第103話 闇の帳の向こうで
天蓋に浮かぶは、血のように赤い三日月。
その下、黒曜石で築かれた塔の最上層に、重苦しい沈黙が落ちていた。
部屋の中心には一人の女が膝をつき、衣服の袖を焼かれ、黒き血を垂らしていた。
ゼノヴィア——ナイトメアの眷属。
夢と精神の深淵を操る魔族でありながら、いまその姿は痛々しく、威厳すらも剥がれ落ちていた。
「……戻ってきただけ、まだマシだと思うべきかしらね」
やや高い声が、室内の奥から響いた。
黒銀の髪をゆるく束ねた女、ネフィラが窓辺に立ち、紅い月を背にしてゼノヴィアを見下ろしていた。
ゼノヴィアは顔を伏せたまま、冷たい床に両手をつく。
その指先は微かに震えている。夢魔である彼女にとって、「光」は最も忌むべき属性だ。
「……悪夢の領域を貫くような光だった。無理やり干渉してきた……あれは、意思の魔法よ」
「ふうん。つまり、お前を退けるに足る意志を、奴が持っていたということよね」
ゼノヴィアは歯を食いしばるように黙り込んだ。
悔しさと恐怖、そして何より予想外の敗北が、その姿からにじみ出ている。
部屋の奥、もう一人の影が立ち上がった。
黒と赤の礼服を身にまとい、眼鏡の奥で鋭く光る瞳を持つ男——マルヴェス・ブラッドロック。
闇の知を司る者、魔族における知的派閥の筆頭たる存在である。
「ゼノヴィア。あのとき、私が言っただろう。相手を見誤るなと」
その声は淡々としていたが、わずかに棘を含んでいた。
「報告を聞く限り、相手はお前が思っていた以上に夢に対しての理解を持っていた。
それに、彼の使った光魔法……あれは通常の聖属性ではない。精神領域に特化した術式が組み込まれていた」
「……奴は、意図して私の術域に踏み込んできた。おぞましいまでの意志で」
ゼノヴィアの呟きに、マルヴェスは軽く肩をすくめる。
「となれば、ここで手を引くのが上策だ。
無理に追えばこちらの情報を晒すことになる」
「つまり、尻尾を切って逃げると?」
ネフィラが半ば呆れたように言う。
「そうだ。ゼノヴィアにはしばらく姿を消してもらう。
このままでは奴らに動機を与えすぎる。次に動くのは、もっと『歪んだ者たち』でいい」
マルヴェスの指が空中に軌跡を描くと、そこに浮かび上がったのは魔族領各地を記した地図だった。
いくつかの領域には赤い印がつけられ、そのひとつにはネフィラの印も含まれていた。
「……まさか、彼らを動かすつもりなの?」
「選択肢のひとつだよ。ゼノヴィアは今回、情報と引き換えに役割を果たした。
カインという名の光使いが、かつての賢者の器を継いでいる——それが事実として証明された」
「情報としては十分ね。けれど……」
ネフィラはゼノヴィアの前に歩み寄り、その顔を見下ろした。
「あなたにしては、ずいぶん情けない姿じゃない?」
「……次に会ったときは……私が、彼の夢を壊すわ」
「その言葉、忘れないことね。
今度は、彼の心だけでなく、その周囲をも喰らう覚悟がなければ、意味はないわ」
紅い月が、塔の窓を通じてゼノヴィアの傷口を照らしていた。
その痛みが消えぬうちは、彼女は再び姿を現さないだろう。
だが、それは敗北ではない。
それは——次なる闇の目覚めを促す、予兆にすぎないのだった。




