第100話 願いよ、届いてくれ
ふたりの夢に手が届いたその夜、俺はほとんど眠れなかった。
ルナの指先はかすかに動き、エルンのまぶたも微かに震えていた。
けれど、それきりだった。目を開けることも、声を返すこともない。
あの光は確かに届いた。
だが、ゼノヴィアの呪縛はまだ消えていない。
夢の奥、心の最も深い場所——そこに囚われたままなんだ。
(もう一度。今度こそ)
あのふたりを、引き戻す。
それは誓いでもあるし、願いでもある。
あのふたりを、今度こそ——絶対に、呼び戻す。
夜の冷気が、肌を刺すほどに鋭かった。
俺は部屋の窓際に立ち、星の見えない空を見上げていた。
カーテンの隙間から射し込む冷たい空気の中、ふたりが囚われている夢の奥を想像していた。
俺はエルンとルナの眠る枕元に座り、そっと手を重ねる。
この場所で、この光を——必ず届ける。
——光の精霊、ルミナ。
俺が願う光に、もう一度応えてくれ。
カイランの記憶や魔力を利用するんじゃない。
俺はただ、今の俺として、ふたりを助けたいんだ。
思い出す。
エルンが、どれだけ真剣に俺を支えてくれたか。
ルナが、どれだけ俺のそばで笑ってくれたか。
かつての俺は、誰にも頼らず、誰にも頼られないことを生き方だと思っていた。
けれど、今は違う。
この手は誰かの手を握るためにある。
この声は誰かを呼び戻すためにある。
それを、この場所で教えてくれたのが——ふたりだった。
俺は目を閉じた。
魔法陣が足元に浮かび上がる。
ゆっくりと、静かに、でも力強く術式を紡いでいく。
「光の精霊ルミナよ」
空気が震える。
指先に、精霊の呼吸が宿る。
「我が魂を、我が願いを、代償としても構わない。
けれど、この光だけは、どうか否定しないでくれ」
魔法陣がひときわ大きく輝く。
それは夜を断ち切るような白銀だった。
「恐れに囚われ、夢に閉ざされた魂よ——」
息を整える。すべての想いを、最後の言葉に込める。
「どうか、目覚めてくれ。
《覚醒の閃光》!!」
光が、奔った。
それは静かで、けれどとてつもなく力強かった。
大気を震わせ、世界を貫き、俺の魔力をすべて運んで夢の深奥へ届いていく。
手応えがあった。
これはもう試みじゃない。
——届く光だ!
意識が夢の中へと沈んでいく。
最初に見えたのは、あの森だった。
木々が黒くねじれ、地面が裂け、空は絶望に沈んでいた。
そこに、小さく膝を抱えていたのは——ルナだった。
血の滲んだ足、涙を浮かべた瞳。
何も言わず、ただじっと闇の中に佇んでいた。
「ルナ!」
叫んだ。声は、夢の中に響いた。
けれど、彼女は振り向かない。
ゼノヴィアの呪いは、記憶そのものを牢にしていた。
だから、俺は言葉を尽くす。
「大丈夫だ、ルナ。もう一人じゃない」
あの時、誰も来なかったけど——今は違う。
「俺が来た。迎えに来た。
だから、もうその手を伸ばしてもいい」
その瞬間、ルナの肩が震えた。
顔を上げ、霧の中に俺を見つける。
彼女の瞳に、光が差し始めた。
そして——
「カイン……」
その声は、涙よりも温かかった。
場面が変わる。
石の回廊、響く足音、長い影。
それはエルンの記憶。
カイランの背を追って走る夢の中。
彼女は何度も足を止め、何度も立ち上がっていた。
『間に合わない』『選ばれなかった』『何も守れなかった』
ゼノヴィアの声が、執拗に彼女を縛りつける。
「違う!」
俺は、彼女の前に立つ。
そして、叫んだ。
「お前は立ち止まらなかった!
泣きながらでも、諦めずに走ってた。
お前のその足は、誰よりも強い!」
光が、彼女の足元から湧き上がる。
エルンは、振り向いて俺を見る。
その目に、強さが戻っていた。
「……遅いわよ、カイン」
それは——確かに、エルンだった。
光が弾ける。
世界が、現実へと戻っていく。
目を開けると、俺はまた部屋の中にいた。
けれど、ふたりは——
「ん……」
ルナが、小さく目を開ける。
「……カ、イン……?」
エルンが、涙を浮かべながら、俺の名を呼んだ。
その声に、俺は笑った。
もう、言葉なんかいらなかった。
全身を襲う凄まじい疲労感の中、俺はただ、ふたりの手が温かいことだけを、確かめていた。




