夫婦喧嘩
一時間目の国語も、二時間目の理科も、やっぱり黒板の文字を書き写すのは大変だった。ひらがな一つ書くにしてもすごく時間がかかって、自分でもイライラしてしまう。
藤森先生は僕のことを気づかって、先に進むのを止めてくれたり「久村くん、もう書けた?」なんて確認してくれたりしたけれど、僕のために授業が遅れるのは何だかみんなに申し訳ない。
秋岡は「授業がこれだけゆっくり進むと楽でいいよな」と嬉しそうだったが、頭の良い渡辺くんや津村さんは少し不満そうだ。僕はもっと左手の訓練をしなくちゃならないと思った。
「おい久村、ドッジボールしに行こうぜ!」
二時間目が終わると三十分の休憩時間がある。声をかけてきたのは金田だが、僕の右手が視界に入ると「あ……そっか」と骨折していることを思い出したようだった。
僕はドッジボールに参加できないけれど、教室の中でジッとしているのは性に合わないから、とりあえず一緒に外に出て見学することにした。
友達が楽しそうにボールを投げ合うのを、離れた場所から眺めていると落ち着かない気持ちになる。のけものにされているわけでも、イジメられているわけでもない。一緒に遊べないのは僕が怪我をしているからだと分かっているけれど、一人でポツンとたたずんでいるのは悲しい。
校庭にある遊具はブランコとジャングルジム、砂場があるくらいだ。あとは広い平地にサッカーゴールが四つ設置してあるだけ。ブランコもジャングルジムも楽しいとは思えないし、砂場は一、二年生が占領している。
骨折は右手の自由だけでなく、僕から遊びと友達も奪ってしまうのかもしれない。
「クラスの子に骨折のこと何か聞かれたかい?」
夕食の席でおばあちゃんから質問された。僕は口の中いっぱいにハンバーグをつめこんでいたからコクリと頷くことしかできなかった。
「そりゃ色々と聞かれるでしょ。聞かれなかったらそれもう空気だよ。存在感なさすぎ」
お兄ちゃんはいつも一言多い。悪気はないのかもしれないけれど、お兄ちゃんの言葉に傷つけられることは少なくない。
「授業はどうだった? ちゃんとついていけた?」
「お母さん、そんなに心配しなくても大丈夫よ。不便に感じるのは最初だけですぐ慣れるわ。それに一カ月半後には元通りになるんだし」
「そうそう、おばあちゃんは優斗をひいきし過ぎなんだよ」
僕が喋れないのを良いことに、お母さんとお兄ちゃんは散々なことを言う。二人は骨折したことがないからそんな軽々とした口がたたけるのだ。僕は反論しようと急いでハンバーグを咀嚼した。
そのとき、リビングの電話が鳴り始めた。お母さんが席を立って受話器をとる。このときの「はいもしもし久村ですが」という声は普段のお母さんの声じゃない。音が半音高くなって、はきはきした感じの声になる。
前にどうして電話のときは声を変えるのか聞いたことがある。お母さんによると、それは「電話するときのマナー」らしい。
そんなことは学校では習わないし、本当かどうかは分からないけれど、本当だとしたら電話のマナーがちゃんとしているのはうちの家族の中ではお母さんだけだ。
「何かご用ですか」
電話口で話すお母さんの声が突然不機嫌な感じになった。まだ受話器をとったばかりなのに、こんなに機嫌が悪くなるなんてどういうことだろう。シュウキョウか何かの勧誘だろうか。
お母さんは「健人、電話」と言ってお兄ちゃんに受話器を手渡すと、ため息混じりに食卓に戻ってきた。
「龍之介さんかい?」
おばあちゃんの問いかけに、お母さんは黙ってうなずく。
「いい加減仲直りしたらどうだい?」
「勝手に出て行ったのはあっちだもの。仲直りしようにも向こうが帰ってこないんだからどうしようもない」
「帰っておいでって言ってあげれば、龍之介さんだって帰ってくると思うけどねえ」
「何で私からそんなこと言わないといけないのよ」
龍之介というのはただ今絶賛別居中である僕のお父さんの名前だ。別居の原因は通販で買ったこの黒いテーブルにある。
お父さんとお母さんが一緒に相談して決めた段階では白いテーブルだったのが、いざ届いてみると黒で最初と話が違う、とお父さんが異議を申し立てたのだ。
猛烈な抗議をするお父さんとは対照的に、お母さんはケロッとした様子で「だって白だと汚れとか目立つでしょ」と答えていた。
僕は勝手に色を変更したお母さんが悪いと思うのだけど、どういうわけか出て行ったのはお父さんで、二週間も別居状態が続いている。
「おい優斗、お父さんが代わってくれって」
お兄ちゃんから受話器を受け取り、久しぶりにお父さんの声を聞く。
「優斗、元気か?」
「うん。元気だよ。お父さんも元気?」
「お父さんも元気だ。ホテルはちょっと狭くてくつろげないのが辛いけど」
家を出てから三日くらいは同僚の人の家に泊めてもらっていたそうだが、今は駅前のビジネスホテルで寝泊まりしているらしい。
「だったら戻ってくればいいのに」
「そうはいかない。お父さんにだって意地ってやつがあるんだから」
「そんなの、くだらないと思うよ」
「優斗はプリンを食べたのに、にんじんの味がしたらどう思う?」
「それは嫌に決まってる」
「そうだろ? お父さんもそれだけ嫌な思いをしたんだ。お父さんはお母さんが謝るまで帰らないから、そう伝えておいてくれ」
どうやら、お父さんは相当嫌な思いをしたらしい。だからって家を出て行くのはちょっと違うと思うけれど、お母さんが謝れば帰ってくる気があるんだということが分かって安心した。
受話器を置いて電話を切ってから、何か忘れているような気がした。よくよく考えてみると僕が骨折したことをまだお父さんに報告していない。でもまあ大人にとって骨折は大したことではないらしいから、次に会った時に報告すればいいだろう。
「お父さん、お母さんが謝れば帰ってくるって言ってたよ」
「それ、もう健人から聞いたよ」
どうやらこの夫婦喧嘩は一筋縄では解決しそうにない。