第214話 禁書庫の沈黙
俺たちは、再びアーカイメリアの『大書庫』に足を踏み入れた。
以前訪れた時と変わらぬ、壮大で静謐な空間。だが、今の俺たちには、その静けさそのものが、敵の息遣いのように感じられた。行き交う神官たちの無関心な視線ですら、俺たちを監視する「目」のように思えてしまう。
カズエルに導かれ、俺たちは一直線に禁書庫を管理するヴァレリウスの書斎へと向かった。
扉を叩くと、中から以前と変わらぬ穏やかな声が聞こえる。
「……入れ」
その声に俺たちはわずかに安堵の息を漏らした。少なくとも彼は無事だったのだ。
書斎に入ると、ヴァレリウスは山と積まれた古文書の中から顔を上げた。俺たちの姿を認めると、その深い瞳に、驚きと、そして安堵の色が浮かぶ。
「……カイン殿、カズエル。そして皆も、無事であったか。王都での働き、この都市にまで聞こえてきておるぞ」
「ヴァレリウス様こそ、ご無事で何よりです」
俺がそう言うと、彼は力なく首を振った。
「いや……わしは、無力じゃった。そして、敵は我々のはるか上を行っておった」
彼の言葉に俺たちの間に緊張が走る。
ヴァレリウスは俺たちが王都へ向かった後の出来事を静かに語り始めた。
「お前たちがあの魔獣と戦っているであろう、まさにその頃じゃ。セイオンの手の者が、この禁書庫に現れた」
「……!」
「奴らは、お前たちが突破した罠や、破壊したゴーレムの残骸を、実に興味深げに調べておった。まるで、侵入者の手際を評価するようにな。そして……」
彼は悔しそうに唇を噛んだ。
「奴らは、わしが『黒い石版』を隠した最奥部には、指一本触れなかった。ただ、禁書庫全体に新たな防衛理式を上書きして、去っていったのじゃ」
「新たな防衛理式……」
カズエルが険しい表情で問う。
「どのようなものです?」
「……わしにも完全には解析できん。だが、分かることは一つ。禁書庫全体が都市の中枢魔力炉と直結する、巨大な『因果律の罠』と化した。一度足を踏み入れれば二度と出ることはできん。時間と空間の概念そのものが侵入者を捕らえ、永遠に彷徨わせる悪夢の迷宮じゃ」
カズエルの顔から血の気が引いていく。プログラマーであった彼にとって、その術式がどれほど恐ろしく、そして突破が困難なものであるか、誰よりも理解できたのだろう。
「……無理だ」
彼は絞り出すように言った。
「その理式は都市そのものを破壊でもしない限り、外部から解除することは不可能だ。完全に道を閉ざされた……」
その言葉は俺たちに絶望を突きつけた。
王都での勝利も、王からの勅命も、全てが無に帰した。俺たちは敵の掌の上で踊らされ、その間に目的であった「解呪の理式」への道は完全に断たれてしまったのだ。
「そんな……では、心を壊された者たちは、もう……」
エルンの声が悲痛に震える。彼女の心にあった、カイランを救うという、か細い希望の光も、今、消えようとしていた。
重い沈黙が部屋を支配する。
俺たちが味わったのは戦いにおける敗北ではない。知略と戦略における完全な敗北だった。
どうすることもできない、という事実が、鉛のように俺たちの肩にのしかかる。
その絶望に満ちた静寂を破ったのは、ヴァレリウスの意外なほどに落ち着いた声だった。
「……だが、賢者よ。セイオンは、一つだけ、大きな過ちを犯した」
彼は俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「奴は、お前たちを、そして、わしのような老いぼれを侮りすぎた。……奴は、お前たちに、挑発的な『置き土産』を残していったのじゃよ」




