Wizard -魔法使い-
「あのー……どんどん街から遠ざかっている気が……」
リアムとイヴァンは、気づけば閑静な住宅街に足を踏み入れていた。
繁華街の喧騒はとうに消え、郊外の住宅街が立ち並ぶ物静かな場所だ。町並みも小道も整然と整備されていて、住むには環境の良さそうな場所だ。
あの喫茶店から徒歩で移動して、かれこれ20分以上になる。
通りすぎていく家々を横目に、リアムは焦るにも似たような面持ちで前を行くイヴァンを見つめる。
休日だから住人は出掛けているのか、子供の遊ぶ声も聞こえなければ、犬の散歩をしている人も見当たらない。
運がいいのか悪いのか、今日のこの日は風も吹いておらず、ただよう静寂に拍車をかけていた。
イヴァンがようやく足を止めたのは、こじんまりとした公園だっだ。すべり台とブランコしか置かれておらず、離れた場所には屋根つきのベンチがひとつ置いてある。遊びざかりの子供が遊ぶには物足りない場所に思えた。
「ここらへんだな」
イヴァンは公園の真ん中で立ち止まると、振り返ってリアムを見る。
「えっと……ここにおすすめのカフェがあるんですか?」
どう見ても、ここは住宅街の中にひっそりと置かれた公園である。
高い木々に囲まれた公園は、中から周囲の様子を窺いづらい。こんなところにカフェがあるとは到底思えなかった。
「……」
イヴァンは社交辞令のような笑みを湛えたまま、リアムを見つめる。
そしてーーため息を短く吐くと、つけていたマフラーを両手で外し始めた。
「……リアム・グランシー……。俺はずっと君に会いたかったんだぜ」
イヴァンが外したマフラーは、無造作にも芝生の地面に置かれる。それをリアムは思わず諌めようとする。
「あの、マフラーが地面に……」
「あの時確実に始末されたと聞いたんだけどな」
彼は次に、身体を覆っていた厚いコートを外しにかかった。ゆったりとした動作だが、スムーズにもボタンは外されていく。
「あの、始末って?」
素っ頓狂な声をあげるリアムだが、突然物騒なワードを口にした目の前の男がだんだんと恐ろしくなった。
脱がされたコートは地面に捨てられず、男の肩にかかったままになった。前が開かれたことで、男の服装がよく見える。
上下の服はどちらもダークグリーンで一色で、縦に整然と並んだ金色のボタンはまるで軍服だ。今からでも戦地に赴くのかと思わせる井で立ちだった。
「いやはや。お前が不用心で助かったよ」
イヴァンは何が可笑しいのか、笑いを堪えたように目を細めて言う。両手で白いマスクが丁寧に外され、マフラーの隣にひらりと落ちる。
最後にーー彼の分厚い眼鏡が外されると、それは彼の手の中でぐにゃりと変形して、違うものへと変化していく。
「なっ……」
「ダメだろう?初対面の人間を信頼するなんて……。ーー俺はお前のバディでも何でもねぇよ」
男は頭のてっぺんを撫でて、その手をなぞるようにして頬まで移動させた。すると、男の顔に鋭利な刃物で裂かれたかのような傷が浮かび上がる。
「……!」
先程までは存在しなかったはずの、切り傷が走ったその顔は凶悪な殺人鬼そのものだ。これが男の本来の顔なのだろうか。
変化を終えた男は、凄惨な笑みを浮かべる。まるでーー獲物を前にした捕食者のように。
「さぁて。イッツショータイム」
パーティーの司会者のような口調で男が手を掲げた瞬間、
ーーパチン。
男はもう片方の手で指を鳴らした。その途端に、ふっと照明が落とされたように視界が暗くなった。
リアムを取り囲む周囲の色が消える。
公園の遊具も、青いはずの空も、木々の緑も、芝生の薄い緑も。
全てがセピア色へと変わる。
「!?」
「ーー俺の魔法さ。凄いだろう?一級レベルの魔法使いでも難しい技なんだ」
リアムは駆け出した。男の言葉を考える余裕などなかった。
考えるよりも先に身体が動いた。
電光石火の速度で本能が告げる。
ーー今すぐここから逃げなくては。
が、駆け出した数秒後にそれは起こった。
リアムが公園から飛び出そうとした途端、硬い何かに思い切りぶつかり、派手に転げる。
真正面から身体を何かに打ち付けて、耐え難い痛みに支配される。
「ぐがぁあっ!くそっ、なんなんだよこれ!!」
リアムの向かった進行方向は、公園の出口だ。公園を囲うゲートまではまだ数メートル余裕がある。
それなのに。
「どっ、どういうことだ!?なんで出られないんだ!?」
パニックになりながら、目の前の壁を両手で触る。
ありえないことが起こっていた。
リアムの目の前には、透明な壁があるらしかった。その壁には向こうの景色が映っている。色の落ちた灰色ではあるが、そこはたしかに公園の外の風景だった。
「……無様だなぁ。残念なことに無駄だよ。この空間は俺の魔法によって遮断されている。ここからお前は出られない。生きたまま出ることが、な」
「っ、」
身体の痛みをひとまず無視して振り向くと、赤毛の男はわざとらしく可哀想な生き物を見るような表情で、リアムを見ていた。
「リアム……あの事故を生き延びるとはお前は相当ツイているらしい……だがそれもここまでだな。可哀想だが……この世のためにも死んでくれ」
男は今まで浮かべていた笑みを収め、その時だけ真顔になった。
そしてーー銀色の空洞をリアムに向ける。
それが銃だと認識するのに時間はかからなかった。
全身の血が凍りつくのを感じた。
全身の痛みもーー鼻をぶつけたことで垂れてきた鼻血もーー今はどうでもよかった。
目を見開いたまま、リアムはーーその刹那がコマ送りのように遅く感じたのを覚えている。
ーー撃たれる。
銃口は、確実にリアムが死ぬであろう頭部あたりを捉えている。
ーー俺はーー死ぬ……のか?
こんなところで……?
こんな時に……?
しかもこんな……"魔法使い"に?
死という凶報が、銃声となって頭を貫こうとしていた。
男は確信していた。確実に殺れるーーと。
リアムも確信していた。確実に死ぬーーと。
その時だった。
ガッシャアアアン。
何かが盛大に破壊されるような音を立てて、突如視界が煙った。
無数の粉と塵で視界は遮られる。
リアムは咄嗟に瞼を閉じて、うずくまるようにして頭を引っ込めた。硬い破片らしきものが、背中へと降りかかった。地味に痛い。
伏せて十数秒後ーー破片がぱらぱらと落ちる音が小さくなってきたのを耳で拾いながら、リアムは恐る恐る顔を上げて目の前を見た。
すると、先ほどの男が仰向けになって倒れていた。男の喉元には、銀色に光る切っ先が突きつけらていた。
男の胴体に載せられた足は、つるりとした茶色いローファーだった。黒いワンピースに長い髪。白い横顔から覗く長い睫毛が見える。
それはーーある少女が大きな槍を抱えて、男を今にも刺そうと言わんばかりの光景だった。
「……」
少女は、男の顔をただじっと見つめている。
少女が持つ銀白色の槍は、細かい模様が柄の部分に彫られており、刃の真ん中にはブルー宝石が嵌められている。ファンタジー世界でしか見たことないような綺麗な武器が、果たして存在するんだと悠長なことをリアムは思った。
倒れた男ーーイヴァンは喉元に当たる直前の切っ先のせいで、体を動かせない。下手に動かせば、その鋭利な刃で喉を切られるーーそれを知ってか、驚愕と当惑が混じった顔でただ少女を見上げていた。
「なっ……なんだお前は……!」
少女は答えない。だが、一切の隙を感じさせない謎の空気を纏っていて、今この空間全てを支配しているかのように感じられた。
イヴァンも状況とその空気に押されていて、それ以上の言葉を吐くことはなかった。
「……何者、だ?お生憎さま、それはこっちのセリフなんだけど」
リアムは、少女の声を初めて聞いた。
凛とした気品のある声で、少女ではなく妙齢の女性と呼ぶのに相応しい声色だった。
「あなたこそ。うちの従業員をこっそり引き抜くなんてどういうつもり?そんなふざけた真似は一切許さないわよ。ーーこの私が」
「……くっ」
イヴァンは悔しそうに呻いた。こんな事態は全く想定していなかったのだろう。
それはリアムにとっても同じだった。
急にバディと信じた仲間に殺されそうになり、気づけば変な空間に閉じ込められ、目を開けるとーー誰かが自分を助けてくれている。
壊された天井ーーそもそも野外のここに天井があること自体がおかしいのだが、少女はこの空間を突き破って侵入したらしい。破壊された上部分からは、太陽の光が差し込んでいた。そこから先は、リアムのよく知る外の世界であると言うのはすぐに分かった。陽光は、演劇舞台のスポットライトのように少女と男を照らしている。
「あなたには聞きたいことが山ほどある。でもうちは探偵事務所だから、乱暴なことはできないの。ーーとりあえず今は大人しく寝ててもらえる?」
「公安……の魔女じゃなさそうだな」
イヴァンは苦しそうに肩で呼吸しながら、呟いた。2人は全く面識がないらしい。
「私が公安なんかに身を置くわけないでしょ。そもそあんたは何者?何が目的でこの男を連れ去ったの?」
「ふっ……」
イヴァンは笑った。口の端を切ったのか、よく見ると血が出ている。
そして、置かれた状況に似合わない薄ら笑いを浮かべる。
「……思い出したぞ、あんたの顔……。ははっ、とんだ、有名人とご対面が叶うとは。魔法界の秀才さんよ。この得物も魔法で出したのか?」
「……答えなさい」
少女はやや怒気を孕んだ低い声で、凄む。槍を掴む手に力が入った。
「残念ながら言えないな。俺にも守るべき理屈ってもんがある。叩いたらすぐ喋っちまうような、そこいらのチンピラと同じにされちゃ困るぜ」
「へえ?そのわりにはチンピラ並に脆かったけど、矜恃だけは一丁前なのね、あなた」
「ははっ、言ってくれるじゃねぇか。さすがサリュボーン家のご令嬢だ。だが俺はこのザマだ、悔しいが何も言い返せねぇな」
「黙りなさい。減らず口を叩いて、助けが来るまでの時間稼ぎでもしているのは分かっているのよ」
公安?サリュボーン家?
リアムは聞き慣れないワードに呆然とするが、決定的に一つだけ、耳を疑うようなワードがあった。
「魔法……」
リアムの疑問は、自然と口から出ていたらしい。少女は、跪いたような体勢のままのリアムを見る。
その美しいブルーの目には、見覚えがあった。
「あなた、怪我してるじゃない。軽傷だとは思うけど、後で治してあげるから今はじっとしてなさい」
「え、あ……」
「状況が飲み込めてないようね。とりあえず大人しくしてて」
「わ、分かった」
有無を言わさないようなオーラでぴしゃりと言われ、咄嗟に返事をする。
ーーリアムはたったこの摩訶不思議な光景を、到底夢だとは思えなかった。身体と顔を打ち付けた痛みが教えてくれたのではない。リアムの五感が、そして脳が、目の前の光景を現実で起こったものと判断している。
「嬢ちゃん……喋って欲しけりゃそれがしやすいように少しは配慮してくれることだな。胸に体重をかけられちゃ、肺が圧迫されて苦しいんだぜ」
「そのわりには饒舌ね。残念だけど、あなたのファミリーとやらの仲間よりも、うちの助っ人の方が早いから」
「へぇ……あんたもずいぶん平凡に染まっちまったなぁ。あの超保守派と同じ血族だとは思えねぇ。それとも家とは完全に決別したのか?もはや見る影もねぇな、最強の魔法使いさんよ。それとも親に……」
「黙れ!」
「がなるなよ。せっかくの上品なお顔が台無しだぜ?」
少女は何か核心を突かれたのか、先程とは違って余裕が消えていた。溢れる怒りの感情を押し殺しているのか、槍先が僅かに震える。
ただそれは、イヴァンの挑発に過ぎなかった。男は恐らくずっと狙っていたのだ。その少女の動揺が生み出す、刹那の隙を。
「!?」
シュッという音がした瞬間、男の右手から青白く光るいばらがピンと伸びていた。そのいばらは、少女の手首をがっちりと捉えていた。
「しまっ……」
「隙あり!」
いばらを思い切り横に引っ張ると、少女の身体は揺れてよろめく。
首から刃物が離れ、イヴァンはその隙間を利用して自分の方へ少女を引っ張ると、横腹を思い切り蹴飛ばす。
「かはっ」
少女が呻いて、地面に倒れる。
手は槍ごといばらに固定されたままで、よく見ると途中でそのいばらは切られていた。男は少女を無力化することが、とりあえずの狙いだったらしい。
「逃げて!」
少女は倒れたまま、リアムに向かって叫ぶ。
イヴァンの瞬時の反撃に、反射神経が追いつかなかった。しかし、少女は反撃を受けた身であるにも関わらず、こちらに向かって叫んできたということは。
「っ!」
背後で素早く風を切る音が聞こえた。うなじに感じる風圧ーー。
振り返るまでもなく、リアムの背後にイヴァンがいるのが分かった。人間とは思えない瞬間的な速さで、背後に回り込まれた。
「しまっ……」
リアムの視界の端には、イヴァンの右手から光るいばらがちらりと見えた。その切っ先はいつの間にか鋭い形へと変化していて、もはやナイフにしか見えない。
間違いない、今度こそ本気で殺しに来ている。
(殺られる……!)
床に倒れている少女ーールーナは呪文を唱えようとしていた。両手は先程の、いばらで槍を握った手ごと拘束されたままだ。
本来、魔法と言うものは、魔力を集中させるために呪文を唱えながら、専用の杖やステッキを用いる。道具を使わずとも使えることに慣れてきたら、指や腕でもよい。魔力の消費量が多い呪文になってくると、その動作は必須になってくる。しかし、それは平均的なレベルの魔法使いの場合であり、ルーナの場合は違う。彼女は、これといった動作をしていなくとも、呪文の詠唱だけで使用することが出来た。
とは言ってもーー詠唱するだけで魔法を行使する行為は、上級レベルの魔法使いであっても一筋縄ではいかない技だ。魔力の消費量は半端なく、ただ効率が悪いうえに精度も落ちやすいーー。
何もしないよりかはマシだと、彼女が咄嗟に判断した策であった。しかし、この距離では最悪、リアムに当たるかもしれない。
「っ、ヴォラー……」
ルーナが覚悟を決めて口を開いた瞬間、リアムとイヴォンの間を、何かが稲妻のように遮った。
「!」
それはイヴァンにも予想外だったらしく、急いでその何かが来た方向へ、首を回す。視線の先には、帳帳のように下りた厚い壁に、薄っぺらい穴が綺麗に空いていた。
「……あ?」
音速を遥かに超えるスピードに、ここにいる誰もがその正体を視認できなかった。
イヴァンは、リアムの首を掻っ切ろうと勢いをつけていた腕を止める。戦い慣れている彼の警戒心から生まれた判断だった。
パサリ、と乾いた音が足元からして、視線を下ろすとそこには原稿用紙と思われる紙が数枚、散らばっていた。
「紙……」
リアムにも、一体何が起こっているのかが分からなかった。とりあえず男の動きが止まったのを悟って、持ち前の運動能力を使って、思い切りジャンプしてイヴァンから距離を取った。そして真正面で対峙する。
「……」
ルーナは無言でひらひらと落ちていく紙を見ていた。
ルーナはその紙の持ち主を知っていた。
心強い、事務所の仲間がやって来たのだ。
「ちょっと、ちょっと!それ以上は暴れちゃダメです!」
突如として舌っ足らずな少年の声が壁の向こうから聞こえた。
そして、ビシビシビシという高速に何かが動く音が聞こえたかと思いきや、空間を丸ごと閉ざしていた壁がブロックのようにばらばらと崩れ落ちていく。
「チッ」
突然現れた助っ人に、イヴァンは舌打ちをする。どうやら、ここまでのようだ。ブロックが崩れ落ちきる前に、後ろにジャンプで下がる。
「逃げないでください!仲間を傷つけた奴は許しませんっ」
砂埃から姿を現した少年は、頬をぷくっと膨らませた。明るい金髪に、カールした毛先。服装は膝上までのサスペンダーのズボンを履いていた。
新たな登場人物に、リアムは果たしてこの人物が敵なのか味方なのか、分からずにいた。
「……本当に助っ人が来たみたいだな。つくづくお前は運がいいな、リアム」
イヴァンはいつの間にやら、広場に生える1番太い木の枝に立っていた。そして口元の血を親指で拭う。初対面から思っていたが、海賊の船長みたいな風貌の男だ。物騒な荒事に、いかにも慣れているいで立ちだ。
「お前の命をお頂戴するのはまた今度にしよう。悔しいが、今回は邪魔者が入りすぎだ。シー……」
ユー、と言い終わらないうちに例の少年が、指から何かを発砲する。イヴァンはすぐさまコートを翻すが、そのコートに見事、少年が放った銃弾らしきものは命中する。空気を切り裂くような音からして、凄まじい威力だ。
が、しかし。
命中したコートは、ばさりと木から地面に落ちただけで、それ以外のものは何も残さなかった。
ーー男は消えた。
マジシャンのように、コートだけを置いて、姿かたち丸ごと行方をくらませた。