第216話 解呪への挑戦
筆頭神官セイオンの、あまりにも傲慢な挑発。
だが、そのおかげで、俺たちの手元には反撃の武器があった。
ヴァレリウスの書斎は、今や、俺たちの作戦司令室と化していた。
「……始めるぞ」
カズエルの声が静かな空間に響いた。
彼は黒い石版に手をかざし、そこに刻まれた理式を光の紋様として空中に投影させた。俺たちの目の前に複雑怪奇な三次元の魔法陣が浮かび上がる。それは、まるで生きているかのように禍々しく、そして規則的に脈動していた。
「これが、『混沌の使徒』の叡智か……」
レオナルドが、その光景を前に低い声で唸る。
「ええ。美しく、そして、どこまでも悪質です」
セリスもまた、その術式の持つ冷たい論理性に、ある種の畏怖を感じていた。
カズエルは、その巨大な論理の塊を、一つ一つ分解し始めた。指先から放たれる光の糸が、術式の一部を切り取り、解析していく。
「エルン殿、力を貸して欲しい。俺は、この術式の論理構造を分離していく。貴女には、その魔力の『性質』を精霊魔法の使い手としての観点から読み解いて欲しい」
「はい!」
「ヴァレリウス様、この術式が属するであろう、古代の文献の特定をお願いできますか?」
「うむ、任されよ」
三人の「知」が、一つの目的に向かって集束する。
俺とレオナルド、セリス、そしてルナは、そんな三人を邪魔させないよう、書斎の入り口を固め、交代で外部の警戒にあたった。
時間は、ゆっくりと、しかし確実に過ぎていく。
「……やはり、一筋縄ではいかんな」
数時間が経過し、カズエルが初めて弱音ともとれる言葉を漏らした。
「この術式は自己防衛機能まで備えている。解析しようとすると、論理の迷路を生成して、思考そのものを罠にかけようとしてくる」
行き詰まった空気を察し、ヴァレリウスが書庫の棚から、分厚い古文書を手に、口を開いた。
「カズエル、その様式は第三王朝時代に禁忌とされた『魂の置換術』の基礎理論に酷似しておる。その術は対象の魂を別のものと『誤認』させることで効果を発揮した。おそらく、それの応用じゃ」
「魂に、自分を偽物だと誤認させる……?」
その言葉に、エルンがはっとしたように顔を上げた。
「ヴァレリウス様のお話、分かります。この部分の魔力の流れ、とても悲しんでいるように感じます。まるで、自分の居場所を見失ったみたいに……」
エルンの直感的な指摘と、ヴァレリウスの歴史的な知識。その二つが、カズエルの思考に新たな光を灯した。
「……なるほど。そういうことか。俺は、この術式を正面から『解体』しようとしていた。だが、違う。この術式そのものに、『お前は偽物だ』と誤認させ、自己崩壊を促すのが正しいアプローチだ……!」
彼の目に活力が戻る。
異なる体系の力が融合し、困難と思われた解析が、少しずつだが確実に進んでいった。
俺は、そんな三人の姿を頼もしく思いながら、固く扉の前を守り続けていた。
ルナが時折、小さなパンと水を三人の元へ運んでいく。そのささやかな支援が、彼らの集中力を繋ぎとめていた。
さらに数時間が経過し、窓の外が夕暮れに染まり始めた頃。
カズエルとエルン、そしてヴァレリウスが同時に顔を上げた。
三人の間に言葉はなくとも、確かな手応えを共有した空気が流れる。
「……見つけた」
カズエルが確信に満ちた声で呟いた。
「この論理ウイルスの核……自己同一性を問う『矛盾』そのものをエネルギー源にしている。ならば、その矛盾を肯定し、解消する逆説の理式をぶつければ……!」
「解呪できる、ということですね!」
エルンの声が弾む。
ついに反撃の糸口が見えた。俺たちの顔に安堵の表情が浮かんだ。
だが、俺たちの挑戦は、まだ始まったばかりだった。
これから、この悍ましい理式を、希望の術式へと書き換える、長い長い夜が始まるのだ。




