Anxiety -心労-
事務所へ着いた途端、どっと疲労感が溢れてきた。
サンドール伯爵の邸宅からベルローズ事務所までの帰り道はもちろん、例の空飛ぶ馬車であった。ウィリアム伯爵とその執事に見送られながら、馬車は再び空へと飛び立ったのだった。
帰路の途中、ルーナにカフェへ寄り道しないかと提案されたが、リアムは気分が乗らなかった。そんなリアムの心情を察してか、ルーナがそれ以上、何も言ってくることはなかった。
「た、ただいま戻りました……」
「おかえり。随分と疲れたろ?」
窶れた疲労感が顔に出ていたのだろう、玄関先で出迎えてくれたカーターが、今日はもう部屋でお休みと告げてくれた。
男が捕まった今、自宅のアパートへと帰宅してもよかったのだが、事件の全容が判明するまではしばらく事務所に滞在することになっている。幸いにも、リアムの住んでいるアパートは大家が両親と知己の旧友なこともあり、家賃の徴収をされることはない。長く家を留守にしていても、お金が無駄になるようなことはなかった。
「……無理もないわね」
医務室へと入っていくリアムを遠目で見送りながら、ルーナは呟いた。
「彼にとっては魔法の存在に触れたのが、たったの数日前の出来事だったからな」
横に並んだカーターがルーナに同調した。
「……それで、リアムがうちで働くことに反対しないの?」
「なぜだ?彼がここで働きたいと言っているんだろう?」
「そりゃそうだけど。今回の件でだいぶ魔法そのものが嫌になったんじゃないかしら。早く帰って綺麗さっぱりに忘れたいと思っているかも」
「……どうだかな。そればっかりは彼の今後の様子を見守るしかない。ちなみに俺も昔はそうだった」
遠い目をして回顧の回想に浸る上司を、ルーナは見上げる。
「……で、結局なんでリアムが求人の紙を見ることが出来たのか原因は分からないの?」
「分からない。募集の張り紙全てを回収したが、リアムが持っていったものを除いて魔力切れでも何でもなかった」
「……」
ルーナは眉を中心に寄せて、しばし思案する。
リアムがただのハベレスなのは身辺調査の書類を見なくても、ルーナ自身が肌で感じていることだった。
彼女の血に流れる名門魔族の魔力は、同族の魔法使いの魔力さえも、敏感に感じる取ることが出来る。一種の嗅覚のようなそれは、ハベレスを装った魔法使いでも一目で看破できる。
「……お前はリアムを疑っているのか?」
「少し前までは。その例のチラシが見つからないんじゃ疑う余地はあると思ったのよ……あいつと対面するまでは」
「犯人の男は何を言っていたんだ?」
「……」
ルーナは口を開かなかった。
彼女の脳裏には、あの地下牢での出来事がよぎっていた。
『その男……リアム・グランシーは始末しないとそのうち魔法界は大変なことになる。ーー厄災だ。魔法界には厄災が訪れる』
男のデタラメだと言えばそれまでだ。妄言であり、ただの狂言。
一方でーールーナには嫌な予感を抱かせるひとつの確信があった。
しかし、今はそれを口に出すときではない。少なくとも、今は誰の耳にも入れるべきではない。事務所のためでもなく、ましてやルーナのためでもなく、リアムのためにも。
「……別に、何でも。」
「そうかい。まぁ気長に理事長からの報告を待つとしよう」
カーターは特段気にしない様子で、ルーナの沈黙を聞き流した。余計な詮索をして来ないカーターの義理堅さがありがたかった。
「……ま、せっかくの相棒との時間が、野暮な男に奪われたんだ。機会を取り返すのに、今からでも遅くはないだろう。明後日まで暇をやる」
「……え?」
ルーナがその言葉を解する頃には、上司の背中は所長室の扉の奥へと消えていく途中だった。
○●○
「はぁ……」
医務室と呼ばれる部屋に入ったリアムは、扉を閉めて深くため息をついた。
今はリアムの部屋となった室内は簡素なベッドと薬品棚、隅に寄せられた本棚があるだけの質素な部屋だ。
しかし、リアムはこの殺風景な部屋をしばらくは自室として過ごさなくてはならない。あの襲撃事件においての犯人が捕まり、一件落着と言いたいところだが、調査が完了するまでの間は帰宅を禁じられている。
「疲れたなぁ」
ジャケットを脱いで、背中から勢いをつけてベットに横になった。意外にも、使っているマットレスが上質なのか寝心地はなかなか悪くない。
「……」
静まり返った部屋にいると、トゥルースを飼い始める前、一人で暮らしていた時のことを思い出す
今は、リアムが寝そべると必ずお腹に乗ってくるトゥルースもいない。トゥルースは今やオスカルと一緒にいて、始終遊んでもらっているようだ。
そういえばずっと仕事探しと、それが見つかるまでの腰掛けとして、深夜の単発バイトばかりしていたっけ。家にいる時は、疲れで寝ているばかりで、トゥルースとまともに遊んだことなどなかったのを思い出す。
「ふぅ……」
2度目のため息を吐くと、リアムは目を閉じた。
ーーここ数日に、自分の身に起こった出来事が未だに信じられない。
高い給料に釣られて申し込んだ仕事が、まさかの魔法使いの集う探偵事務所とは。そこで歓迎されたかと思いきや、見知らぬ男に騙されて殺されかける。そして、その男も魔法使いというー。ファンタジー小説でもここまで忙しい主人公はいないんじゃないかと思うほどの怒涛塗れの展開続きである。
「おかしい……俺は普通の人間なはずだ」
目を閉じて心情を吐露する彼は、はたから見たら寝言を言っているようにしか見えないだろうーー。
ひと息ついて、身体を休めていると思考の余裕が生まれてくる。彼は久しぶりに、自分を見つめ直していた。
歴史と自然に豊かなウェールズに生まれ育ち、裕福ではないがそれなりに悪くない人生を歩んできた。父親は早くに亡くなってしまったが、父に劣らず母親も弟もハートフルな人たちだ。
リアムは今後もこうやってーー苦労しながらでも愛しの家族のために苦労を積んで、他人から平凡と言われようが幸せと思う人生を歩んで行くんだろうと思っていた。
しかし。
「……俺の人生が、変わろうとしている」
予感を通り越して、その未来は形となって彼の肩に手を置いている。空虚ではなく質量を感じる。振り向けば、たちまち違う場所と時間にに連れていかれるーー。
リアムは目を開いた。横に置かれた自分の手のひらを見つめる。
正直、怖い。
給料がいい仕事を続けたいと現状を捨てたのは自分なのに。直感を感じて、信じたのは自分なのに。
本当にこのままでいいのか?ともう一人の自分が問いかけてくる。
『リアム・グランシーは始末しないとそのうち魔法界は大変なことになるーー厄災だ』
ーー地下牢でイヴァンが吐いた言葉を思い出す。
『……リアム君、奴はイカれた信者かただのジャンキーだ。君が悪いわけじゃない。ただの妄言だよ。あいつは適当な理由を言って、自己正当化を図ってるだけだ。リアム君が気にする必要はまったくない。俺も君がただの被害者で、勤勉で優しいハベレスなのは分かっているよ』
帰り間際、玄関先でウィリアムに言われた言葉を思い出す。
紳士な彼は、スコナヴィッツのお菓子をたくさんくれた。
『馬鹿な男の妄言よ。……まさかやっぱり辞めたくなったの?』
帰りの馬車でルーナが、夕焼けに照らされた横顔をこちらに向けず、そのまま聞いてきた。
それに対してリアムは何て返答をしたのかまるで覚えていない。ついさっきの出来事なはずなのに。
逆光で彼女の表情は見えなかった。
「俺は……俺は」
うわ言のように呟く。
俺は違うーー特別な何かになりたいだなんて思ったことはない。
お母さんがいて、弟がいてーー。
優しい故郷の知り合いや友達に囲まれて過ごす日々が好きなだけなんだ。失いたくない。
故郷からは電車で30分くらいで、週に一回は帰って、家族でご飯を食べて。母さんの焼いたクッキーを食べて。夕食後にテレビを見て談笑する、そんな時間があるだけで十分なんだ。友達がホームパーティに誘ってきて、エール片手に懐かしい話に花を咲かせて、くだらないよもや話に付き合ってーー。
俺の人生は、こんなものの連続で十分なんだ。
「ぅ……」
虚ろに昔の記憶が流れ出し、リアムは時間の感覚を失う。
現実と夢の狭間を彷徨って、魘されていた。
不安の波が全身を襲って、悪寒がする。
「ぅう」
「ーーずいぶんと魘されているようね」
「……え?」
唐突な誰かの声に、リアムはその白昼夢の悪夢から目覚めることができた。
「疲れてるところ邪魔して悪いわね。ちょっと様子が気になっただけよ」
聞き覚えのある声に、リアムはすぐさま身体を起こした。
サイドだけがくるんとカールした長髪に、タンザナイトの蒼い目。
「……いつの間に」
「たったの今よ。扉をゆっくり開けて入っただけ」
「……」
「ちょっと。そこまで警戒しなくてもいいでしょ?」
リアム観察するかのように、壁に背を預けて彼女は佇んでいた。
「身体は起こさなくてもいいわよ。むしろ寝てなさい」
「でも君がいるんじゃ寝づらいよ」
「別に取って食おうって考えるわけじゃないわよ。しばらくしたら出ていくから」
「……」
ルーナは何も言わずに、憮然とした面持ちでリアムを見つめている。
リアムには彼女の思惑が理解できなかった。一体何をしにここへ来たのだろう。不機嫌なのか、そうじゃないのかもよく分からない。何か気に障ることでも言っただろうか?
ぐるぐると記憶を遡るが、これといって思い当たる節が見当たらない。
「……」
「……」
お互いの沈黙で、室内は気まずい静寂に包まれる。
ルーナは今や、日が落ちきった窓の外を見ている。
リアムは再びベッドに横になるが、やはり落ち着けなかった。
「あなたが食べたクリームショコラのドーナツ……」
「え?」
脈絡のない言葉に、リアムは戸惑う。
クリームショコラのドーナツと言えば、一昨日リアムが平らげてしまったのが記憶に新しい。
彼女が見舞いの品として持ってきたものらしいが、調子に乗って全て食べてしまったのは紛れもないリアム自身だ。
「あ、あの時はごめーー」
「甘いものが好きなら……もし、あなたがよければ……明日カフェに……連れて行ってあげないことも、ない」
「え?」
ルーナはリアムの目を見ずに、たどたどしくそう言った。
予想外の誘いに驚きを隠せない。
彼女の口元は僅かに震えている。怒りでもなく、緊張でもなく、むしろ恥ずかしさに耐えているようなーーわずかに紅潮している顔を必死に悟られないように冷静さを保っているようだ。
「……あの男のせいで挨拶もまともに出来なかったからね。アイスブレイクを設けた方がいいだろうって……カーターも言ってたのよ」
「……」
「……あなたの体調が悪くなければ、コーヒーでも奢ってあげるわ。バディとして……教えなきゃいけないことも色々とあるんだから」
怒りの表情をあえて混ぜることで、彼女なりに普段の態度と口調を崩さないようにしているのが見て取れる。
誘いに返事をする前に、感じていた違和感が氷解されていく。
なんだ、そういうことかーー。
彼女なりに、そこそこリアムの身を心配をしてくれていたようだ。カフェへの誘いは、不器用な彼女なりの気遣いだったのだ。
口元が緩むのを感じながら、リアムは柔らかい笑顔で返事をする。
「いいよ、じゃあお言葉に甘えて。君を待たせていたあのカフェ、俺も実はずっと気になっていたんだ……キングスベリーだっけ?」
ルーナはその快諾に答えず、代わりに口角を上げてリアムを見た。