第226話 亀裂
魔族領へと続く道は次第にその険しさを増していた。ごつごつとした岩肌が剥き出しになり、街道とは名ばかりの獣道に近い小道が続いている。パーティ内の不穏な空気もまた、この荒涼とした景色に同調するかのように、重く、冷たくなっていく。
リナとセリシアは、相変わらずカインとカズエルの傍を離れようとしない。その無邪気な言葉と献身的な態度は、もはや仲間たちの神経を逆なでするだけの、不快なノイズとなりつつあった。
その、緊張の糸が張り詰めていた瞬間だった。
「――来るぞ!」
先頭を歩いていたレオナルドの鋭い声が、静寂を切り裂いた。
左右の岩陰から、素早い影が三体、同時に飛び出してきた。硬い甲殻と、鎌のような前足を持つ、この地域固有の魔獣「岩陰の追跡者」だ。
「散開! 囲まれるな!」
俺の指示に、エルン、セリス、レオナルドは即座に反応し、互いの死角を補うように陣形を組む。カズエルも詠唱を省いた防御理式を即座に展開し、後方を固めた。
熟練した阿吽の呼吸。これまでの戦いで培ってきた完璧な連携だった。
――その連携を絶叫が破壊した。
「きゃああああっ!」
パニックに陥ったリナが、短剣を握りしめたまま、その場にへたり込む。セリシアもまた、青ざめた顔で硬直し、カズエルのローブの裾を掴んで震えていた。
「カイン様! 危ないです!」
次の瞬間、我に返ったリナが、あろうことか、俺を庇おうと魔獣の一体へと無謀な突撃を敢行した。
「セリス、援護を!」
セリスが剣を向け、リナに迫っていた魔獣の気をひく。だが、リナが飛び出したことで、俺たちが築いた陣形には致命的な穴が生まれていた。
「しまっ……!」
その隙を見逃さず、別の魔獣が、硬直しているセリシアと、彼女を庇うカズエルへと襲いかかる。
「カズエル様、お下がりください!」
セリシアが震える手で、カズエルの前に小さな防御魔法を展開しようとする。だが、その未熟な魔法は、カズエルが展開しようとしていた、より高度なカウンター理式の邪魔にしかならなかった。
「くそっ!」
カズエルは舌打ち一つ、理式の展開を中断し、セリシアの腕を引いて後方へと跳んだ。
俺もまた、リナの身体を強引に引き寄せ、魔獣の鎌のような一撃を紙一重で回避する。
結果として、俺とカズエルは、二人を危険から守った。
だが、その代償は大きかった。前線は完全に崩壊したのだ。
「レオナルド!」
「わかっている!」
レオナルドが突出してきた魔獣の攻撃を双剣で受け止め、セリスがその側面に回り込み、深々と剣を突き立てる。エルンも風の魔法で残る一体の動きを封じ、どうにか敵を殲滅することに成功した。
戦闘は終わった。
だが、そこには勝利の安堵など、どこにもなかった。
ただ、気まずい沈黙と、互いへの不信感が鉛のように重く漂っている。
その沈黙を破ったのは、レオナルドの怒りを押し殺した低い声だった。
「カイン、カズエル。聞かせてもらおうか」
彼は倒した魔獣の骸を一瞥すると、俺たち二人を、その鋭い瞳で射抜いた。
「今の状況はなんだ。なぜ、あの二人を庇った? まさかとは思うが、私情に流されているのではないだろうな?」
その直接的な問いに、俺は言葉に詰まった。
「……彼女たちは、まだ戦いに慣れていないだけだ」
ようやく絞り出した俺の答えは、自分でも分かるほど、苦しい言い訳に過ぎなかった。
カズエルもまた、眼鏡の位置を直しながら、冷静を装って言った。
「戦力の逐次投入は非効率だ。一度に二人を失うリスクより、一時的に庇う方が合理的だと判断した」
その、どこか他人事のような答えに、レオナルドの表情が、さらに険しくなる。
「甘いな」
彼は吐き捨てるように言った。
「あの二人は戦力ではない。危険因子だ。それを庇うのは、パーティ全体を危険に晒す行為に他ならない。リーダーとして、仲間として、その判断が正しいと、本気で思っているのか?」
その言葉は俺とカズエルだけでなく、エルンとセリスの胸にも深く突き刺さっていた。
彼女たちもまた、その沈黙によって、レオナルドの意見に同意していることを示していた。
パーティに走った、最初の、そして決定的な亀裂。
それは、どんな魔獣の爪よりも鋭く、俺たちの絆を、静かに、しかし確実に引き裂き始めていた。




