第222話 旅立ちの日
王都での束の間の休息は終わった。
カインが次の目的地を魔族領の「嘆きの谷」に定めた翌朝、俺たちは再び旅の準備を始めていた。
レオナルドとセリスは、今回の旅で必要となるであろう、物資を調達するため、王都の市場や職人街へと出かけている。
俺は屋敷の書斎で、カズエルとエルンが向き合う姿を、少し離れた場所から眺めていた。
「……つまり、この術式は、空気中のマナを直接、光の粒子へと変換しているのですね。精霊を介さずに現象そのものを書き換える……」
「そういうことだ。理式魔術の基本は全てこの『置換』と『変換』の応用にある」
エルンはアーカイメリアでの一件以来、カズエルに簡単な理式魔術を教えてもらっていた。彼女の瞳は未知の知識を吸収しようと、真剣な輝きを放っている。沈黙を続けるカイランを救うという、確かな目的のために。
そんな二人の様子を見ていて、俺はふと、以前から気になっていたことを口にした。
「そういえばお前、エルンのことを『エルン殿』って呼んでるけど、何でだ? 」
俺の問いに、カズエルは、理式の解説をぴたりと止め、面倒くさそうにこちらを振り返った。
「……お前、本気で言ってるのか?」
「本気だが」
「はぁ……」彼は深々と溜息をついた。
「いいか、竹内。見た目は若いが、エルフであるエルン殿は、人間の俺から見れば遥かに年上の、敬意を払うべき相手だ。それが、まず一つ」
彼の、きっちりとした性格らしい、論理的な答え。だが、それだけではないようだった。
「……それに」と、彼は少しだけ声を潜めた。
「お前、自分の大事なパートナーを、親友の男が気安く呼び捨てにしてたら、いい気はしないだろうが。多少は気も使うんだよ、こっちだって」
その、あまりにも意外な答えに、俺は一瞬、きょとんとした。
隣で聞いていたエルンは、くすりと、楽しそうに笑みをこぼした。
「ふふ……。カズエル様、お気遣い、ありがとうございます。ですが、私は、全く気にしておりませんよ。どうぞ、これからは『エルン』と、お呼びください」
「……だ、そうだぞ、カズエル」
俺も、こみ上げてくる笑いを堪えきれずに言った。
「大事なパートナーって、お前……。俺たち、そういう関係じゃねえよ」
「……うるさい。俺の気遣いを無にするな」
カズエルは、バツが悪そうにそっぽを向いた。
そんなやり取りをしていると、台所から、ルナが、保存食用の干し肉を口いっぱいに頬張りながら、ひょっこりと顔を出した。
「みんなー、準備、まだー?」
その口の周りには、しっかりと油が付いている。どうやら、準備という名のつまみ食いは順調に進んでいるらしい。
やがて、レオナルドとセリスが大量の物資を抱えて屋敷に戻ってきた。
全ての準備を終え、俺たち六人は屋敷の門をくぐった。
今度の旅立ちもまた、人目を忍んで、静かなものになるだろう。俺は、そう思っていた。
だが――。
「……英雄様たちだ!」
街路に出た俺たちに気づいた、一人の子供の声。
それが合図だった。
市場の商人たちが、荷を運ぶ手を止めて、こちらに頭を下げる。
家の窓から主婦たちが顔を覗かせ、手を振る。
修復作業をしていた職人たちが槌を置き、俺たちに感謝の視線を送る。
その輪は瞬く間に道行く人々すべてへと広がっていった。
「カイン様! どうか、ご武運を!」
「《百閃》様! あなたの剣に、勝利の女神のご加護があらんことを!」
「ありがとう! 王都を救ってくれて、本当にありがとう!」
感謝、祈り、尊敬。
温かい言葉の波が俺たちを包み込む。
その光景に俺は戸惑いを隠せなかった。現世で常に日陰を歩いてきた俺にとって、これほどの喝采は、あまりにも眩しすぎた。
「……やれやれ。すっかり有名人だな」
カズエルが照れ隠しのように呟く。
「当然です」と、セリスが誇らしげに胸を張る。
「私たちは、この街を守ったのですから」
彼女の言葉には王都の守護者としての確かな自負があった。
やがて俺たちが王都の正門へとたどり着くと、そこには騎士団が整列し、俺たちを待ち構えていた。
指揮官が高らかに号令をかける。
「英雄たちの出発である! 敬礼!」
騎士たちの掲げた剣がきらめき、壮麗な光の道を作る。
その光の中を俺たちは、ゆっくりと歩き出した。
背後には俺たちを信じ、未来を託してくれた多くの人々の想いがある。
その重さを、その温かさを、改めて感じる。
俺は、もう一人じゃない。
この頼もしい仲間たちと、そして、俺たちを信じてくれる人々がいる限り、どんな困難な道も進んでいけるはずだ。
俺は、一度だけ王都を振り返り、そして、強く、前を見据えた。
目指すは嘆きの谷。
悲劇の谷に本当の救いをもたらすために。
そして、混沌の使徒との次なる戦いのために。
俺たちの新たな旅が、今、始まった。
第十二章・完




