第196話 古文書の番人
カズエルに導かれ、俺たちはアーカイメリアの知の心臓部『大書庫』へと足を踏み入れた。
その内部は想像を絶する空間だった。床から視界の及ばぬ遥か上方の天井まで、壁という壁が全て、無数の書物で埋め尽くされている。いくつかの書棚は、物理法則を無視して宙に浮き、緩やかに回転していた。静寂の中、学者たちが魔法の足場に乗って宙を移動し、目的の書物を探している。古い羊皮紙と、魔力を帯びたインクの匂いが、この空間の長大な歴史を物語っていた。
「これが、世界の叡智の集積庫……」
エルンが感嘆の息を漏らす。魔導の探求者である彼女にとって、ここはまさに聖地だろう。
「すごい……。本が、お空に浮いてる……」
ルナもまた、きょろきょろと周囲を見回し、その非現実的な光景に目を奪われていた。
「感心している暇はない。行くよ」
カズエルは慣れた足取りで、俺たちを大書庫の奥深くへと案内していく。彼の話によれば、この書庫は迷宮のように入り組んでおり、深層部へは、限られた資格を持つ者しか立ち入れないのだという。
やがて俺たちは、ひときわ古めかしく、そして重厚な扉の前へとたどり着いた。扉には「禁書庫」と古代語で記されている。
カズエルが扉を特定の魔力パターンで三度叩くと、内側から錠の開く音がした。
「……入れ」
中から聞こえてきたのは、年老いた、穏やかな声だった。
扉の奥は、さらに静かで、濃密な知識の気配に満ちた部屋だった。その中央、山と積まれた古文書に囲まれた机で、一人の老神官が、拡大鏡を片手に書物の解読に没頭していた。
「……カズエルか」
老神官は顔を上げると、懐かしいものを見るように、その目を細めた。
「……お久しぶりです、ヴァレリウス様」
ヴァレリウスと呼ばれた老神官は、カズエルの背後に立つ俺たちに視線を移すと、すぐに事態を察したようだった。彼は杖をついて立ち上がると、扉に手をかざし、強力な防音と防諜の理式を展開させた。
「……無事であったか。それが何よりだ。だが、なぜ戻ってきた。お前ほどの切れ者が、この都市の『闇』に気づかぬはずはなかろうに」
ヴァレリウスの言葉に、カズエルは静かに頷いた。
「ええ。だからこそ、戻ってきました。俺一人の手には余る、その『闇』と決着をつけるために。……こちらは、俺の仲間です」
カズエルが俺たちを紹介すると、ヴァレリウスは一人一人の顔をじっと見つめ、そして、俺の姿に目を留めた。
「……ほう。貴殿が、あの『双冠の英雄』カイン殿か。噂は、このアーカイメリアにも届いておる。して、その魂に宿すは……光と、そして、なんという深く、静かな闇だ……」
彼の慧眼は、俺の内なる力の正体までも見抜いているようだった。
俺は魔族領での出来事、そしてマルヴェスから得た情報を、ありのままに話した。操られた魔族たち、解くことのできなかった精神操作の術式、そして、その術式がアーカイメリアの神官のものであるという、衝撃の事実を。
俺の話をヴァレリウスは黙って聞いていた。そして、全てを聞き終えると、深い、深い溜息をついた。
「……やはり、奴らの仕業か。もはや、見て見ぬふりをすることも限界のようじゃな」
彼の顔には深い後悔と、そして、何かを決意したような、強い光が宿っていた。
「カズエル。そして、賢者カイン殿。よくぞ、ここまでたどり着かれた」
彼は、ゆっくりと俺たちを見回した。
「危険な話になる。それでも、聞く覚悟は、おありかな?」
俺たちは誰一人として、目を逸らさなかった。
その無言の答えに、ヴァレリウスは満足げに頷いた。
「よろしい。ならば私が知っていること、そのすべてをお話ししよう。この都市の光に隠された、深き闇……」
彼の声が、わずかに震える。
「――『混沌の使徒』について」




