第204話 苦渋の決断
罠だと分かっていても、王都の危機を見過ごすことはできない。
その事実は解呪への道筋が見え始めた俺たちの心に、重い枷となってのしかかった。禁書庫の最奥部、張り詰めた空気の中で、俺たちは究極の選択を迫られていた。
「……戦略的には、ここに残るのが正解だ」
長い沈黙のあと、最初に口を開いたのはカズエルだった。彼は感情を押し殺した、冷徹な分析者の顔をしていた。
「敵の狙いは、俺たちをここから引き離すこと。その陽動に乗れば、戦術的には俺たちの敗北だ。解呪の理式という、この戦争の根幹を覆しかねない最大の武器を、俺たちは自ら手放すことになる」
彼の言葉は、あまりにも正しく、そして、あまりにも冷たかった。
その正論に、レオナルドが静かに反論する。
「理屈の上では、そうかもしれん。だが、お前たちはロルディアの民に『英雄』と呼ばれた。その信頼を捨て、王国を見殺しにすると言うのか。目の前の危機から目を背け、大義のために民を犠牲にする。それは、果たして英雄の道か?」
「それでも」とカズエルが声を強める。
「ここで解呪法を見つけなければ、敵の思惑通り、戦争が世界中で繰り返されることになる」
二人の意見は、どちらも間違っていない。
長期的な大義か、目の前の人命か。
仲間たちの視線が、リーダーである俺に、最後の決断を求めるように突き刺さる。
俺は、一度、固く目を閉じた。
脳裏をよぎるのは、筆頭神官セイオンの思想。『世界の進化のため』という大義を掲げ、人の心を弄び、犠牲にすることを厭わない、歪んだ叡智。
(……同じだ)
もし俺が、ここで王都を見捨てれば。
「解呪」という大義のために、王都の民の犠牲を「仕方ない」と切り捨てれば。
その瞬間に、俺は、「混沌の使徒」と、同じ理屈の上に立つことになる。
「……行こう」
俺の口から、静かに、揺るぎない言葉が漏れた。
「王都へ、戻る」
「カイン……!」
カズエルが何かを言おうとするのを俺は手で制した。
「お前の言う通りだ、カズエル。これは戦術的には敗北だ。敵の罠に、まんまと嵌ってやることになる。けれど」
俺は、仲間たち一人一人の顔を見回した。
「俺は、俺たちが守りたいもののために、敵と同じ理屈で戦うつもりはない。犠牲を前提とした勝利なんて、クソ喰らえだ」
それは賢者でも英雄でもない、ただの竹内悟志としての心の底からの叫びだった。
「罠だと分かっていて、真正面から飛び込んでやる。そして、魔獣を討ち取り、王都を救う。その上で、必ずここへ戻ってきて、解呪の理式も手に入れる。……遠回りになるかもしれない。無茶苦茶な理屈かもしれない。でも、俺は、その両方を諦めたくない」
俺の言葉にカズエルは、しばらく呆気に取られたような顔をしていたが、やがて、ふっと息を吐き、昔のように笑った。
「……やれやれ。馬鹿なリーダーを持つと苦労するぜ。……だが、嫌いじゃない。その無茶な理屈、どこまでサポートできるか試してみるか」
仲間たちの顔から迷いが消えた。
俺たちは最も困難で、最も無謀な道を全員で選んだのだ。
決断が下されれば行動は早かった。俺たちは急ぎヴァレリウスの元へと戻り、事情を説明した。
「……そうか。それが、お前たちの出した答えか」
彼は俺たちの決断を咎めることなく、ただ静かに頷いた。
「ヴァレリウス様。この石版と、これまでの研究記録を、お預けしてもよろしいでしょうか。俺たちが戻るまで、どうか……」
「案ずるな」と老神官は、俺の言葉を遮った。
「賢者よ、お前たちの選んだ道、確かに見届けた。ここはわしが命を賭して守ろう。……行け。そして、必ずや、生きて戻られよ」
老神官の力強い言葉に背中を押され、俺たちは禁書庫を後にした。
アーカイメリアの整然とした、しかしどこか冷たい街並みを、俺たち六人は、王都へと向かって駆け抜けていく。
罠だと知って、なお進む。
それは愚かなことかもしれない。
だが、その愚かさこそが、俺たちを俺たち自身たらしめる、最後の砦なのだと、俺は強く信じていた。




