関東ペスト駆除株式会社
定期の検査と近日の虫騒動について話を聞くために、宗吾は渋谷の研究室に来ていた。前回訪問してからそれほど期間が空いていないはずなのに、散乱する資料が増えているような気がした。
「どうかしたか」
コーヒーの入ったマグカップを差し出しながら部屋の主は首を傾げる。言葉を選びながら動揺の原因を伝えると合点が入ったのか「あぁ」と声を発した。
「俺の生物学者だが、研究分野は新人類だ。進化系の虫に関しては深い知識を持っていない。君に推測を話す場合、もう少し虫について知る必要があると考え、資料を漁っていたらこの有様さ」
「そ、それは…申し訳ありません」
慌てて頭を下げようとする宗吾を渋谷は手で制した。
「謝る必要はない。新人類を研究するためにも、その他生物の進化について学ぶことは決して無駄ではない。なかなかに興味深かったさ」
「そう言っていただけるとありがたいです」
渋谷の淹れたコーヒーは、こだわりが強い分味が良い。どこか緊張していた体が解れるようだった。渋谷も一口啜ってから再び口を開く。
「さて、今回の虫騒動についてだが…簡潔的に言えば『外来種』だと考えている。君もよく知っているだろうが、進化したとはいえ虫は長年人間の多い街に攻めてくるようなことは稀にしかなかった。関東大蝗害レベルの大量発生なら別だがね。これが街での目撃回数のグラフだが、今年に入ってから跳ね上がっている」
机に敷かれた紙には一つの折れ線グラフが印字されていた。右下には「蝗害対策庁」と資料元が書かれている。害虫の研究や駆除に関しての対策を進めている行政機関だ。大蝗害のあった年、つまり2380年から始まった、各年の8月時点での虫の目撃回数を現したグラフは、初年を頂点に上下を少しづつ繰り返していた。ところが、渋谷の指摘通り、一番右にある2385年は突然50件近く上昇している。
「これは統計学的にいえば自然な増え方ではない。考えられることとして、統計の取り方が変わった、人々の認識が高まり通報者が増えたなどだがー…前者は変わっていないし、後者も大蝗害以降に危険性を認知していない人間は非常に少ないためあまり考えられない」
「それじゃあなぜ…」
宗吾は食い入るようにグラフを見つめて眉根を寄せる。自然ではない、という言葉はかなり衝撃だった。渋谷も考えながら話しているのか、人差し指で机を一定間隔に叩いている。
「片山君は、外来種についてどの程度知っている」
「2年とはいえ、僕だって生物科の学生ですから分かりますよ。もともとその地域にいなかったのに、人間の活動で他地域から入ってきた生物種のことですよね」
「そう、まさしくそうだ。俺は、今回の虫騒動の原因はそれではないかと思っている。それも、ただの外来種ではなく故意に持ち込まれた可能性がある」
渋谷の指摘に宗吾は身を乗り出した。思わず声も大きくなっていた。
「故意って、そんなことできるんですか」
「いくら進化した生物とはいえ、害虫は卵からしてかなりの大きさだ。人間の服に付着するということもなければ、鳥が運んでくることもそうそうない。車に生みつけられて…ならあるかも知れないが、我が国の駆除人は優秀だからな。繁殖するほど野放しにはならない。その都度街中に置いた方がこの数に近くなるさ。それだけ自然ではない」
「なぜわざと害虫を街に入れるんでしょうか…」
震える宗吾の問いに渋谷は肩を竦める。わからない、とだけ答えてマグカップに口をつけた。
いつも通りの検査を受けている間も、宗吾は上の空だった。渋谷はパソコンに記録を打ち込みながら彼を横目で確認して、ため息を一つこぼした。
「これ以上のことは調査しない限り俺には分からない。うちの大学で害虫の研究をしているのは草間教授だ。試しに聞いてみるのはどうだ」
「草間教授になら和夫…同級生の相澤が聞きに行ってくれてます。あっちは来週話を聞けそうと言っていました」
「そうか、なら話は早いな。君も時間があるなら同席させてもらえ」
「か、確認してみます」
検査終了と言葉をもらい、宗吾はカバンを掴んで研究室を出ようとした。ふと、先日岳翔に言われたことを思い出す。
「あ、あの、もう一つ相談してもよろしいでしょうか」
「何か気になることでも?」
「えー、先日、駆除人の人に駆除業者の調査員のバイトをしないかと誘われたんです。その人は僕が新人類だと知っているんですけど、少し悩んでいて」
「なぜ悩む?好都合だろう」
渋谷は怪訝そうに顔を歪めた。あまりに当然と言った様子で吐き出された言葉に、宗吾は目を丸くした。
「君は害虫について関心があるんだろう?特に、今回質問してきたような不自然な増え方をきちんと調べようと思えば調査員はうってつけだ。せっかく転がり込んできたうまい話を断る必要があるのか?」
「た、しかに…そうですね」
教授の指摘はもっともだった。相談した本人も、なぜ逡巡したのかと考えてしまうほど、岳翔の提案は好都合なのだ。
「やってみます」
「うん。それで新しくわかったことがあれば俺にも教えてくれ。興味がある」
パソコンを見つめながら投げかけられた渋谷の言葉を了承して、今度こそ研究室を後にした。
緊張で震える手で電話番号を打ち込む。
『はい。関東ペスト駆除株式会社です』
何コール目かで電話越しのハキハキとした女性の声が鼓膜を揺らした。宗吾は緊張した声のまま何とか名乗る。
「えっと、片山宗吾と申します。桜場さんはお手隙でしょうか」
『桜場でございますね。少々お待ちください…転送いたします』
ピッと操作する音の後、スピーカーから電子的なメロディーが流れる。待っている間に話す内容を脳内で何度も復唱した。音楽が途切れ、すっかり聞き慣れてしまった男性の低音が耳に入る。
『はい、駆除部の桜場です』
「片山です。今お時間よろしいですか」
『あぁ!ご連絡ありがとうございます』
電話相手が宗吾だとわかると、岳翔の雰囲気が和らいだ。彼の笑顔が見えるようだ。
「調査員のアルバイトの件、お受けしたいのですが、何か手続きなどは必要でしょうか」
『本当ですか!ありがとうございます!!!!』
興奮しているのかかなりの大声量で、思わず耳から端末を話した。向こうからも「うるさい!」と怒鳴る声が聞こえたので注意されたのだろう。いくらかトーンダウンした様子で彼は咳払いをして「失礼」と謝罪した。
『書類はメールですぐに送れるんですが、業務説明があるので一度弊社に来ていただけますか?』
「承知しました」
『日程は調整をしようと思いますが、何日は難しいとかありますか?』
「月、木はほぼ一日大学にいるので、それ以外が良いです」
『月木ですね…分かりました。また連絡します』
「はい。ありがとうございます」
岳翔は相当嬉しいのか、その後も感謝の言葉を何度も口にした。ここまで喜ばれるとどうにもむず痒い。さらに、この期待に応えられるだろうかと一抹の不安が宗吾を襲った。
受話器を置いてから、岳翔はガッツポーズをした。あまりに不審すぎる電話対応に、斜め前に座っていた遙子が顔を歪める。
「何ですかガクさん。凄まじく変ですよ」
「それがさぁ、片山さんが調査員のバイトしてくれるって言うんだよ」
「えぇ!!!すごい!!!!」
数分前の岳翔と同じ反応をした遙子を、今度はその隣にいる神尾健斗が耳を塞いだ。
「ハルちゃん、うるさいよ」
「ごめんねケン君!」
大きな体で窮屈そうに座っている健斗に謝るが、遙子の声のトーンは下がっていない。
「でもお前も散々会いたがっていた片山さんだぞ。嬉しいだろ」
「うん、それは僕も嬉しい」
健斗は変化の乏しい表情でコクリと小さく頷く。それでも口元や目尻の若干の変化で、毎日彼と顔を合わせている職場の人々には、十分喜びは伝わってきた。
3人が盛り上がっているのを見て、他の駆除人も口を開いた。
「何だよそんな楽しそうに。おじさんも混ぜてくれよ」
「私も入れて〜」
白髪混じりの初老の男・北山恭介と、頬や首に火傷後のあるオレンジヘアの女・一軸媛乃が身を乗り出す。
「片山宗吾さんって大学生の子がいるんだけど、虫見つけるのが凄く上手いんですよ!たまたま何度か現場に遭遇して助けてくれたことがあって、調査員のバイトしないかって誘ってたんです」
遙子が説明すると、面識のない2人は興味深そうに相槌を打った。
「そりゃありがたい能力だな。是非とも会ってみたいもんだぜ」
「業務説明で近いうちに来ますよ。と言うことで、俺は調査部に話してきます」
破顔した岳翔は席を立つとスキップでもしそうな勢いで部屋を出て行った。媛乃が笑い声を漏らす。
「なぁに、あんなに楽しそうな桜場君珍しいわね」
「ガクさんはこの間も片山君と虫退治してますから、ずっとソワソワしてたんですよ」
「何それ可愛い〜!ねぇ、片山君ってどんな感じ?イケメン?」
「え、うーん、顔のバランスはいいかなぁ。あと、メガネとか服装も拘りがあるのかオシャレですよ。ピアスがたくさん開いてます」
「楽しみねぇ」
はしゃぐ媛乃たちに恭介はため息を溢す。健斗は我関せずといった様子でキーボードをポチポチと押している。
「おー、怖い怖い。品評会かよ」
恭介の発言にすぐ媛乃が返答した。
「部長たち男性陣も、女性を前にした時変わらないでしょ〜」
「グゥの音もでんな」
テンポの良い会話に場が和む。遙子が重ねるように「楽しみですね」と笑った。
新たにかかってきた電話に応えてから媛乃が立ち上がる。
「神尾君、仕事に行くわよ」
「ありゃ、今日はどこですか」
「薬品工場で卵が見つかったんですって。また変な所に…嫌んなっちゃうわね」
彼女は駆除人歴15年のベテランで、健斗とバディを組んでいる。この会社の主戦力の1人だ。2人は慣れた手つきで道具をまとめると、すぐに出て行った。
「大忙しですね」
見送った遙子が呟くと、恭介も頷いた。
「俺は最近、誰かが虫を置いてってんじゃねぇかと思ってるぜ」
「え〜、流石に考えすぎでしょ。だってそんなことしたって意味ないじゃないですか」
「…だといいんだけどな」
背もたれに体を預けた彼の声は、やけに響いた。
岳翔に電話してから2時間ほど経過して、宗吾に一通の電話がきた。
「片山です」
『関東ペスト駆除株式会社の淡路と申します。先程はご連絡ありがとうございます』
聞いたことのある名前に、一瞬宗吾は反応しかけたが堪えた。商店街で会った時と変わらない固く真面目そうな声で淡々と日程を伝えてくる。彼女に関しては岳翔に怒っている姿しか見ていないため、慎重に返事をした。問題なく終わったが、通話を終える頃にはどっと疲労感が押し寄せた。
「所構わず怒る人ではないだろうけど、最初が最初だからな…上手くやっていけるかな」
迎えた業務説明の日。宗吾は少し古びた外観のビルに足を踏み入れていた。3階建てだが奥行きがあるのか、かなり広々とした印象を受ける。受付で名前を告げると、すぐに淡路凛が現れた。
「淡路です。よろしくお願いいたします」
「片山宗吾です。本日はお時間をいただきまして、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそありがとうございます。調査員のアルバイトは知名度のせいかなかなか人が集まらないもので、ありがたいです」
凛は岳翔の前にいた時とは違い、かなり落ち着いた雰囲気だった。淡々とした口調ではあるが。
案内された場所には「調査部」の札がぶら下がっていた。
「ここが片山さんの仕事場になる予定の調査部です」
中には見たことのない機材と睨めっこする人、巨大な装置を操作する人がいるだった。入り口の脇にある応接室で待つように指示を受け大人しく座るが少し心が落ち着かない。
凛はすぐに湯呑みとタブレットを持って現れた。
「桜場から少し事情を伺ったのですが、虫を探すのが得意とか…?ですので、主に探索班に入っていただければと思います。直接の戦闘はありませんが、当然生きた状態の虫と遭遇することもあります。その辺りは大丈夫ですか?」
「は、はい。攻撃を避けるだけならできると思います」
タブレットには業務説明の資料が映し出されていた。横にスライドしてページを変えながら説明は進む。
「そうですか。心強いですね。あとは、現場調査にも少し入っていただきたいです。虫がどうやって来たのか手掛かりはないか、どのように暴れたのかなどを調べます。専用の機材を使いますが、これは社員の指示に従ってください。事前に説明があります」
「承知しました」
その後は最低限の業務時間や給料などの話が続き、口座や連絡先を登録すると晴れてアルバイトとして雇用された。
「駆除部の人が貴方のことをかなり推していました。面識があったのですね」
「桜場さんや小此木さん…あと神尾さんとも一度お会いしたことがあります」
「そうですか。桜場は報告が適当なので苦労しますよ。手間ですが無理矢理でも聞き出してください」
凛は端正な顔を歪めて忠告してきた。やはり岳翔を嫌っているのだろうか。宗吾は曖昧に笑って返した。
「桜場さんとの付き合いは長いんですか」
「えぇ、桜場が私の一つ上の先輩です」
自分から尋ねておきながら、宗吾は「あぁ…」としか返せなかった。それも凛が心底嫌そうな顔をしていたからである。彼からすると岳翔は親しみやすく格好良い駆除人だが、彼女との相性は悪いようだ。
「では、これからよろしくお願いいたします。せっかく来ていただいたので、今いる部署の人間を紹介しますね」
「ありがとうございます」
凛に促されるまま応接室を後にした。
直接関わる機会が多い探索班の机に連れていかれる。その場にいたのは3人で、本来はあと4人いるらしいが今は出ているようだ。
「左から、松村、小鳥遊、宇喜田です」
「片山宗吾です。お世話になります」
黒い作業着をまとった三人に頭を下げると、1人ずつ挨拶をしてくれた。
「松村穂高です。よろしくね」
ゆるいウェーブの黒髪を一つに縛った女性で、泣きぼくろが下にある垂れた目を細めて微笑んだ。
「小鳥遊天。大学生なら歳も近いだろうし、よろしく」
背が高い男だった。彼は分厚いメガネを親指で押し上げながら頭を下げる。その先には狐のように釣り上がった細い目がのぞいていた。最後に挨拶した宇喜多は短い金髪で、カラフルなピアスをつけた男である。彼は人懐こいくしゃくしゃの笑みを浮かべており、少し大きな犬歯が見えた。
「宇喜多大将っす!自分も同じアルバイトなんで、仲良くしてください!」
和気藹々といった雰囲気で、宗吾は安堵で胸を撫で下ろす。
「松村さんが捜索班のリーダーなので、基本的には彼女から指示が来ると思っておいてください」
「はい」
凛の説明に相槌を打つ宗吾に、穂高は「そんなに緊張しないで良いのよ〜」と柔らかな声で笑った。
「それじゃあ、片山君の作業着は初日までに用意しておくわね。サイズはどれが良いかしら。奥にサンプルがあったはずだから、宇喜多君引っ張り出してもらえる?」
「了解っす!」
物置のような空間に大将は消えていった。5分も経たずにまた顔を覗かせて、宗吾を手招きした。
大将のところへ行くと、彼らが身につけている作業着とともに、何時ぞや見た紺色のジャンパーを手渡された。
「多分Lでいいっすよね?」
「そうですね、大体はそれで入ります」
「じゃあパネル立てるんで、試しに着てみて、問題なさそうだったらそのまま発注するっす」
「ありがとうございます」
彼は大きなパネルを2枚持ってきて宗吾の前に立てた。確かにこれなら女性陣に見られることはないのだが、どこか気恥ずかしい。大将は「自分が見張ってるっす!」と謎に張り切っていて、壁の前で仁王立ちしていた。それがより恥ずかしい。
服サイズは問題なかった。
「おおー、本当に片山さん来てる」
宗吾が若干頬を赤らめたままサンプルの服を返却していると、遙子と岳翔が現れた。見た目の個性が強い2人はこの部屋で見るとかなり異質である。
「何しに来たんですか仕事は済んでるんですか」
すぐさま凛が岳翔に食ってかかる。さっきまで普通だったのに…と宗吾は唖然とした。周囲はあまり気にした様子もない。いつも通りの光景なのか、また始まったよと口々に呆れるだけだった。
「今日のところは本当に片付いてるよ。さっき入電した駆除は一軸さんたちが行ったから俺ら出ないし」
「ほんとだよー」
訝しげな表情を浮かべる凛に、すぐさま遙子がフォローを入れる。彼女は少し落ち着いたらしい。
「お、お久しぶりです。今回はありがとうございました」
空気を変えようと宗吾が話題に入り込む。遙子たちの視線が彼に集まった。
「いやぁー!本当にありがとうございます」
岳翔が宗吾の背を強く叩いた。満面の笑みに、かなり熱烈に歓迎されていることを悟る。
「僕もバイトになるわけですし、敬語とかいらないです」
「そうか、じゃあお言葉に甘えて…これからよろしく頼む」
銀色の髪が彼の額の上をサラリと流れる。同性相手なのに、芸術的な美しさに思わず口籠もった。
「私も楽しみにしてたんだから!」
「小此木さんも、よろしくお願いいたします」
遙子も近づいてきた。
「よろしく!片山君は今19歳くらいでしょ?私20歳で歳そんなに変わらないし、そんなにかしこまらなくていいよ」
右側に岳翔、左側に遙子。眩しい2人に挟まれ、宗吾は目が眩みそうだった。ギリギリのところで凛が2人を引き剥がす。
「もう、彼は帰るんですから後日にしてください!」
「わかったわかった。それじゃあまたな」
岳翔は、怒鳴る凛をまた笑顔で流してはることともに部屋を出ていった。
一連の流れを見ていた穂高が一言「台風みたいねぇ」と呟くと、残りの全員が頷いた。
「凛ちゃん含めてだけど」
「どういうことですか」
「ま、いいじゃなーい!片山君の服は初出勤日に渡すわねぇ」
穂高が両手を合わせた音が響く。天が小声で「無理矢理なかったことにした…」と呟いていたのが、宗吾の耳にだけ聞こえていた。