第16話 魔法キツネの名は
翌朝、俺は魔法キツネの穏やかな寝息を感じながら目を覚ました。昨夜、治療を終えた後、キツネは俺の膝の上ですっかり安心しきって眠りにつき、そのまま朝を迎えたのだった。その小さな温もりは、孤独だった俺の人生にはなかった、確かな手応えのあるものだった。
「おはよう、キツネ」
俺がそっと声をかけると、キツネはゆっくりと目を開け、甘えるように尻尾を振った。まだ傷は癒えていないが、昨日よりも動きがしっかりしている。
「カイン殿、魔法キツネの具合はいかがですか?」
神殿の庭に出ると、エルンが心配そうに近づいてきた。報告を受けたライルも、少し離れた場所から安堵の表情でこちらをうかがっている。
「昨夜よりはずっと元気そうだ。傷も悪化していないし、水も少し飲んだ」
「それは良かったです。これほど人に懐くとは……やはり、カイン殿が特別な方だからでしょう」
ライルの言葉に俺は苦笑する。特別なのではなく、ただ目の前の命を見捨てられなかっただけだ。
「このまま『キツネ』と呼び続けるのもなんだしな。こいつに名前をつけてやるか」
俺がそう言うと、魔法キツネは耳をピクリと動かし、興味深そうに俺の顔を見上げた。
「名前、ですか?」
エルンが微笑みながら問い返す。
「ああ。これからは俺たちの仲間だ。名前があったほうがいいだろ?」
俺は魔法キツネの金色の毛並みを撫でながら、少し考えた。月夜の下で出会った、美しい生き物。その輝きを名前に込めてやりたい。
「そうだな……金色の毛並みと、月の光みたいな輝きを持ってるから……『ルナ』ってのはどうだ?」
その名を口にした瞬間、魔法キツネは俺の顔をじっと見つめた後、嬉しそうに「きゅん」と鼻を鳴らした。まるで、その名前をずっと待っていたかのように。
「ルナ……素敵な名前ですね」
エルンも優しく微笑んだ。
「決まりだな。お前の名前は今日からルナだ」
俺がそう宣言すると、ルナは尻尾をふわりと振り、俺の腕に顔をすり寄せた。
小さな魔法キツネとの新たな絆が生まれた、その時だった。
俺の意識の奥から、カイランの声が響いてきた。
『ふむ……まさか、お前がその名を選ぶとはな』
(カイラン?)
『お前の偶然の選択には、時折驚かされる。その名、『ルナ』はな……この魔法キツネが生まれ持った、本来の名だ』
(……え? なんだって?)
思わず俺は目を見開いた。偶然にも、俺が考えた名前が、この子の真の名前だったというのか?
『信じがたいかもしれんが、名は魂に刻まれるものだ。お前がこの名を口にした時、ルナの魂が共鳴したのだろう』
俺が驚きに言葉を失っていると、腕の中のルナが、ゆっくりと俺を見上げた。その金色の瞳は、先ほどまでとは違う、深い知性の光を宿している。そして、次の瞬間――
「……カイン……」
「えっ!?」
エルンとライルも、信じられないというように絶句した。ルナの口から発せられたのは、たどたどしいながらも、明らかにエルフの言葉だった。
「ルナ……今、喋ったのか?」
「……うん。カイン……とくべつ……」
「魔法キツネの中でも、言葉を話せる個体は極めて稀だと、古文書で読んだことがあります……」
エルンが信じられないといった表情で呟く。
「カイン殿、もしかするとルナは、ただの魔法キツネではないのかもしれません」
俺の胸に新たな疑問と、この小さな仲間への強い興味が湧き上がる。ルナの存在は、これから俺の運命に、そしてこの世界のざわめきに、どう影響を与えていくのだろうか。物語は、また一つ、新たな扉を開こうとしていた。




