reassurance -安堵-
「あああもうっ。あとちょっとだったのに!」
癖毛の少年はその場で地団駄を踏んだ。
年齢は13歳くらいだろうか。幼さを残した学生らしい顔つきだが、声は子供ほど高くはない。
「……私の失態よ。悪かったわね」
ルーナは立ち上がり、スカートについた砂埃をはたく。手首には赤い痕を残るものの、いばらの拘束からは解かれていた。
「ルーナさん!手怪我してるじゃないですか!」
「自分で治せるわ。……それよりも、この人を治療してもらえる?彼も怪我してるみたいだから」
「わっ、わかりました!……もしもーし、大丈夫ですか?びっくりしましたよね」
少年はリアムの元へ駆け寄った。
あの後から一言も話せなかったリアムは、ここでようやく「あ、ああ」と返事をした。
我ながら、間抜けな返事だと思ったが、何が何やらでパニックになりかけている頭を、必死で落ち着かせることに精一杯だった。
「……身体を何箇所か擦りむいていますね。この薬を使ってください。シミもしないし、すぐに治りますよ」
そう言うと、少年はズボンのポケットから小さなケースを取り出す。回して蓋を開けるとグリーンのジェルらしきものが入っている。植物性っぽい香りがする。少年はそれを指で掬って、リアムの手や額についた微細な傷に塗っていく。
「……ありがとう」
「いえいえ!これぐらいのことは!むしろ助けが遅れちゃって、ごめんなさい」
ぎこちないリアムの謝辞に、少年ははにかんだ。目の下のそばかすが特徴的だった。
皮膚に薬が塗られた瞬間、その患部は熱を帯びて熱くなる。よく見ると、手の甲の傷がだんだんと塞がっているではないか。リアムは目を見開いて、急速に塞がっていく傷口を見つめる。
「……塗り薬なんかよりも、オスカルの治癒魔法を使えばいいじゃない」
それを見たルーナが、腕を組んで少年の後ろを見守る。オスカルと呼ばれた少年は振り返って、
「治癒魔法は僕の得意分野じゃないですよ。それにこの塗り薬は、ベテランの薬屋に頼んだ魔力入りものなんです。ルーナさんこそ凄い人なんだから、ささっとやっちゃえばいいのに」
「ヒールは得意じゃないわ。前にカーターにやった時にすごくシミるって嫌がられたし……」
「あ~……そう言えば痛い痛いってうるさかったですね。まったく、みんな魔法ばっかりに頼るから~。薬の良さを分かってないなぁ」
「お金もかかるからでしょ。あといちいち買いに行くのも、塗るのも面倒くさい」
「でもシミるのは嫌でしょ?ルーナさんも。治癒魔法が得意じゃないと言うのなら、僕がその手首の傷は塗りますよ」
「……まぁたまには薬とやらにお世話になってもいいかもね」
と、つんとした表情のルーナはぼそりと呟いた。
最後の傷を塗り終えると、オスカルは立ち上がって、
「他に見当たる傷はありませんね!スーツは破れて少しダメになっちゃいましたけど……。痛む箇所が別にあれば、教えてください。この薬、すごく効くんです」
と、得意そうに薬の蓋を叩いた。
「ありがとう、どうも……」
「まったく、何だったのあの男は。大体あんた、私との待ち合わせの時間と場所はどうしたのよ。なんであんな奴と一緒にいたのよ。まさか知り合いでもあるまいし」
ルーナはリアムに向かって、強い語気で追求する。
しかし、そんなことを言われてもリアムにはさっぱり理由も分からない。それに……。
「え、俺のバディはあなたなんですか?」
「はぁ?なんでそんなことも知らないのよ!」
「カーター所長さんが、君のバディは会ってからのお楽しみだって言うから……そもそも俺を襲ってきた男も、君のバディだよって名乗るから信じたまでで……」
たどたどしい言い方になってしまったが、これは事実だ。
怪しまれないためにも、リアムには何の落ち度もないアピールをしなけらばならなかった。
「……ちっ。それはカーターが悪いわね。とんだ無駄なサプライズだわ」
「で、でもそんな男に襲われるなんて……あの人はあなたと知り合いじゃないんですよね?そもそもなんで待ち合わせの時間と場所も、あんな野郎に把握されて……」
オスカルは、心配そうにリアムの顔を見る。全員が、今回の事態は前代未聞の、寝耳に水な事態だったようだ。
「はい……あなたの言うとおり、あの男はまったく知らない人です。ベルローズ事務所を名乗って、俺のバディであることを言われたので、思わず信じてしまいました……確か名前はイヴァンと名乗っていました」
「イヴァン、ね。残念だけどうちの事務所にそんな名前の奴は名簿に載っていない……それにあんな顔だって見たことがないわ。まぁいい、あなたは巻き込まれただけのようだし」
「でも、どうして魔法界に所属しているわけでもない一般人のリアムさんを襲ったんでしょう?こんなこと今まで一度も……」
「それを考えるのは帰ってからにしましょう。今はとりあえず、所長に報告するのが先よ」
「分かりました!」
元気よく返事をしたオスカルが足を動かそうとする前に、リアムは叫んだ。
「あの!ちょっと待ってください!」
「え?」
急に立ち上がって声を出したリアムに、2人は驚いた表情で彼をぽかんと見つめる。
リアムは一度唾を飲み込み息を吸うと、2人からすればさぞかし間抜けに聞こえて仕方がないであろう質問をした。
「あの……えっと……つまり、君たちは魔法使いなの?」
2人の顔を交互に見る。
その時のリアムの姿は、2人の目にはどんな風に映ったのだろうか。
ルーナとオスカルが身体を硬直させて、目を見開く。
数秒の沈黙のあとに、
「……見て分からないの?」
冷たい目で答えるルーナと、
「……やっぱり、本当に魔法の存在を知らない方なんですね……」
眉毛を下げたオスカルの反応があった。
この反応にはリアムも、参ったどころではない。彼らは『魔法使い』と言われて、まったく否定の意思すら見せなかった。むしろ、至極当然なことを指摘されて、困っているようだった。
リアムは考えることをやめた。その途端に、凄まじい疲労感が身体中を襲ってくる。
(いや待て……ひとまず状況を整理しよう)
一度思考停止したリアムは、頭をふたたび稼働させる。
顔合わせをすると言われて待ち合わせ場所に来てみたら、仕事仲間だと信じた初対面の男に殺されかけ、ドーナツを奪った少女が助けに来て、次はそばかすの少年が助けにやってきた。
3人ともが異次元の能力を持っていた。男は、眼鏡を変形させて銃を作っていたし、ルーナと呼ばれる少女は銀色の槍を武器にしていた。今、少女の手元にないと言うことは、変幻自在のものなんだろう。オスカルという少年は、指から高速で何かを弾いていた。紙が足元に落ちていたし、物理法則をねじ曲げる魔法でもあるんだろうか。あれらが全て魔法だと言うのなら……。
「思ったより物理的なんだな……」
「……は?ちょっとあんた、大丈夫?」
ルーナの声にも振り返らず、ふらふらとした足取りで、リアムは数歩進んだ。
「ちょっと、どこに行くの!」
「あの男の……イヴァンはマフラーとマスクを置いていってた……」
証拠を探さなければならないーーリアムはぼうっと思考する頭で漠然と動いていた。一方で、身体がかなり重かった。おかしい。怪我はあの少年に治療してもらったはずなのに……。
「……悪いけどどこにも見当たらないわ。きっと変身術だったのよ」
「変身術……。すごく魔法っぽい」
「いや、だから魔法なんだって」
頭を打っていたんじゃないかとルーナが心配したその時、リアムの意識は途切れ、背中から地面に倒れようとするのを悟り、慌ててルーナはリアムを支える。
「ーー重っ」
「リアムさん!ルーナさん!」
オスカルがすぐに駆け寄り、支えるルーナを手伝う。そして、リアムはゆっくりと地面に寝かせられる。
薄れゆく視界の中で、リアムの頭の中で、今までの不思議な出来事たちが、走馬灯のように繰り返し現れては、消えていくのが映った。最後に見えたのは深い青に輝く誰かの瞳と……。
「くりーむ……ショコラ……」
「は?」
謎の一言を残して、リアムの意識は完全に途切れた。
残された2人は、顔を一度見合わせる。
「死んではない、けど……。こんな程度で気絶するなんて、本当にうちでやっていけるの?」
リアムの胸に手を当て、呼吸音を確認しながらルーナは呟いた。穏やかな表情で、リアムの胸は静かに上下していた。
「……無理もありません。彼は魔法も見たことがないまったくの一般人ですから」
リアムの眠る顔を見て、オスカルは困ったように笑いながら言う。
「そもそも一般人の採用も……ずいぶんと久しぶりじゃない。どうしてカーターは急に採る気になったのか。よっぽど人間界にそんなにコネクションが欲しかったのかしら?こいつはいいところのお坊ちゃまか何かなの?」
「さぁ、分かりませんね。それも含めて所長に確認しましょう。ただ一つ言えるのは、彼は特殊な魔力で加工されたーー普通の人間ならば見ることができないあのチラシを見て応募してきた、ということは確かです」
「……ふぅん」
ルーナは落ちていたリアムの鞄を拾った。
太陽が傾き始め、夕暮れに色を変えていく。
穏やかに寝息を立てるリアムは、魔法使い2人に抱えられて、どこかへと消えていった。