第21話 森の奥に潜む影
アクレアの森の奥深くへと進むにつれ、周囲の環境は明らかにその様相を変えていた。空気は湿り気を帯び、地面はふかふかとした苔で覆われている。分厚い木々の天蓋が陽の光をほとんど遮るため、あたりは薄暗く、不気味なほどの静寂に包まれていた。
(……何かに、見られているような気がする)
考えながら歩を進めていると、不意に周囲の気配が途絶えた。風が止み、それまで聞こえていた鳥や小動物の気配が完全に消える。これは、危険な捕食者の縄張りにいる兆候だ。
俺は足を止め、慎重に周囲を見渡した。茂みの奥、木々の間に微かな影が動くのが見える。
(野生の獣か? それとも……)
ゆっくりと腰のナイフを抜き、警戒を強める。カイランの体は確かに強力だが、中身は戦闘経験のない元・50代の男だ。この肉体を使いこなせるかどうかは、全く別の話だった。
静寂の中、突如としてその影が牙を剥いた。鋭い爪を持つ黒豹のような獣が、俺の目の前に音もなく現れる。
「くそっ!」
反射的に横へ転がり、獣の爪をかわす。だが、慣れない体の動きに足がもつれて転びそうになった。獣の素早い動きに、俺の意識がついていかない。
(まずい……! どうすればいい!?)
パニックに陥りかけたそのとき、頭の奥でカイランの声が響いた。
『落ち着け……身体を信じろ』
『お前の肉体は私が幾多の戦場で鍛え上げたもの。お前自身が動こうとせずとも、肉体の感覚に任せるのだ』
(……身体の感覚に?)
意識的に動かそうとせず、体の力を抜いた瞬間、俺の身体が自然に反応した。獣が再び跳びかかるのを最小限の動きで避けながら、ナイフを持つ手がわずかに動く。
『今だ——ナイフを低く構え、獣の動きを見極めろ』
俺はその言葉に従った。獣が三度突進してきた瞬間、無意識に身体が反応し、俺のナイフが獣の肩を浅く切り裂いた。
獣が一瞬ひるむ。その隙を見逃さず、俺は勢いよく後退し、安全な距離を取った。
(すごい……今の動き、俺がやったのか?)
『お前の意思と、この肉体の記憶が共鳴した結果だ。だが、油断するな。そして——魔法に頼るなよ』
カイランの言葉に俺は驚いた。
(なぜだ!? 魔法を使えば、もっと楽に倒せるはずだ!)
『この試練は、お前に戦闘の基礎を叩き込むためのものだ。肉体に染み付いた技術を引き出し、己のものとして鍛えろ。いずれ魔法と組み合わせることで、本当の力を発揮できるようになる』
俺は納得し、再びナイフを握り直した。
(ならば、この試練は俺自身の成長のためのものか……いいだろう、乗ってやるよ)
『防御に徹し、敵の癖を見抜け』
カイランの助言に従い、俺は獣の攻撃を回避することに集中した。鋭い爪が空を裂くが、あと一歩のところでかわす。
(なるほど……こいつは左足で踏み込む瞬間、攻撃の予兆があるな)
何度か攻撃をかわすうちに、獣の動きに一定の法則があることに気づいた。次に飛びかかってくるタイミング、その一点を狙えば、反撃の隙が生まれる。
『今だ、力を抜きつつも、一気に決めろ』
獣が飛びかかってきた瞬間、俺はわざとギリギリまで待ち、寸前でその攻撃をいなした。相手の勢いを利用して懐に潜り込み、ナイフではなく、素手の拳を叩き込む。
「うおおっ!」
俺の拳が、獣の首元の急所に深くめり込んだ。衝撃が骨を震わせるほどの感触が伝わる。獣は怯んでバランスを崩し、地面に大きく転がった。
だが、まだ戦意は失っていない。俺はさらに間合いを詰め、今度はがら空きになった腹部に強烈な蹴りを加えた。
獣は低く悲鳴のような唸り声を上げると、そのまま後ずさりし、警戒するようにこちらを見つめる。そしてついに戦意を喪失したのか、一瞬の躊躇の後、ゆっくりと森の奥へと消えていった。
「はぁ……はぁ……なんとかなった、か」
俺は荒い息をつきながら、その場に座り込んだ。カイランの指導がなければ、ここまで冷静に戦えなかっただろう。
『悪くないな。戦闘の基礎が少しずつ身についてきている』
「そうかよ……だったら次は、もうちょっと楽な相手で頼むぜ……」
俺はぼやきながらも、今の戦いを通じて自分が成長していることを、確かに感じていた。アクレアの森の試練は、まだ始まったばかりだった。




