第200話 矛盾の霧
「――精神攻撃が来るぞ! 全員、意識をしっかり持て!」
カズエルの警告が終わる前に、乳白色の『矛盾の霧』は、俺たちの姿を完全に飲み込んでいった。
「みんな、離れるな!」
俺は叫んだが、その声は霧に吸い込まれ、誰にも届かない。仲間たちの気配が急速に遠ざかっていく。視界が白一色に染まり、方向感覚も、時間の感覚さえも曖昧になっていく。
俺は一人、無限に続くかのような白い空間に立っていた。
『お前のせいだ』
不意に背後から声がした。
振り返ると、そこにいたのは、安らかな顔で血を流す、エルドレアだった。
『わしの命は無駄になった。お前は、わしの犠牲と引き換えに得た闇の力すら、使いこなすこともできずにいる。……お前は賢者の器ではなかった』
「違う……俺は……!」
『何が違うんだ?』
今度は別の声がした。それは俺自身の声。だが、もっと年老いて覇気のない、あの頃の声。みすぼらしいシャツを着た、50代の俺――竹内悟志が、嘲るように俺を見ていた。
『結局、何も変わってないじゃないか。お前は、今も、誰かに与えられた力と立場の上で、英雄ごっこをしているだけ。中身は空っぽのままなんだよ』
二つの幻影が俺の心を最も深い場所から抉っていく。そうだ、俺は何も成し遂げていない。全てはカイランの力、仲間たちの力、そしてエルドレアの犠牲の上に成り立っているだけ……。
意識が白い霧の中へと沈みそうになる。
その頃、仲間たちもまた、それぞれの心の迷宮に囚われていた。
レオナルドは見覚えのある森の議事堂にいた。彼の前にはヴァルディス一族の歴代の長たちが、幻影となって並んでいる。
『得体の知れぬ異界の者に付き従うとは。ヴァルディス家の名を、これ以上汚すでない』
『森の伝統こそが我らの誇り。お前の剣は、その誇りを傷つけている』
彼らはレオナルドが最も恐れる「一族の名誉」という名の鎖で、彼を縛りつけようとしていた。
セリスが見ていたのは、穏やかな陽光に満ちた平和なエルフェンリートの森だった。そこではヴィンドールが民に囲まれ、賢帝として慕われている。
『セリスよ。そなたが間違っておったのだ。見よ、私が築いた、この揺るぎない秩序と平和を。そなたがカインと共に歩む道は、ただ無益な争いを生むだけだ』
ヴィンドールの幻影が、優しく、しかし有無を言わさぬ力で、彼女の信念を揺さぶる。
エルンは大書庫の、あの日の書斎にいた。目の前には尊敬してやまなかった、本来の賢者カイランがいる。
『なぜ私の器を信じる? あれは、ただの異邦人。お前が本当に尽くすべきだったのは私だったはずだ』
カイランの幻影が悲しげに彼女を見つめる。憧れと、罪悪感が、彼女の心を蝕んでいく。
ルナは独りぼっちだった。暗く、冷たい森の中。かつて、仲間とはぐれ、死の恐怖に震えた、あの場所に。
『……ルナ、もう行くね』
『ごめん、足手まといだから』
遠くから、カインやエルンの声が聞こえる。彼らが自分を見捨てて去っていく幻聴。孤独という、彼女が最も恐れる悪夢が、その小さな心を覆い尽くそうとしていた。
絶望が、六人の心を飲み込もうとした、その瞬間。
「――ふざけるな!」
俺は叫んでいた。
「エルドレアの覚悟も、カイランの想いも、俺が背負うと決めたんだ! 過去の俺がどうだろうと関係ない! 俺は今の仲間たちと共に先へ進む!」
俺がそう叫んだ瞬間、目の前の幻影に光の亀裂が走った。
『私はカイン殿が信じる道を進むと決めたのだ!』レオナルドの咆哮が響く。
『この平和は偽り! 私が信じるのは、カイン殿が見せてくれた、痛みを知る者の優しさです!』セリスの剣が幻影を切り裂く。
『私は、今のあなたを信じています!』エルンが過去の幻影に別れを告げる。
『カインは、ルナを独りにしない! 絶対に!』ルナの叫びが孤独の森を吹き飛ばす。
『……面白い。この矛盾だらけの状況こそ、俺が解き明かすべき最高の理式じゃないか』カズエルの声が論理の牢獄を破壊する。
六人、それぞれの心が幻影を打ち破った。
白い霧が急速に晴れていく。気づけば、俺たちは、元の広間に立っていた。互いの姿が見える。誰も欠けてはいない。皆、疲弊し、やつれた顔をしている。だが、その瞳には自らの心の闇を乗り越えた者だけが持つ、以前よりも遥かに強く、そして澄んだ光が宿っていた。
「……どうやら、全員、無事みたいだな」
俺が言うと、仲間たちは互いの顔を見合わせ、静かに、しかし力強く頷いた。
俺たちは、この禁書庫の厄介な罠を、また一つ、乗り越えたのだ。




