Eaten doughnuts -食べられたドーナツ-
ルーナはノックをして「入るわよ」と短く告げてから、医務室の扉を開ける。
すると、目が覚めたリアムは上体を起こしていた。
ベッドの前の椅子に腰掛けたオスカルは、扉の音を聞いて振り返った。
「あ、ルーナさん。リアムさん元気そうですよ、良かったです!」
「……そ。まったく、あなた3時間も気絶していたのよ。目覚めたのなら、さっさと私たちからの事情聴取に付き合って貢献することね」
「ルーナさん!リアムさんは初日で色々なことに巻き込まれたんですよ!しかも僕らでさえ得体の知れない男に命を狙われるって……魔法だって初めてご覧になったそうですし……急かしては絶対ダメですよっ」
ドーナツを食べてスタミナが戻ったおかげか、意識がはっきりとして、視界も明瞭になる。
少年に続いて、見覚えのある少女が入ってくるのを目にして、自分はどうやら本当に気絶をしていて、このベッドに寝かされていたらしいことをリアムは悟る。
(そうだ……俺はこの2人に、助けられたんだ)
記憶の水底に落ちていた欠片が、だんだんと紡がれていく。となると、あの目の前で繰り広げられた超常現象の異次元めいたバトルも、残念ながら事実ということになる。しかし今は魔法とか超能力うんぬんよりも、この2人が助けに来てくれなければ、リアムはそこで絶命していたことを想像する方が怖かった。
「俺を助けてくださって……ありがとうございました」
未だに混乱も残る脳内をよそに、たどたどしくではあったが、リアムは感謝の意を伝える。オスカルは、柔らかい笑顔で応えた。
「いいえ、僕は後から少しお手伝いしただけですから……。ルーナさんが真っ先に駆けつけたのが大きいですね」
「……どういたしまして」
ルーナは目を合わせず、ぼそりと呟いた。
魔法の存在について色々と聞きたいことはあるものの、順序を追って聞けば、2人は説明してくれそうな気がしたので、今はとりあえず置いておくことにする。
「お目覚め直後のところ、すみません。では、改めましてーーこんばんは。僕はオスカル・ベルナルディと言います。ほら、あなたがうちに応募の電話をかけてくれた時、電話の相手だったのは僕です。声に聞き覚えがありますか?僕はこの事務所で、お手伝いとして働いている、17歳のアルバイトです」
オスカルは金髪のくせっ毛のを揺らしながら、自己紹介をする。あの時リアムの切り傷に、薬を塗ってくれた少年だ。見た目からもう少し歳下かと思いきや、ティーンエイジャー後半らしい。まさか、最初にベルローズ事務所に応募した時の電話の男性だったとは。
イヴァンに狙われて助けに来てくれた時、彼は指から何か高速で動くものを飛ばしていて、あの変な空間ごと破壊していた気がする。どうやって指から物体を飛ばして、操っていたのかとても気になるところではあるが、とりあえず今はそれに触れないでおく。
「ほら、ルーナさんも自己紹介をしてください」
ベッドの端に立っていたルーナは、オスカルに促されて、やる気がなさそうに渋々と口を開いた。
「……ルーナ・ヴァイオレット。あなたとあのカフェで待ち合わせする予定だったバディよ。今回の騒動で、初任務が番狂わせになっちゃったけどね」
長い睫毛に縁取られた瞳が瞬きをして、リアムを見据える。宝石のように美しい虹彩のブルーに、またもや強い既視感を覚えた。
「あなたが……」
そこまで言って、リアムは言い淀んだ。
彼女の印象的な瞳は、とある記憶のフィルムと重なった。やはり、そうだ。あの時の少女だ。
ドーナツのワゴン車で変な出会い方をしたのもあって、忘れるはずがなかった。事務所での面接が終わった帰り、リアムがクリームショコラを3つ注文しようとしていたのを、後ろから突然阻止してきた少女だ。
向こうは覚えていない可能性も高いし、彼女の機嫌を悪くしてはいけないので、口には出さないでおこうとリアムは思った。
「あなたが俺の……。覚えています。待ち合わせの件も……俺がのこのこと知らない人に着いて言ったばかりに。この度はご迷惑をおかけしました」
謝罪の意を伝えるリアムに、オスカルはとんでもないと、ぶんぶんかぶりを振る。
「謝らないでください、リアムさん!今回の件は、僕たちが事務所の人間が、あなたに謝罪をしなければなりません。僕らがもっとしっかりしていれば……セキュリティ管理を怠っていなければ、あなたは変な人に翻弄もされずに、危険な目に遭うことはなかったんです。今回の件は本当にごめんなさい」
申し訳なさそうに謝罪をするオスカル。
2人の言葉を聞いて、記憶のパズルは完全に完成する。言葉でも説明しがたい、奇々怪々で超常現象のような光景も鮮明に思い出せる。気絶する直前に交わした会話も。
「そうだ……。俺は変装をした変な男に襲われてっ……ちなみにここは病院ですか?」
あまり病室らしくない部屋だなと思いながら、リアムは辺りを見回す。他の患者もいなければ、ベッドもない。
「ここは事務所の一室よ。あなたが面接しにやって来た、あのベルローズ事務所の医務室」
「医務室……」
「あなたが完全に回復したら、事情聴取に付き合ってもらうからね。魔法使いにただの一般人が狙われるなんて今まで聞いたこともないから、こっちも上もザワついているのよ」
「あの……俺を襲ったあいつは、もう捕まっているんですか?」
「いいえ。逃げられたわ。あなたも見たでしょ?腹立たしいことに、魔力の証拠を跡形も残さずに、颯爽と消えていったわ」
「……」
「それに、この件は普通の人間の手に負えないから、私たちベテラン魔法使いに任せなさい。それとあなたは、悪いけどしばらくは外出禁止ね。生活に必要な食事はあげるし、服の必需品家から持ってきてあげるから」
「え……」
突如として目の前の少女にされた重い宣告に、リアムは驚いてルーナの顔を見る。
「仕方がないでしょ。現代の一般人に、魔法使いの追跡なんて今の技術じゃムリよ。そもそも信じてくれないでしょ。誰もあなたを守ってくれないわ。あの男のことについて調査が落ち着くまで、普通の生活はしばらくは諦めなさい。いいわね?」
「そ、そんな……」
「ルーナさん、さすがに言葉が足りなさすぎますよ……」
絶望で項垂れていくリアムを同情的に見つめ、オスカルは穏やかに窘めた。
「何よ、こういうのは単刀直入に言った方がいいでしょ」
「もぉー。それじゃ、ますますリアムさんがパニックになっちゃうじゃないですか」
「あの……何が何だか……」
「安心してください。リアムさんの反応はいたって正常ですよ」
情報の一撃を食らって混乱しているリアムを、オスカルは心配そうに見る。ルーナは腕を組んだまま、それを無表情で観察している。
「……リアムさん、急な出来事が続いて混乱しているとは思いますが、あなたの安全は僕たち事務所の人間が必ず守ります。なぜ、急にあなたが命を狙われたのか、そもそもあの男が一体何者なのかも、まだ調査の段階なのでよく分かりません……。ですが、ご安心を。あなたはもうベルローズ事務所にご応募されて無事採用された、大事な事務所の仲間でもありますから。ここには、僕やルーナさんを始め、信頼のできるメンバーが揃っています。個性は強めな人が多いですけど……みんな不器用なだけで、とってもいい人たちですから」
「は、はぁ……」
オスカルの言葉を聞いても、リアムは落ち着かなかった。命を助けてくれた2人に不信感はないものの、未だに自分の命が現在進行形で狙われている事実には、絶望感しかない。
どうやらあの男はこのベルローズ事務所とはまったく無関係の者で、事務所のメンバーにも前代未聞の不測の事態で、なぜリアムの命を狙うのか動機は不明……。いつどこで恨みを買っていたんだろう、どうしてそこまでの殺意を抱いて命を狙われる羽目になるのか、ショックでたまらない。
「大丈夫です、大丈夫です。この事務所にいる限り、絶対に安心ですから」
「……魔法で、守ってくれるんですか」
伺うようにリアムは、あえてそのワードを出してみる。すると、
「もちろんです!」
と、平然と笑顔で答えるオスカルに、リアムはまたも肩透かしを食らったような気分になる。
やはり、ここはーー。
みなまで言うまでもなく、ここはそういう場所なのだ。
「……まずはうちの事務所についての説明より『魔法』の存在について、彼に理解してもらう方がいいんじゃない?魔法のまの字も知らない、人間界でしか暮らしたことがない人間でしょ、リアムは。どうして魔力細工がかかった求人のチラシが見えたのかは、分からないけど」
ルーナはそう言いながら、リアムのいるベッドの端に腰をかける。
その提案はリアムにとっても、ありがたかった。殺されたかけたショックによる動揺の方がまだ大きいか、映画のような不可思議な現象を見せつけられたことにも理解が追いついたとは言い難い。
「その正論、ルーナさんが言っちゃうんですね……まぁそれもそうです。リアムさん、目覚める前の記憶って、どのくらいありますか?」
「……全部、覚えています」
記憶は完全に回復した今、大抵のことは思い出せる。
あの変装男に、見知らぬ場所に連れていかれて殺されそうになったこと。男のつけていた眼鏡が、男の手の中で変形して銃に変わったこと。ルーナという少女が、不思議に光る槍を持って、天から降ってくるように助けに来てくれたこと。その後に、オスカルという少年がピストルよりも速い何かを動かして、ルーナの助太刀しに来てくれたこと。オスカルが切り傷を負ったリアムに、不思議な薬を塗ってくれたこと。最後にあの変装男の証拠を集めようと思った矢先にーー意識が途切れたこと。
「ほんとうですか!それは良かった。リアムさんがびっくりするのも無理はないんですけれど、僕とルーナさん。そして他の事務所のメンバーも。みなさん魔法が使える、魔法使いなんです。皮肉なことに、あなたの命を狙った男も、魔法使いだったみたいですが……」
「カーターだけは別だけどね。あいつはあなたと同じ、生まれも育ちも人間界の非魔法使いよ」
「ルーナさん。上司をあいつなんて、言っちゃだめですよ」
「ハベレス……?」
聞き慣れないワードに、リアムは疑問形で復唱する。
なんとなく綴りと意味は分かる気がするが、一応聞いておきたかった。
「ハベレスって言うのは文字通り、持たざる者という意味よ。魔力のない人間のことね」
「僕たち魔法使いは、非魔法使いだなんてワードも、人間界の場では使えないので。隠語として魔法使いと非魔法使いを用語として使っているんです」
「……」
それを聞いても、リアムは最初の時ほど動揺しなかった。
魔法なんてありえない、妄想だのと今すぐに口に出して否定したくなる言葉は、心の中で静かに呑み込まれた。
魔法使い。
確かにリアムの幻覚や視覚異常でなければ、あれはどう見てもマジックなどで片付けられるシロモノではない。
「……」
「あ、あれ。リアムさん黙り込んじゃいました……やっぱり、あまり信じられないですか……?」
「うちで保護している以上、彼からの理解と信頼を得てもらわないと捜査は難航してしまうわ。……仕方ないわね、今ここであなたの欲しいものを召喚してあげるわ。何が欲しいか言ってご覧なさい」
「ぇえっ。ここで魔法を使うんですか?」
リアムが怯えた声を上げると、ルーナは眉を顰める。
「そうよ。実際に見せてあげないと、あなたは何も信じないでしょ?」
リアムはルーナが持っていた、鋭利な槍を思い出す。オスカルの召喚した何かは超高速で、硬そうな壁に囲まれた空間を切断していた。しかもリアムを襲った男の手の平からは、鞭のようなものが伸びていた。彼女が言う魔法を見せるというのは、きっとまた、何かを破壊するような恐ろしいものに違いないーー。
青ざめていくリアムの顔を見て、オスカルはすかさずルーナを止める。
「ルーナさん、まだリアムさんは目覚めたばかりで困惑していますから……またびっくりして気絶しちゃったらどうするんですか」
「チッ、事務所の中なら好き放題使えるのに……。じゃあしばらくはいいわよ。……そもそもあなた、非魔法使いのくせになんでうちの求人に応募してきたのよ」
「それは僕も……というか事務所の全員が聞きたがっていることですね。リアムさんは、魔力を持たない体質の方なのに、どうやってご覧になったんですか?僕と最初に電話をした時、クロック通りであの貼り紙を見つけたと、言っていましたよね」
そうだ、貼り紙。
オスカルに言われて、思い出した。朝、職業相談所に向かう途中で偶然見つけた探偵事務所の求人。高い日給に惹かれ、すぐに帰宅しては事務所の電話番号にダイヤルをかけた。
「あのチラシは、クロック通りの街灯に貼ってあったのを、通りすがりに見つけただけですけど……」
「うーん、なるほど……リアムさんにはあのチラシがはっきりと見えたんですね」
「仕事を探しをしている最中だったのもあって、街の貼り紙には求人情報も多いので、よく目を通すようにしていていました。ベルローズ事務所の求人は、誰もが気づくような大通りの街灯に貼ってありましたし、ただ、あんなところに貼り紙が貼ってあるのは今思えば珍しい気がしないでもないですけど……」
「あれは視覚魔法が施された特殊なチラシだから、普通の人間には見えないはず。ある程度の魔力を持つ者にしか見ることはできないわ」
ただの求人のチラシでさえも、魔法とか魔力うんぬんの事情が絡んでくるのかとリアムは食傷気味な気分になりつつも、
「とにかく俺はその貼り紙をちゃんとこの目ではっきりと見て読みましたし、何なら自宅に持って帰りましたよ」
「なるほど……ちなみにそのチラシってお家にまだあります?」
「あると思います。捨てずに机にしまってあるはずです」
「それ、明日にでも見せてもらってもいいですか?取りに帰る時は、もちろん僕たちの誰かが付き添いで行きますし」
「ええ。ぜんぜん構いませんけど……」
既にリアムは、単独行動はすら許して貰えないらしい。なんとなく分かってはいたが、この先のことを考えると憂鬱な気分になってくる。
「なんか不自然ね。やっぱりあなたを襲ったイヴァンという男、あいつの細工かしら?エルガーの言う通り、事務所を陥れるための罠だったのかしらね。それかあなたが見たチラシだけ、たまたま魔力がかけ忘れられていた紙だったのかしら」
「うーん。あの貼り紙は、何枚か色んな場所に僕とエルガーさんが貼りましたが、魔法のかけ忘れなら貼る時に気づくはずですし。チラシの作成だって、僕とエルガーさんが慎重に作成しましたし、それをカーター所長はちゃんと検査していましたし……」
「まぁ何でもいいじゃない。どのみち、うちの事務所に手を出しやがった。この事実だけで奴をコテンパンにできる口実が見つかったわ。大した魔力も持っていなかったくせによくも小癪な真似を……次は確実に私が徹底的に打ちのめして屈辱を味あわせてやるんだから」
「あまり過激すぎると、公安に引き渡す前に死んじゃいますよ」
「その時はその時よ。人間界だって銃を捨てろと言われて捨てずに抵抗したら、警官が撃ち殺してもいいんでしょ」
「それはアメリカだけの話だったような……?」
リアムが横やりを入れると、ルーナはきっとリアムを睨みつける。
「そんなのはどうだっていいのよ!公用語はどっちも英語なんだから」
「そ、そうだね」
そういう問題じゃないと突っ込みたくなるのを抑えて、リアムは頷いた。それを見て、ふんっと鼻を鳴らすルーナ。
リアムは1番肝心なことを聞き忘れていたのを、今更すぎると思いつつも、広場でしたのと同じように、質問を投げた。
「ところで、あの……魔法って……?このベルローズ事務所という場所は、どういう所なんでしょうか?」
リアムが本題の質問に入ったところで、ルーナとオスカルは顔を合わせた。
リアムはこの光景に猛烈な既視感を感じた。前も同じ質問を、この2人にした気がする。
こうは質問してみたものの、リアムには魔法やら魔力やら、彼らが会話の中に混ぜてきた異次元ワードが、まったく頭に入ってこない訳ではなかった。
この目で実際に、魔法らしいそれを見てしまった記憶が存在している以上、疑いたくともそれは確かに存在するという確信は、すでに先程から生まれていた。ただ彼らの言葉で、直接的な肯定と説明が聞きたかったのである。
ルーナはリアムに背中を見せていた体を、リアムの方向へ変えた。
「……いい質問ね。ちなみに私とオスカルがあなたを助けた時のことは覚えてるのよね?」
「はい、覚えています」
「あの男に襲われた時のことも?」
「はい」
「そう。なら説明が早いわね。あなたは魔法使いなんておとぎ話の世界でしか生息しない生き物だと思っているんでしょうけど、私たちはこうやって、ちゃんとこの世に存在する。決して幻覚やインチキでも何でもない。説明は以上よ。分かった?」
ぴしゃりと扉を目の前で閉じるように、取り付く島もないような口調で、ルーナは淡々と告げた。彼女にとって、説明はそれでもう十分らしい。
「……ルーナさん。もうちょっと説明を加えましょうよ」
「何ですって!」
「……リアムさん。僕たち魔法使いは、実は現実世界にひっそりと、隠れて生きているんです。僕たちはみなさんの住む世界を人間界と呼んでいますが、僕たちも魔法を使えることを除けば普通の人間です。寿命だって普通の人間とほぼ同じだし、食事をとらないと死んでしまうし、酸素がないと生きていけません。睡眠だってとらないと倒れてしまいます。ですが、魔力があることで、普通の人間にはできないことが出来てしまうのです。それが僕たち魔法使いの特徴です」
オスカルは真剣な眼差しで、リアムの目を見ながら説明した。少なくとも、ルーナの言葉に足りていなかったものを全て補完してくれていたように思う。
「……と言うことは、この事務所は……」
リアムの言葉に、オスカルは真面目な表情を崩してにこりと笑った。
「ええ。魔法探偵事務所です」