第11話 新たな呼び名
フィリア村の市場は、生命力そのものに満ちていた。
色とりどりの果実が山と積まれ、露店には精霊の加護を受けたという宝飾品や、丁寧に鞣された革製品が並ぶ。エルフの子どもたちが鈴の音のような笑い声を上げながら駆け回り、職人たちは客と談笑しながらも、その手は休むことなく木彫りの細工を仕上げていく。その光景は、俺がいた世界の喧騒とは質の違う、穏やかで温かい活気に満ちていた。
「すごいな……」
俺が思わず呟くと、隣を歩くエルンストが静かに頷いた。
「この村の民は、森と共に生きていますから。彼らの作るものには、すべて精霊の息吹が宿っているのです」
「なるほどな。だからか、一つ一つに体温が感じられる気がする」
俺は一つの店先で足を止めた。そこでは、風に揺れると澄んだ音を立てる、ガラス細工のような飾りが売られていた。
「あれは?」
「風鈴のようなものでしょうか。風の精霊の通り道に置くと、魔力の流れに応じて音色が変わるのです。森の機嫌を知らせる、一種の観測具でもあります」
そんな会話を交わしながら歩いていると、ふと、一つの小さな問題が頭に浮かんだ。ずっと気になっていたことだ。
「……エルンスト、ちょっといいか?」
「どうしました、カイン殿?」
彼女は俺の方を向きながら穏やかに問いかける。
「いや、その……君の名前なんだが。正直なところ、俺には少し長くて呼びにくいんだ。俺がいた世界の言葉とは、どうにも相性が悪くて」
俺の率直な言葉に、エルンストは驚いたように目を瞬かせた。
「もうちょっと気軽に呼べる名前とか、愛称みたいなものはないだろうか?」
彼女は一瞬考え込んだ後、くすりと小さく笑った。その表情は、普段の厳格さとは違う、年相応の女性のような柔らかさがあった。
「確かに、カイン殿は異世界の方ですから、エルフの名は馴染みがないかもしれませんね。……昔、親しい者からは短縮した名で呼ばれていたことがあります」
「ほう、それは?」
「エルン、という愛称です」
俺はその名前を口の中で転がしてみる。
「エルン……。うん、それなら呼びやすい。これからは、そう呼ばせてもらうよ」
「はい。カイン殿には、そうお呼びいただければ光栄です」
エルンスト――いや、エルンは、穏やかに頷いた。その長い銀髪がさらりと揺れる。たったそれだけのことなのに、俺たちの間の空気が、少しだけ和らいだ気がした。
その日の夕暮れ、俺とエルンは神殿へと戻った。市場での出来事を振り返りながら、俺はふと彼女に尋ねた。
「なあ、エルン。お前の師匠だったカイランって、どんな人だったんだ? 俺の中にあるのは記憶の断片だけで、人間性みたいなものがよく分からないんだ」
「カイラン様は……そうですね、探求者でした」
エルンは少し寂しそうな、それでいて誇らしげな瞳で、遠くを見つめた。
「常に書庫にこもり、古代の魔法や失われた術式の研究に没頭されていました。けれど、決して冷たい方ではありませんでした。私がまだ見習いだった頃、大事な古文書にインクをこぼしてしまったことがあります。もう神殿にはいられないと泣いていた私に、カイラン様は『過ちは失敗ではない。新たな知識を得るための、ただのデータだ』と微笑んで、修復の魔法を教えてくださったのです」
その思い出を語る彼女の横顔は、俺が今まで見た中で、一番優しく見えた。
「そうか……。カイランではなく、俺がこうして目覚めたこと、エルンにとっては複雑だったか?」
俺が改めて問うと、エルンは俺に視線を戻し、はっきりと答えた。
「正直に申し上げれば……最初は困惑しました。ですが、あなたが試練を乗り越え、そしてこうして私たちの社会を知ろうとされている。その姿に、私は少しずつ……あなたを信じ始めています。カイラン様が遺した器だけでなく、カインという、あなた自身の魂を」
「少しずつ、か。……なら、俺もその信頼に応えられるように、もっと努力しないとな」
「ええ。期待しています、カイン」
エルンは柔らかく微笑んだ。
エルフの世界に飛び込んだ俺にとって、エルンという存在は道標であり、最も信頼できる仲間になりつつあった。この世界でどう生きるべきか、その答えが少しずつ形になり始めている気がした。




