Mr.Sandol residence -サンドール邸-
森閑とした山を抜けた湖畔のそばに、サンドール伯爵の邸宅はあった。
空飛ぶ馬車は邸宅に着く少し前から、一本道に降り立ち、馬脚は歩みを緩めていく。やがて普通の馬車と変わらないスピードになった。緩急のつけ方が、まるで飛行機だ。
「大丈夫なのあなた。伯爵の家でゲロしちゃだめよ」
「大丈夫……」
紅潮した顔と息を少し荒くしたリアムを見て、ルーナを声をかけた。
実を言うとリアムは全く酔っていなかった。乗り物酔いに強いタイプではないのだが、初めて乗った馬車でまさかの空を飛ぶという、非現実的な体験をしたことでアドレナリンが分泌されたのか、むしろずっと興奮していた。
「むしろすっごく興奮したよ。楽しかった」
リアムはご満悦といった顔で笑う。
「こんな魔法でそこまで感動するかしら」
「大体の人間は飛行機以外で空を飛んだことないからね。馬車で空を駆けるなんて、サンタクロースのソリに乗るぐらい夢のあることだと思うよ」
「ふぅん。ちなみにサンタクロースなんてこの世にいないのよ、知ってた?」
「俺は信じているからな!夢を壊さないでくれ」
リアムはいかにも傷心といった顔で叫んだ。
馬車は邸宅前から少し離れたところで停止した。御者が降りて、席の扉を開く。ルーナは御者によって差し出された手を取ると、馬車から降りた。続いてリアムも御者の手を握って降りるが、触れた瞬間に温度があることに驚いた。
(温かい……)
人間の体温と変わらない心地良さだ。顔を見ると、紳士の銅像は金属製の顔を崩して微笑んでいた。
久しぶりに踏んだ地表の感触に安堵感を覚えるが、同時に靴裏の感触に違和感を抱く。黒い土は湿っていて、とても柔らかい。
「ようこそ、サンドール家においでくださいました。ルーナ様、リアム様」
声がした方に顔を向けると、いかにも執事ーーと言った格好の初老の男性が立っていた。後ろの髪は束ねられていて、髭同様に長いことが分かる。
「久しぶり、ベルナルド。元気だった?」
ベルナルドと呼ばれた紳士は、淡いブルーの目を細めてはにかんだ。上品で優しげな目つきだ。
「ええ、おかげさまで。ルーナ様もお変わりないようでございますな」
「そうでもないわ。人間界の食べ物は美味しいけれど、魔法が使えないからなかなか慣れないわね。ストレスも溜まって最初は結構痩せたのよ。ようやく体重を取り戻しつつあるけど」
「ルーナ様にとってはさぞかし、ご不便かと思います。ここは魔法界の管轄ですので、魔法はご自由に使っていただていても大丈夫です」
「魔法界……?」
リアムは今しがた魔法界と呼ばれた邸宅周辺を見回す。
馬車と御者が離れの小屋に向かっているのが見える。山間を抜ける湖は広大だが、波は特になく穏やかだ。岸には白い小舟が停泊していた。空を飛んでいた頃に見えていたはずの青空は見えず、全体は曇り空に包まれている。
リアムは少し拍子抜けした。魔法界って言うのはもっとーー空に箒に跨ったトンガリ帽子の魔女や、絨毯に乗ったアラビアンな男たちが行き交っていて、陸地ではたくさんの魔法動物や武具が売られた煌びやかな市場があるのを想像していたからだ。
「ここは魔法界……なんですか?」
リアムはルーナと執事の顔を交互に見ながら、目を丸めて質問する。
「そう、魔法界。魔法界って言うのはーー非魔法使いが住んでいる場所と完全に隔てられているわけじゃないの。魔法使いだけが入れる場所はこの地球にたくさんあるけれど、こうやってひっそりと人間界とさほど変わらない場所に暮らしている魔法使いもそこそこいるのよ。サンドール伯爵は代々湖の近くに屋敷を構えて住むのがお好みなのよ」
「へぇ……」
魔法界という場所は思ったよりも複雑そうだーーとリアムは思った。
その顔を見て例の執事、ベルナルドが付け足す。
「リアムさんはハベレスの方だと存じております。戸惑うかもしれませんが、魔法界と人間界の区別は、地理では正確に判別が難しいのです。ここはスコットランドのとある湖の近くですが、ウィリアム様……もといサンドール伯爵が代々住まわれている本家でございます。お屋敷周辺は、魔法界の法律や規則が適用される空間です。屋敷は特殊な乗り物やルートを使わない限り、ハベレスからは見ることも触れることもできない特殊な魔法が施されているのです。つまり、人間界と魔法界は目に見えない境界線で共存している……とご認識して頂くのが一番分かりやすいかと」
「あ、すごく分かりやすいです。そうなんですね……すごいや。ここは隠された場所なんだ」
静かな湖畔に佇む魔法使いの家。まるでおとぎ話じゃないかーー。
しかし何よりもリアムが驚いたのが、ここがスコットランドであるということだ。先程、リアムたちはロンドンの郊外にある事務所にいた。
もしかするとあの馬車は飛行機と同じくらい速いのではないか?と思い、身震いする。馬車は随分と高い高度を走っていたので、あまり速度に体感がなかった。これが魔法の力なのだろうか。
「本来の力をあればここなんか一瞬で来れたのに……」
その時ルーナが小声で何かを呟いたので、リアムは片耳をそばだてた。
「何か言ったかい?」
「っ、なんでもないわよ」
リアムが聞くと、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向かれる。
そう言えば出会った時から、常に彼女のご機嫌は斜めだ。
「さて。ここで立ち話するのもいささか野暮ですので、早速中へとご案内致しましょう」
執事は愛想を崩さずそう言うと、美しい背筋のまま屋敷の方形へと歩き出した。ルーナとリアムも歩き出す。
その先には威風堂々とそびえ立つ、貴族のご邸宅が待ち構えている。まさにお屋敷と呼ぶのに相応しい堂々たる風格だ。
黒茶色の煉瓦に覆われた壁面は、重厚感がある。尖った屋根の家が左右対称の両脇に鎮座し、その間の部分はバルコニーが設けられ、バルコニーの下には3つのアーチがある。さながら景趣に富んだ、スコットランドの山荘だ。ステンドグラスの玄関近くまで来ると、その荘厳さに圧倒されてしまう。
「立派な御屋敷ですね……」
「ここを設計したのは、人間界でも建築の巨匠として名を馳せたハベレスの設計者です。先代のお屋敷が半壊したことで、ウィリアム様のお爺様が再度、建築依頼をされました」
執事が扉を開けると、中は薄暗かった。そして、さらに玄関と同じような扉がある。一本道として敷かれた赤い絨毯を踏み進んでいくと、ホールへ出た。ホールの高い天井には巨大なシャンデリアがあった。
「すごい……俺、こんな豪邸に足を踏み入れたの初めて……」
「そうなの?ここは比較的、豪邸の中でも狭い方だと思うけど」
「え」
ルーナが悪意もなく不思議そうにリアムを見るので、リアムはなんだかいたたまれなくなった。
そうだった。ルーナは今回会うサンドール伯爵と並ぶぐらいのーー同格レベルのお嬢様だったんだ。
あまりの自分の家との財力の違いっぷりに悲しくなってくる。
「ようこそ!ベルローズ事務所諸君!!我が邸宅へ!!」
突然2階から降ってきた大きな声にびくりとしてリアムが見上げると、そこには黒く長いマントを肩から下げた白髪の男が、2階へ続く踊り場へと立っていた。何の気配も音もしなかったのにーーいつの間に。
白髪が歳のせいではないことは、男の顔を見ればすぐに分かった。リアムと同じ年齢と言っても差し障りがないほど、顔は若々しく覇気に満ちている。
「相変わらず人をビビらせる登場の仕方はやめてよ、ウィル。彼は純ハベレスなのよ」
「おっと、君が噂の!名前は聞いてるよ。……どうもどうも。俺はこのサンドール家当主、ウィリアム・サンドールさ。ウィリアムでも、ウィルでも好きに呼んでくれたまえ」
ウィリアムは颯爽と階段を降りて、リアムの目の前まで来た。背がとても高い彼を、リアムは見上げなければならなかった。
整った目鼻立ちにグレーの目。健康的な肌はシミひとつない。
なんてハンサムな人なんだろうと、リアムは同性でありながらも感動してしまう。広い肩幅とマントで若干威圧感を感じるが、それを打ち消す爽やかな容姿とオーラが男にはあった。
「よ、よろしくお願いします。リアム・グランシーと申します」
「リアム・グランシー……リアム……いい名前だね。俺の名前のウィリアムと起源は同じだ。これも何かの運命だね。よし、僕と友達になろう」
そっとリアムの両手を握るので、リアムは思わずびくりとする。
「ちょっと言ったそばから!あとすごく距離が近いわよ!」
ルーナがウィリアムに対して少し憤慨するものの、彼は涼しい顔だ。
「おっと妬いてるのかい?安心するんだね、僕と君の絆に変化はないさ。……ルーナは僕と幼馴染でね。小さい時から一族同士での付き合いはあったから僕たちには格式ばった礼儀も必要ないのさ。リアム君、もちろん君も同じようにしてくれて構わないよ」
「は、はぁ……」
リアムの手を握ったままウィンクをするウィリアム……伯爵。
荘厳な屋敷の主とは思えないほど、飄々とした変人である。リアムの想像していた伯爵のイメージは崩れることとなった。
「あなたほんと気持ち悪いわね……」
呆れた目でじっと見つめるルーナをよそに、ベルナルド執事はいつも通りといった具合に隣で苦笑の表情を浮かべている。
「さぁ!応接間に案内するよ。うちの屋敷、すごくクールだろう?俺は広すぎる家は嫌いなんだ。風景と調和の取れた、コンパクトなサイズの家が好みなのさ。さぁてベルナルド!スコナヴィッツの実を用意してやってくれ。ついでにミルクティー1つとコーヒー2つ」
「かしこまりました」
ベルナルド執事は一礼すると、一階のどこかへ下がって行った。
ウィリアム伯爵はリアムの手をようやく離したーーと思いきや、片手は離さずにそのまま手を引いて、引っ張っていく。
「あの、」
「応接間はすぐそこの部屋だよ。ここから見る湖も美しいんだ」
にこりとウィリアムは笑った。リアムはまるで自分が女性のようにエスコートされている事実に少し恥ずかしくなった。
ウィリアム伯爵はホールを少し進んだ先の扉を開けると、長い脚で応接間と呼ばれる空間へと連れていく。
「……まったく」
そんな二人が入室するのを先に見送りつつ、ルーナも後から部屋に続いた。
リアム・グランシー
21歳の青年。1年前に交通事故に遭い、長期入院したことで失業していたところ、ベルローズ事務所と書かれた求人の貼り紙を見て応募し、採用される。
穏やかで気のいい性格をしており、体力や運動能力には自信がある。やや天然。髪色はダークブラウン、瞳はアンバー。家族構成に、母親と弟がいる。
ルーナ・ヴァイオレット
ブルーの瞳が美しい、色白の少女。18歳。気の強い性格で、毒舌家。凄腕の魔法使いであり、メンバーからは頼りにされている。とある名家のご令嬢だが、訳あって、今は人間界のベルローズ事務で働いている。右手に、動物の刻印が入った銀の指輪を嵌めている。
オスカル・ベルナルディ
ベルローズ事務所に所属。そばかすと金髪のくせっ毛が特徴的な少年。16歳。陽気な性格で、人当たりが良く、気遣いもできる優等生。紙を変幻自在に操る魔法使い。逆にそれ以外の魔法は苦手で、ほぼ使えないらしい。
ベン・カーター
ベルローズ事務所の所長。41歳。38歳の時に、上から所長に任命された。妻子がいる。まったく魔法は使えないが、事務所のメンバーからは信頼されている。
エルガー・ハイランド
ベルローズ事務所に所属。高身長で、アンダーリムの眼鏡をかけている。カーターが事務所を留守にする際には、所長の仕事を代理となって行う。冷静沈着で表情に乏しい。仕事人としてはかなり優秀で、諜報活動も得意なようである。彼も魔法使いであり、カラスを飼い慣らしている。
イヴァン
リアムのバディと騙って、彼を殺害しようとした謎の男。顔には大きな切り傷がある。突然、リアムに襲いかかるが失敗し、行方をくらます。名前は偽名の可能性が高い。
トゥルース
リアムの飼い猫。黒猫の5歳。