第201話 解呪の理式
『矛盾の霧』が完全に晴れた後、俺たちはしばし、その場に立ち尽くしていた。
互いの顔には極度の精神的疲労が色濃く浮かんでいる。だが、その瞳には、自らの心の弱さと向き合い、乗り越えた者だけが持つ、確かな強さが宿っていた。
「……心の戦い、か。どんな強敵との斬り合いよりも骨が折れる」
レオナルドが溜息と共に吐き出した言葉に、俺たち全員が同意した。言葉はなくとも、互いが同じ戦いを乗り越えたのだという、強い連帯感がそこにはあった。
俺たちは、再び禁書庫の奥深くへと足を進めた。
霧が晴れた回廊の先には、ひときわ巨大で荘厳な装飾が施された扉が、俺たちを待ち構えていた。
そして扉に近づいた、その瞬間。
扉そのものが、まるで生きているかのように蠢き、その表面から光の粒子が集まって、一体の巨大なゴーレムを形成した。
「禁書庫の番人……『アルマ・マギステリ』だ!」
カズエルが叫ぶ。それは、この書庫の全ての防衛理式を統括する、マスターゴーレムだった。
「来るぞ!」
戦闘が始まる。アルマ・マギステリは、物理的な攻撃と、空間を歪める理式攻撃を、完璧なタイミングで織り交ぜてくる。
「理式障壁、最大展開! 敵の術式を減衰させる!」
カズエルが即座に防御理式を構築し、ゴーレムの放つ理式攻撃を中和する。
「動きを止める!」
俺とエルンは同時に魔法を放った。俺の《流転の雫》がゴーレムの足元に絡みつき、エルンの《光の枷》がその動きをさらに鈍らせた。
「今だ!」
その隙を突き、レオナルドの双剣とセリスの風哭が躍動する。二人はゴーレムの巨体に張り付き、その硬い装甲の隙間を狙って、休むことなく斬撃を叩き込んでいく。金属と水晶がぶつかる甲高い音が広間に響き渡った。
「カイン、頭! 目くらましする!」
ルナが叫ぶ。彼女はその小さな手に炎を宿すと、ドワーフ王国で得た指輪の力を解放した。
「燃える風船、捕まえちゃえ!――《炎の袋》!」
彼女の子供らしい詠唱に応え、ゴーレムの頭部を消えることのない炎の袋がすっぽりと覆った。視界を奪われ、さらに頭部を継続的に熱せられたゴーレムの動きが、目に見えて緩慢になる。
「やった! カイン、こいつ、熱に弱いみたい!」
ルナの発見が戦況を大きく動かした。
その好機をエルンが見逃すはずがなかった。彼女はそれまでの補助的な光魔法とは全く質の違う、強大な魔力を練り上げ始めた。その瞳に宿るのは、イルディアの力を宿した紫の光。
「光の精霊イルディアよ、終わりの光で灰塵へ、この一撃で焼き尽くす!——《終光》!」
放たれた不可視の光線が、ゴーレムの胸部を直撃した。超高熱の魔法が、論理で構築されたゴーレムの体を内側から融解させていく。アルマ・マギステリは、ただ静かに溶け崩れ、光の粒子となって霧散していった。
ゴーレムが消えた後、目の前の巨大な扉が、ゆっくりと開かれた。
その奥には球形の広大な空間が広がっていた。中央には、一本の巨大な水晶柱が立ち、その中に、一枚の黒い石版が静かに浮かんでいる。
「……あれが」
「ああ」とカズエルが頷く。「奴らの精神干渉の原典となった理式だ」
カズエルはヴァレリウスから託された『万能鍵』を使い、慎重に石版を保護していた封印を解いていく。やがて、石版はゆっくりと俺たちの前へと漂ってきた。
カズエルは、その表面に刻まれた、蠢くような理式の文字列に指を滑らせ、その表情をみるみるうちに険しくさせていく。
「これは……悍ましいな。ただの精神操作じゃない。魂に寄生する論理ウイルスだ。宿主の魂に寄生し、その記憶や感情を養分としながら、いずれは完全に融合してしまう」
その術式のあまりの悪質さに、仲間たちは言葉を失った。
だが、エルンだけは恐怖よりも強い、別の感情に目を奪われていた。
「……魂の構造に直接働きかけることが可能な理式が、本当に存在するのですね……」
彼女は、はっとしたように顔を上げ、カズエルを見た。その瞳は探求者のように、そして、一つの切実な希望に強く輝いていた。
「カズエル、教えてください。この『理』を解明し、応用すれば……カインの中で沈黙してしまった、カイラン様を救う力にもなるのでしょうか?」
彼女の問いに、カズエルは一瞬驚いたが、すぐにその意図を理解し、深く頷いた。
「……理論上は可能だ。だが、それはこの術式を完全に分解し、その逆の作用を持つ、全く新しい解呪理式をゼロから構築することを意味する。途方もない作業になる」
カズエルとエルン、二人のやり取りを見ていた俺は即座に決断を下した。
「この場所で石板を読み解きながら、解呪理式を完成させよう。レオナルド、セリス、入り口の警備を頼む。何者もこの部屋に入れないようにするんだ。ルナは外の回廊の気配を探っていて欲しい。……俺たちで、カズエルとエルンが作業する時間を稼ごう」
仲間たちの顔に、再び緊張と、そして新たな使命感が漲る。
カズエルと、新たな目的を見出したエルンは、黒い石版を前にして膝をつき、その永い歴史を持つ叡智と悪意に満ちた論理の解読を始めた。
俺たちは敵の本拠地の、その心臓部で、反撃の狼煙を上げる準備を始めたのだ。
長い、長い戦いが、始まろうとしていた。




