当の恐ろしさを、ようやく理解した。
奴らは俺たちの「人の善意を信じたい」という心そのものを、最大の弱点として突いてきているのだ。
救うべき魂は、もういない。
そして、今共にいる仲間は、もはや信じられない。
嘆きの谷で、俺たちは、希望の全てを打ち砕かれた。




