第203話 仕組まれた罠
「――至急、帰還されたし」
セリスに届いた精霊通信の内容に、禁書庫の最奥部は、凍りついたような沈黙に包まれた。
数瞬前まで、俺たちの間には、解呪への糸口を掴んだという確かな希望の光が灯っていたはずだった。だが、その光は、王都からもたらされた凶報によって、いとも容易くかき消されようとしていた。
「……嘘、でしょう」
エルンが、か細い声で呟く。
「大型の飛行魔獣が王都を……? なぜ、今、この時に……」
「決まっている」
最初にその沈黙を破ったのは、石版の解析から顔を上げた、カズエルの冷徹な声だった。
「偶然じゃあない。これは、奴らの『一手』だ」
彼は、まるでチェスの盤面を読み解くかのように、状況を分析し始めた。
「俺たちが奴らの本拠地に潜入し、最も重要な秘密に触れようとしている。その俺たちを、ここから引き離すための最も効果的な一手……。それが、このタイミングでの王都襲撃だ」
「陽動、ということか」
レオナルドが低い声で応じる。その戦士としての経験が、カズエルの分析が正しいことを裏付けていた。
「ああ。俺たちという、この世界の『英雄』が、王都の危機を前にして見過ごすはずがないと、奴らは踏んでいる。俺たちの善意や責任感そのものを利用した罠だ」
「なんて卑劣な……!」
エルンの声に怒りが滲む。
その時、これまで黙って事態を受け止めていたセリスが、険しい表情で口を開いた。
「……ですが、罠だと分かっていても、今の王都に、あの魔獣を討伐できるだけの戦力は残っているでしょうか。私たちが王都で得た信頼も、《百閃》という称号も、人々を守るためにあるはずです。それを、ここで無視することは……私にはできません」
彼女の言葉には自責の念ではなく、王都を守る者としての誇りと責任感が宿っていた。
俺も強く頷いた。
「セリスの言う通りだ。奴らは俺たちが『行かざるを得ない』ことを知っていて、この罠を仕掛けたんだ」
「じゃあ……」ルナが、不安そうに俺を見上げる。
「やっぱり、行くしかないってこと? 罠だってわかってるのに?」
その純粋な問いに、誰も即答できなかった。
俺たちの目の前には二つの道があった。だが、そのどちらもが絶望へと続いているように思えた。
一つは、このまま禁書庫に留まり、解呪の理式の完成を急ぐ道。
だが、それを選択すれば、王都は見殺しになる。レオンハルト王や、街で暮らす多くの人々が、魔獣の牙にかかるだろう。俺たちが守ると誓ったはずのものが、失われていくのを止める事はできない。
もう一つは、王都へ急行し、魔獣を討伐する道。
だが、それを選べば、混沌の使徒たちの思う壺だ。俺たちがこの場所を離れた瞬間、ヴァレリウスは危険に晒され、解呪の理式に関する手がかりは永遠に闇に葬られるかもしれない。嘆きの谷で見た、心を壊された者たちを救う道は閉ざされる。
どちらを選んでも、何かを失う。
どちらを選んでも、敵の思惑通り。
俺は仲間たちの顔を、一人一人、ゆっくりと見回した。
エルン、ルナ、レオナルド、セリス、そしてカズエル。
皆、苦渋の表情を浮かべている。だが、その瞳の奥には、まだ光が残っていた。
俺はテーブルの上に広げられたアーカイメリアの設計図と、王都ロルディアの地図を交互に見つめた。
一つの答えを選ばなければならない。
俺は賢者として、最善の道を示すことができるだろうか。
頼りにしてきたカイランは沈黙を続けている。決めるのは俺自身なのだ。




