第12話 長老の集落
翌朝、俺は神殿の庭で朝の光を浴びながら、深く息を吸い込んだ。エルフェンリートの空気は澄んでいて、どこか心を落ち着かせる力がある。50代の無職として生きていた頃の、排気ガスと喧騒に満ちた朝とは何もかもが違った。この世界に来てから、試練と緊張の連続だったが、それでもこの静かな朝を迎えられることに、不思議な安らぎを感じていた。
「カイン、おはようございます」
振り返ると、エルンが微笑みながらこちらに歩み寄ってきた。昨日の市場巡りで、彼女との距離は確かに縮まったように感じる。
「おはよう、エルン。今日の予定は何かあるのか?」
「はい。今日は、エルフェンリートの森の外れにあるセリディアの集落を訪れていただきたいのです。そこには、長老会の一部の者たちも暮らしており、あなたのことをその目で見極めたいと考えているようです」
「長老会……。いよいよ、本丸に乗り込むってわけか」
俺は軽く頷いた。彼らの信頼を得るためにも、避けては通れない道だ。
「ええ。ですが、その前に……」
エルンは少し表情を引き締めた。
「カイン、あなたはとても自然に人々と接していました。ですが、エルフの文化や価値観を深く理解するには、もう少し時間が必要かもしれません。彼らは長寿ゆえに変化を受け入れにくく、保守的な考えを持つ者も多いのです。焦りは禁物ですよ」
「つまり、俺はまだ外から来た異物ってことか?」
「そうではありません。ただ、時間をかけて、確実に歩んでいくことが大切なのです」
俺は腕を組みながら考えた。確かに、俺はこの世界に来たばかりで、表面的なことしか分かっていない。エルンの言うことももっともだ。
「わかった。焦らずにいくさ」
エルンはほっとしたように微笑んだ。
「では、準備ができましたら出発しましょう。森の道は長いですが、あなたにとっても新しい発見があるはずです」
俺たちは神殿を後にし、セリディアの集落へと続く森の小道へと足を踏み入れた。
森の中は静かで心地よかった。何百年も生きているであろう巨木が陽光を和らげ、涼しい風が俺たちの頬を撫でていく。道の両脇には見たこともない色とりどりの花々が咲き誇り、時折、リスに似た小動物が枝から枝へと飛び移っていくのが見えた。
「エルフたちは、この森と共に生きているんだな」
俺が周囲を見渡しながらつぶやくと、エルンが小さく頷いた。
「ええ。森は我々にとってただの住処ではありません。我々の魂の一部であり、力を与えてくれる存在なのです。あの大きな木は『唄い樹』と呼ばれ、風が吹くと葉擦れの音で精霊の歌を奏でると言われています」
「なるほどな……」
俺は地面を踏みしめながら、ゆっくりと進んだ。この森の自然の調和を乱さないように、エルフたちは細心の注意を払って暮らしているのだろう。
しばらく歩くと、道の先に小さな集落が見えてきた。木造の家々が、まるで森の景観に溶け込むように建てられている。
「ここがセリディアの集落か」
「はい。長老会の中でも特に保守的な考えを持つ方々が住んでいる場所です。皆、あなたのことを注意深く見ているはずです」
俺は深呼吸をし、エルフたちの集落へと足を踏み入れた。
その瞬間、集落の空気がぴんと張り詰めた。家々の陰や市場の端から、エルフたちの視線が一斉にこちらへ向けられる。驚き、警戒、そして好奇心が入り混じったような視線が、俺の全身に突き刺さった。
「……歓迎されているとは、お世辞にも言えなさそうだな」
俺がぼそっとつぶやくと、エルンが苦笑しながら答えた。
「当然です。カイン、あなたは、このエルフェンリートの森にとって突然現れた異質な存在。試練を乗り越えたとはいえ、それがこの地に何をもたらすのか、皆がその目で見極めようとしているのです」
そう考えていると、集落の奥から一人の年配のエルフが、杖をつきながらこちらに歩み寄ってきた。長く白い髪を後ろに束ねた、厳格な顔つきの男だ。その眼光は、まるで俺の内側まで見透かすように鋭い。
「貴殿が、カイラン様の魂を受け継いだという者か」
低く響く声に、俺は背筋を伸ばした。どうやら、この集落の中でもかなりの影響力を持つ人物らしい。
「俺はカイン。あなたが……?」
「私はエルドレア。長老会の一員だ」
エルドレアと名乗ったそのエルフは、俺を見定めるようにじっと見つめている。
「貴殿が賢者としてふさわしいかどうか、このエルドレアが、見極めさせてもらうぞ」
その言葉に、周囲のエルフたちがさらに緊張した空気をまとった。俺の「第三段階」の試練は、この厳格な長老を納得させることから始まるようだった。




