1話 世界が変わった日
5月27日、午前十二時、都内の小さなアパートの一室に男の声が響く
「やったぁああああああああああああああああああああああ」
アパートの小さな部屋で狂喜乱舞する男の右手には、一つの封筒が握られていた。
「嘘じゃ無いよなぁ! これ、夢でもなんでもないよなぁ!!」
彼の名前は丹藤大地。年齢は26歳、現在の職業はフリーター。
その手に握る封筒には『丹藤大地様へ』と達筆で文字が書かれており、内定承認書在中と赤い判子が押されていた。
「やったぁ! やったぁ! ついに採用された!」
大学卒業後、給料が良さそうなのでなんとなく広告会社に2年勤め、なんとなく自堕落に仕事をしていた時に、そりの合わない上司と揉めて仕事を辞めて以来、プータローで1年間を無駄に過ごしてた。騙し騙し働いていたころの貯金を崩しながら過ごしていたが、世の中そんなに甘くは無く、転職活動はことごとく失敗。
会社を2年で退職し、約2年の空白期間がある男を、採用してくれる会社は無く、毎日お祈りメールを受け取り、エントリーシートをひたすらに書く日々を繰り返していた。
「くぅぅぅぅうううう、やったぜ!」
彼は封筒を持っていない右手を、天に突き上げ勝鬨を上げる。
大学4年間は友人と遊んで何もせず、就職に有利な資格なんて取らなかった彼には、大学時代に新卒という最強のカードを適当に切ったことを後悔し、世間の厳しさを味わう毎日であった。さらに、ここ半年はさらに地獄で、これなら絶対受かるだろうという底辺のような会社でも、まさかの書類審査で落とされ続けて、貯金もほとんどなくなり心身ともにボロボロであった。
そんな彼の元に、ついに採用通知が届いたのだ、それはそれは、年甲斐にもなく部屋で変な踊りを踊るほどまいがってしまっている。
「これで、明日から生きられる……そして毎日お祈りされなくてすむ……」
手に持った採用通知書の封筒を表裏と、ひっくり返し会社名を探すが見当たらない。
「それにしても、どこなんだこの会社は?」
正直いろいろな会社に書類を送っては、お祈りを繰り返されていたので、どの会社の返事が返っていて、どの会社の返事が返ってきていないかは一々確認をしていなかったんだよな。……確認するのも精神がすり減るし。
「それに、こんな風変りの封筒だなんて」
手にしている封筒は確かに採用通知書在中と赤判子が押されているが、それは洋封筒だ。よくイメージ画像などで手紙のイメージされるあれだ…と思う。
洋封筒に採用通知を入れて返信するなんて、まともな会社ではないことは確かだ。普通は角2だろ?
さらに気味が悪いのは、その洋封筒の出で立ちだった。洋封筒自体は、おそらく上質な紙で作られており手触りがいい。よく見るとふちの細部まで金色の綺麗なレリーフも施されていて、ご丁寧にシーリングワックスで封をされている。
だがそこまで丁寧に作られているの洋封筒なのに、その洋封筒の外観はボロボロだった。それこそ何十年も外に放置され雨風にされされたかの様に。封筒の角の部分などは敗れているほどだ。
『丹藤大地様へ』というあて名書きと、赤判子は読めはするが、それも上から擦ったように文字が掠れている。
「ん? 会社名は…………これか……?」
洋封筒の裏によく見ると英語の筆記体で何か文字が書かれていた。しかしそれも同様に掠れており、半分は消えてしまい、読み取れたとのは『National Museum』という文字だけだった。
「なしょ、なんだ? なしょなるなのか?」
英語の成績が壊滅的だった彼には英語が読めなかった。
まあいいか、どうせ中の書類に会社名は書いてあるだろうし。
彼は封筒の怪しさをすべて棚に上げてしまうほどに、採用通知という言葉に興奮をしていた。そして彼はシーリングワックスを丁寧に、丁寧に、はがして洋封筒を開けた。
「なんだ、中の書類は綺麗じゃないか」
封筒の外見とは違い、中身の入っている書類は非常に丁寧に折られた、綺麗なピンのA4用紙だった。文章もおそらくパソコンから印刷されたものであり、ちゃんとそこには採用通知という文字があった。
「くぅうう、たまらないぜ。えー、なになに『丹藤大地様、当博物館の学芸員補佐に応募いただきありがとうございます。審査の結果採用になったことをご報告します』か」
博物館? 会社じゃなくて? そんなところに書類送ったか俺? あれか、まあいいか。
きっとエントリーシートを送りすぎて送ったことを忘れているのだろうと、彼はそう結論付けた。
「えーっと、それで、『当博物館では未経験者方の場合、採用後即離職する場合が多々ございます。そこで採用前の最後の意思確認として、当館長と最後の面談をしたいと思っております。そこで本採用とさせていただきたいともいます』か」
博物館ってそこまでハードな仕事なのかな…………むむ、というかこの文面を読むと今はまだ仮採用なのか。面接はこの一年間しっかり『誰でも絶対に作用される面接マニュアル』って本を読んだし、失敗は無いとは思うんだよなぁ……何にしても! 俺を働かせてくれるなら、どこでも頑張るぜ! ……貯金もないし。
「えーっとそれで『つきましては明日5月28日に下記のの住所まで』って、28日!?」
急いでカレンダーを確認する。今日5月27日。
嘘だろ、手紙が届いて明日面接とかあり得るのかよ。やべぇよ床屋今日行かないと。というかこれ明後日届いたらどうしてたんだよ、この会社。というか博物館。大丈夫なのか本当に? いたずらじゃないよな?
採用通知の残りの文章は、来るべき時間と場所が記載が記載されているだけで、短く簡潔に終わっていた。
「ふーん、まあいいかぁ。明日行けばいいだけだし」
どうせ明日もエントリーシート書きと、特売スーパーのチラシとにらめっこするだけの予定だったし。
「ん?」
採用通知用紙の裏に、直筆で文章が書かれているのを見つける。
文章はどうやら二人の人物が描いた様子で、非常に達筆な文字と、女の子が書いたような可愛い丸字で、それぞれ一文ずつ文章が書いてあった。
「なんだこれ。えーっと、なになに。『本日の天気は晴れ時々雨、お出かけの際は折り畳み傘をお持ちになるようにお勧めいたします』ふっ、なんだこれ、天気予報?」
何かのいたずらだろうが、念のために部屋の窓を開けて天気を確認するが、雲一つ無いピーカンだった。更にテレビとスマートフォンで天気予報を確認をしたが、両方共東京の今日の天気は、晴れと予想されている。
「だいぶ茶目っ気のある面接書類だな、ふっ。それで、『面接当日にはクグロフを買ってくること! 買ってこなければ死刑』、死刑? なんだこれ、なんかの採用試験か? っていうかクグロフってなんぞ。というかあり得るのか、いたずらだとしてもこのご時世に死刑というワードを企業が軽々しく使う事なんて。
俺はこの時に気づくべきであった。この書類が普通の採用通知でない事に。
「つっぁあー、今日は気分が良いし、外で外食でもするかぁ」
彼はそう言い放ち、大きく体を伸ばし、外に出る準備を始める。
「なったって、最終面接だって1年ぶりくらいか、今まで節約もしてたし、今日はパーっと、前祝をしても良いだろう」
それに明日が面接なら床屋にもいかないといけないし、念には念を入れてフクロウ? だっけなんかそんな奴も買ってこなければいけないみたいだし。
彼はいつも着ている高校からのだるだるジャージではなく、外行きの服装に身を包み家を後にした。
床屋で散髪中にスマートフォンでググったが、フクロウではなくクグロフだった。クグロフとはフランスの地方の焼き菓子だった。俺の住んでいる下町のケーキショップには売っておらず、少し都心のデバ地下まで行くことになってしまい、意外との出費になった。
「おいおい、嘘だろ」
探しに探し周りやっとの思いでクグロフが購入ができて、クグロフを持ってデバ地下から地上に出たら、雨が降っていた。
「まさか使うことになるとはな」
手紙の一文がどうしても気になった俺は、念のために折り畳み傘を携帯していた。
「偶然だよなぁ……」
予想が当たったことに俺は若干の恐怖を覚えながら、傘を持ってきたことでその後のスケジュールも問題なくこなすことができた。
5月28日、午前10時俺は採用通知に書いてある住所にいた。
「ここかぁ、って……国博やん、ここ」
上野駅で下車したあたりで見当はついていたが、俺の前には間違うはずもない日本国立博物館の本館が鎮座していた。
日本国立博物館、東京都のど真ん中に位置する独立行政法人によって設立された博物館。日本最古の博物館で、土地面積は120,258平方メートル。東京ドーム2.5個分の広大な面積に、国の重要文化財が何万も保管、展示がされている。年間の来場者数は約258万人。この国の歴史を示す、生き辞書のような場所だ。
「でも、流石に、国博の学芸員補佐なんてエントリーシートを出した記憶ないんだよなぁ……というか国博の学芸員補佐ってどうやって採用されるんだよ。それすら知らないよ。臨時の警備員のバイトの採用所だったかぁ? でもバイトの履歴書も出した記憶ないしなぁ……」
俺の頭の中に悪意のあるいたずらだったという言葉がよぎる。
「おい、おい、嘘だろ、ここまで来てそんなオチあるのかよ!?」
と、とりあえず住所にはここって書いてあるし、誰かここの人に聞いてみるかぁぁぁ。
彼の頭の中では、いたずら8割、本当2割と既にこの採用通知が偽物であるという結論が出かかっているが、念には念をということで、自分を奮い立たせる。
彼は帝冠様式の石畳の階段を上がり、大きな入り口を抜けて本館に入り、エントランスの受付のお姉さんであろう女性に声をかける。
「あ、あのー、すいません」
「はい、何か御用でしょうか?」
「きょ、今日、学芸員補佐の面接で来たんですけど……」
あ、あとクグロフ一応買ってきました。
既に今回の件がいたずらであったであろうという確信が強くなり、受付の女性に話しかける言葉もだんだんと小さくなってしまい、クグロフを買ったということに至っては、もう言葉にできなかった。
「はい、ただいま確認をおとりしますので、お名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
「あ、あはい。丹藤、丹藤大地と申します」
「それでは丹藤様。少々お待ちください」
そんな挙動不審の丹藤をものともせず、受付の美人のお姉さんはニコッと微笑み、手元の資料を確認をして、どこかに固定電話で電話を掛ける。
1分も経たずに確認は終わった。
「丹藤様、大変申し訳ございません、各方面に確認をおとりしたのですが、本日当博物館の学芸員補佐の募集面接の予定はございませんでした」
「え!?」
やっぱりかよおおおおおおおおおおおおお、いたずらかよおおおおおおおおおおおお
予定調和というか予想していたお姉さんの返答に、心の中で叫ぶ。
おい、おい、マジかよ、ホントかよ。というかはぁ!? ここまで来るのにも交通費もかかってるし、入場料だって払ってんだよ。昨日は今日のために床屋だって行ったし、クグロフだって買ってきたんだぜ。誰だよマジで、ホントに。
彼は、本当に本当にという気持ちを込めて、持ってきたビジネスバックをひっかきまわして、昨日の採用通知を見つけ、お姉さんに見せる。
「あ、あ、あ、あ、あ、あの! こ、これなんですけど」
俺は祈る気持ちで昨日届いたボロボロ封筒の採用通知を、封筒に入れたまま受付のお姉さんに受付のカウンターに置く。
「拝見させていただきます」
受付の美人のお姉さん丁寧に両手でその封筒を受け取る。
た、たのむ! マジで! ほんとに!
「あら? この封蝋は…………」
受付のお姉さんは受け取った洋封筒を開けずに、両手で丁寧に持ち、何かを確認するように洋封筒を裏表と外見を観察する。
いやー、そうですよね、そんな怪しい洋封筒を採用通知なんて、質の悪い冗談ですよね……はぁ。
「あ、やっ
「少々お待ちいただけますか、館長に問い合わさせていただきます」
えっ!
「あ、はい。よろしくお願いいたします」
受付の美人のお姉さんからの思ってもみない一言に流れに身を任せる。
少しだけ受付の美人のお姉さんの表情が硬くなった気がするが気のせいだろうか……確かに差出人は館長となっていた。でもそれは形式上の表記で、一学芸員補佐の面接を館長が取り仕切っているのか? んー……
「丹藤様。これから館長へ確認作業を行います。お時間が掛かるかも知れませんので、このエントランスの中でお待ち下さい」
俺の思考がまとまらぬうちに受付の美人のお姉さんから声がかかる。
「はい、よろしくお願いいたします」
額のない俺の頭をひねっても答えはもちろん出るわけはなく、話は先に進んでいそうなので気にしないことにする。
5分ほど受付のお姉さんが見える位置で、時間をつぶしたところでお姉さんから声がかかった。
「丹藤様ー、丹藤様ー」
「あ、はい!」
「大変お待たせいたしました丹藤様。館長に確認しました。確かに本日学芸員補佐の面接予定がございました。申し訳ありません。表から入ってこられたので、勘違いをしてしまいました。確認までにお時間をいただき申し訳ございません」
受付のお姉さんは俺に深々と頭を下げた。
「あ、あ、い、いえ」
えっ? ってことはマジなの!? というか表ってことは裏口から入場すればよかったのか?
「向こうの者にも事情はお話ししましたので、ご入場はい《・》つも通りの裏口からよろしくお願いします」
「あっはい! ありがとうございます」
うわっぁ、まじかよ! やったぜ! やったぜ! 採用かよ!
俺は受付の美人のお姉さんにお礼を言い、上機嫌にスキップしながら本館から出て立ち止まる。
「よかったぁ、なんだ裏口かよ」
でも、裏口ってどこだ?
受付に出戻りをして、さっきのお姉さんに『裏口はどこですか?』って聞くのも恥ずかしい。
採用通知には面接時間は書いていないので、とりあえずぐるっと、このあたりを一周するかぁ!
――1時間後
「ど、どこが裏口なんだ」
敷地内をぐるっと一周回ってみたが、裏口らしき場所はどこにも見当たらなかった。
「もうこっから入るしかないかぁ」
目の前には、捜索中に見つけた大きな搬入口。おそらくは巨大な展示物を出し入れする時に使う場所なんだろう。
「まあ、裏口ちゃ、裏口だし。絶対にここの関係者の人には出会えるだろし、仕方ないよな!」
関係者以外立ち入り禁止という大きな立て看板を横切り、何か悪いことをしている様に感じながらも搬入口を進む。少し歩いたところで、4トントラックが停車しているのを見つける。
そして、その運転手らしき男性と何やら話し込んでいる女性が見えて来る。
俺の足音に学芸員らしき女性がこちらに気づいた。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょー。ここは一般人は立ち入り禁止ですよ、危険ですので、すぐに引き返してくださーい」
女性は両手を頭の上で大きく振って、こちらに大声で話しかける。
ああ、よかった、施設の人だ。もうこの人に聞こう。
こちらが怪しい者でないことをアピールするために、その場で止まり大声で彼女に話しかける。
彼女と俺の距離は30メートルほど、丁度バスケットコートの端から端までくらいだ。
「あのーすいません、裏口ってどこですかー」
「裏口ぃ?」
彼女の声からこちらをいまだに不審に思っているのを感じる。
それもそうか、突然搬入口に乗り込んできて、裏口を聞くスーツの男は流石に怪しいか。なんかの営業じゃないかと思われて当然か。
「あのー、今日の学芸員補佐の面接予定者ですー、受付のお姉さんが裏口からってー言ってたんですがー」
トラックの運転手の男性が何かに気づいたのか、女性に話しかけるのが見て取れる。俺には聞き取れなかったが。
「あれじゃないか美香、天出爺さんの後任の人じゃないか? あの人」
「ジジイの後任? そう言えば館長が、次の奴見つけたいけど全然募集に来ないって嘆いてたな」
「ちかも受付のお姉さんから裏口へって事は右さんじゃなくて、左さんがそう言ったんだろ。まさかまた裏口が消えたんじゃないか?」
「チッ……おいおい、マジかよ……たっくめんどくせぇなぁ」
お姉さんは何かにイラついたのか、腰より長い髪をかきむしりながら俺を見た。
「おーい、そこの奴!」
「はーい!」
なんか、イラついてるな。俺が悪いのか?
「表に裏口が無かったのかー!」
表に裏口? えらく意味不明なことを言うな。でも正面玄関付近はもう目を皿にして探し歩いた、そんなものは無かった。
「無かったですー」
「チッ…………またかよ」
俺には彼女の大きな舌打ちの音だけが聞こえた。
「美香。もうこの後運び込むのは『叫び』だけだから、俺と部下で搬入できるし、ちょっと行ってこいよ。それに天出爺さんの後任なら、お前はあの人にお世話になっただろうし。親孝行も兼ねて、道案内して来い」
「チッ……爺さんの話すんじゃねぇよ。わかったよ行ってくるよ。でも怪我すんなよ、ジョージ」
「流石にしねぇよ。ここの歴はお前よりは短いが、これでも10年はやってるんだぞ俺は」
「耳栓だけは必ず、運ぶときは必ず徹底な」
「あいあい、わかってるよ」
俺には聞こえなかったが、話し合いが終わったのか彼女はこちらに向かって来てくれる。たった三十メートル、遠目からでもわかったが、彼女の出で立ちに俺は圧倒される。
まず最初に目に入るのはその髪の色だ。赤色、緋色、俺にはどう形容するのが正しいのかわからないが日本ではまず目にかかることがない色だ。その色に非常に綺麗に髪が染まっており眉毛までも同じ色だ。次に瞳の色。エメラルドグリーンの綺麗な瞳だ。顔立ちは日本人の様だが、染めているのか、カラーコンタクトを入れているのだろうか。そして顔立ちが非常に整っており魅力的に見える。
うぉ、すげぇ美人じゃねぇかよ。でも……
容姿の次に目に付くのはその服装だった。片足丸出しのダメージジーンズに、黒い革ジャン。髪色と合わせて、見ると。どこからどう見ても売れないバンドボーカルにしか見えなかった。博物館というものの正反対に居そうな人である。
「ごめんな、とりあえず一緒に来てくれるか? 一緒に裏口確認しに行こうぜ」
「あ、はい! ありがとうございます」
これでとりあえず面接には行ける。よかったよかった。
俺はそのままとってもパンクな美人さんと、来た道を一緒に引き返すことにした。
前を歩く彼女の長い髪は歩くたびに、ゆらゆらと左右に綺麗に揺れる。アクセントで入っている瞳の色と同じ緑のメッシュがそれもまたカッコよく、彼女の歩く後ろ姿は、まさに燃える炎のようだ。
綺麗な人だなぁ、なんか言葉はぶっきらぼうだったけど。
「お前、まさかと思うが、裏口知らないって、おのぼりさんか? ここに来たことは有るのか?」
前を歩く彼女に問われ、俺は自分の人生を思い返してみるが、博物館なんて品のある場所に来たのは、中学生の遠足くらい幼い時に行ったのが最後だ。
昔はよく両親につれってもらった記憶がある、いやあれは動物園か?
「最後に来たのは15年前くらいですかねぇー、あんまり覚えてないんですけど」
「ククッ、確かに15年前じゃ入り方も違ったからなぁ、入り方わからなくても仕方ないか」
入り方? なにか俺が扉を見落としてるのか?
彼女との会話はそれっきりで俺と彼女は、俺が1時間前に通った本館の前まで来た。
何度見ても国博のは綺麗だ。さっきエントランスで説明をチラッと読んだが、これが築84年なんて驚きだ。
「ちょっと待ってろ」
そうぶっきらぼうに彼女は告げると、石畳の階段を上がり、入り口の前で腕を組み何もない虚空を凝視しはじめる。
「確かに、閉まってやがるな」
なにが? むしろ彼女が睨みつけている本館の入り口は開いているように見えるのだが。
その後、彼女は一度俺のところまで戻ってきて、本館前の噴水のへりに立ち、建物の外見を眺める。
「また、フェイ達のいたずらか?」
「え?」
いたずら?
「ああ、ごめんな。ウチのいたずら好きのせいかもしれない。少し時間をくれ」
彼女は俺から少し離れて、スマートフォンでどこかに電話をかける。
「おい大吾!!! またフェイ達が逃げ出してるんじゃないだろうなぁ、今度同じ事したら1ヶ月間黄金カブトの掃除係って言ったよなぁ、おい!」
彼女はやはりというか、男勝りな口調で電話相手を怒鳴りつけていた。
俺から離れた意味よ、会話全部丸聞こえなんだけど。
「え? ちゃんと居るぅ? 本当に要るのか、化かされてねぇかお前」
なんだろう、何か専門用語が飛び出している俺にはわからない。
「チッ……じゃあなんだ。わかった。わかった。疑って悪かったよ。それと今日入ったアレ、アレの様子はどうだ。首輪はしてあるけど搬入には注意しろよ、あたしが行くまでちゃんと管理しとけ。今の仕事が終わったら向かうから。じゃ」
彼女はスマートフォンを切り、俺の方に向かってくる。
「ごめんな、なんか不具合が出てるみたいだ。ちょっとあたしに着いてきてくれ」
「あ、はい」
そして俺たちはそのまま本館に入館し、さっきの受付のお姉さんのところまで来る。
「美香さん搬入作業おつかれさまです、今日は朝からご苦労様でした」
受付に向かってくる俺たちの姿を確認すると、受付のお姉さんは立ち上がり、こちらに会釈をする。
彼女はそのまま行儀悪くカウンターに肘を立てて、受付のお姉さんに話しかける。
「おい左、右に連絡を取ってくれ」
「右にですか? いいですけど、あ、丹藤さん、先ほどはどうも」
「あ、どうも」
「何かイラついてますけど、どうしたんですか? 美香さん」
「裏口がまた締まってやがる。先月とは違ってウチのフェイ達のせいじゃないらしい。また『要』に不具合がでてるんじゃねぇのか」
彼女は受付カウンターを人差し指で小刻み叩く、よほどイラついているらしい。
「あら、あら。あ、右。ええ。ええ。、ええそう。わかったわ。ありがとう」
「え?」
受付のお姉さんは突然独り言を話し、何もない虚空にお礼を言う。まるで誰かに電話でもしているようだ。
「美香さん、ごめんなさい。向こうで少しトラブルがあったみたい」
「トラブル?」
「ええ、神宮寺さんが」
バンッ! と彼女は俺たちの居るエントランスに響き渡るほど強い力で、受付カウンターを叩いた。
「まぁった神宮寺か!! 今度は何をやらかした、冗談は胸だけにしろってあれだけいつも言ってるじゃねぇかよ」
「いいえ、神宮寺さんが対応に当たってくれてるらしいの」
「チッ……向こうでなにがあった」
先ほどまでイラついたガラの悪いヤンキーみたいな口調だった、彼女が一瞬でまじめなトーンに代わる。
「東の要石がやっぱり不安定みたいで、神道系の人たちが対応に当たってるって、その総指揮を神宮寺さんが出張ってくれてる。ほとんどの対応チームが今そっちかかりきりだって」
「チッ、じゃあ館長のせいか、わかったよ。大事がねぇなら、それでいいや。で復旧は」
「どうでしょう、ほんの1時間前くらい前からの不具合みたいで1時間以上はかかるってさ」
「はぁ、どうすんだよ本当に」
今度はわかりやすくしゃがみ込み、うなだれた。
この人はすごく喜怒哀楽がわかりやすい人だな。それにしても本当にどうやって受付のお姉さんは外部に連絡を取ったのだろう、カウンターの裏にモニターでもあるのかなぁ。
「じゃあ、美香。丹藤さんを館長室まで連れてってくれる?」
「館長室ぅぅうう? 表のここからだと糞遠いじゃねぇか」
「だって仕方ないでしょ。裏口が締まちゃったんだから。ちょっと遠いけど門まで連れてって、館長室までお連れしてあげて」
受付のお姉さんは営業スマイルで、不満そうな彼女にお願いをする。
彼女は露骨に受付のお姉さんに面倒臭そうな顔をしてみせる。その顔はせっかくの美人が台無しになるほど下品であった。
「ほらほら、そんな顔しないで、あなたも女の子でしょ」
「うるせぇやい!」
「それに丹藤さんは、天出お爺様の後任になる人なんでしょ。あなたほど天出お爺様にお世話になった人は居ないんだから、たまには親孝行しなさいよ美香」
「くぅううう、お前たち揃い揃って親孝行、親孝行ってなぁ! いいよ連れてけばいいんだろう!」
「お・ね・が・い・ね」
すごいな受付のお姉さん、出会ってからほとんど営業スマイルで会話している。プロだ。それに彼女の扱い方もわかっているようだ。
「丹藤だっけ? ついてこい館長室まで案内してやるよ」
「よ、よろしくお願いいたします」
「ちゃんと案内してあげてねー」
笑顔の受付のお姉さんに見送られて俺らは、博物館の中へ足を進めた。
俺は久々に来る国博に少し心が躍ったが、俺らは一瞬でバックヤードに入り、あまり展示品を見ることは出なかった。
俺は再び、彼女のまるで炎のような綺麗な長髪を眺めることになった。
それは右へ左へ何回も道を曲がり、3回扉をくぐり、4回階段を上下したころだっただろう、俺の方が沈黙に耐えられなくなり、彼女に声をかける。
「あのー」
「なんだ」
「さっきのお話を聞いていたんですけど、俺の? 前任者さんとお知り合いなんですね」
「ああ、爺さんなー」
「博物館の皆さんのお話を聞く限りだと、かなりお年を召した方だったのですか」
「ああ、齢80後半の大長老だったよ」
「80歳後半!?」
80歳後半とか俺の爺さんと同じかそれくらいだぞ。そこまで働いていたとかすごいな。本当にこの仕事が好きだったのか。
「す、すごいですね。80歳以上でも働き続けるなんて」
「ああ、でも年齢なんて気にしないくらい元気な爺さんだったよ」
「そうなんですか」
「掃除の仕方がなってないとか、展示品の取り扱い方が違うとか、毎日ほとんど誰かに怒鳴ってるような爺だったからな」
前を歩く彼女は、思い出を懐かしむように、どこか誇らしげに語る。その様子から前任者は本当にいい人であったことが伺える。後ろからでは彼女の表情はわからないが、きっとその顔は思い出に舌鼓を打っている表情なのだろう。
「いい方だったんですね」
「ああ、だからお前はある意味目立つぞ、あの爺さんの後任なんだから。うちの博物館で爺さんを知らない人は、いや爺さんに怒鳴られた事がない人は居ないか、ククッ」
「は、はい。頑張らせていただきます」
俺はかけられた期待に応えるように精一杯の誠意を込めて返事をする。
「威勢はいいようだな、期待しとくぜ」
ちらっと振り返った彼女はニッと歯を見せて俺に微笑んだ。
うっ……
今までの見てきた彼女のグレたヤンキーのような言葉遣いや態度を見ても、今の笑顔は俺の心わしづかみにするには十分な破壊力だった。
「それで、お前、丹藤だっけ? 専攻は何だ?」
「は、はい! 専攻? ですか」
大学での学部の話をしているのだろうか? 思い出話って事か……な。
「専攻は流体力学でした!」
「流体系か、珍しいな」
「そうですね、そうかもしれません」
博物館に就職する人は文系の人が多いのだろう、イメージだが俺のような理系の奴がいるイメージが想像つかない。
「ま、ここでは専攻なんて何の意味もないから、気にすんな。必要なのはやる気と根性だってな! これは爺さんの受け売りなんだけど」
「そうですか! 精一杯がんばります」
学歴による差別がないってことか、助かる。前の職場は有名大学同士の派閥があって人間関係大変だったから助かる。必要なのはやる気と根性、おし! 頑張るぞ!
「おし、着いたぞ」
そうこうしているうちに彼女が立ち止まった。彼女の前にある扉の前の表札には、確かに館長室と書いてあった。
後半は彼女と話していたから気にならなかったが、だいぶ入り口から遠くにあるんだな館長室、別館とかなのかな。
緊張とバックヤードの閉鎖間から俺はもうすでにここが地上何階であるかもわからなくなっていた。
「はい、ありがとうございました。あのーすみませんが、お名前をお聞きしも」
「ああ、まだ名乗ってなかったな、あたしの名前は紙吹雪美香。展示の担当は生物だ。よろしく」
彼女は俺のに向き返り、左手を差し出してくる。俺はその手を握り返す。
に、日本人だったんだぁ、やっぱり。
「よろしくお願いします。丹藤大地です!」
「おうよ、よろしくな丹藤。じゃあ行くか」
「えっ」
握手を交わし終わった彼女は、館長の扉をノックもせずに開けてずかずかと館長室の中へ入っていく。
「箱舟館長ー、連れてきたぞ―ジジイの後任」
「えっ。あっ!!」
俺の脳内の予定では、彼女つまり紙吹雪さんと別れて、一度身だしなみチェックしてから館長室へ入室をする予定だった。
俺は今日この時のために『誰でも絶対に採用される面接マニュアル』を熟読してきたと言っても過言ではなかったのに。あまつさえ彼女はノックもなしに扉を開けて、先に中に入ってしまった。道案内をしてきてくれた女性が先に面接会場に入るなんて、そんなのは俺の勉強してきたマニュアルには無かった。
はっ……!
彼女開いた扉から館長室の中に居た、ジャケットを着ている少し頭がきている中肉中背の男性と目が合ってしまう。
「よ、よろしくお願いいたします。あ、丹藤です!」
条件反射で俺は最敬礼をする。
まずったぁ……入室に失敗したぁ、やばい、名前も苗字しか言ってねぇよ。マニュアルには『入室ができない人はまず採用されない』ってたしか……終わった。
「ああ、君が丹藤くんね、話は左ちゃんから伺ってるよ、入ってきていいよ。こっちで話をしようよ」
頭を下げている俺に物腰柔らかな声が届く。
「あ、はい! 失礼します!」
こ、ここからは、で、できる限り、マニュアル通りに。
頭を上げて館長室に入ると、まさかの俺が座る予定のらしき3人掛けのソファには、先に紙吹雪さんが足を組んで座っていた。
なんで座ってるののおおお。というかお茶飲んでるうううう。足組んでるし、なんでこの人も俺の面接に居るのぉ!? こんなの面接マニュアルになかったんだけどおおおおおお、どうする、どうする!?
「お、どうしたよ、丹藤。そんなとこで突っ立ってないで、早く座りな」
俺が館長室の入り口で動けないでいると、彼女は自身の隣に座るように、バン!バン!とソファのクッションを叩いた。
「え!? え!? え!?」
「ああ、丹藤くん適当に座って、座って」
館長らしき中肉中背の男性は書類を探しているのか、自身のデスクをあさりながら俺にそう告げた。
「あ、はい! 失礼いたします!」
椅子に座っただけだが、俺はやっとそこだけはマニュアル通りの行動をすることができた。
そして館長さんは、テーブルを挟んだ向かい側の三人掛けのソファにドスッと腰を下ろした。
ま、まずは志望動機か、自己紹介か! どっちも来い!
彼はこの半年間で培った、どの企業にも使える志望動機と自己紹介を披露しようと息を吞む。
しかし館長さんの視線は俺の方ではなく、俺の隣でテーブルの上のお菓子に手を伸ばしていた紙吹雪さんに向けられた。
「紙吹雪くん、丹藤くんを連れてきてありがとう」
あれぇぇぇっぇ、俺の面接じゃないのぉおおお?
「それは、別にいいけどよぉ、東の要しっかりしたほうがいいんじゃねぇの? 先月はウチが迷惑かけたが、先々月も同じような事があったよなぁ」
「そうだねぇ。この前の事件の時に、神宮寺くんに調整してもらったんだけどねぇ」
ナンデ!? ナンデ!? 俺を置いてこの人たちはトークしちゃってるの? で、でも、あれかな業務で必要な話かもしれないし、すこし黙っていようか。
「わることいわねぇから。早く予算かけて神道系のプロ一回呼んで調整してもらってくれよ。神宮寺の調整が悪いとは言わないけど、あいつの専門は神霊だろ、完全に専攻が違うぜ館長」
ついには館長さんもテーブルの上にあるお菓子を食べ始めた。もう面接という雰囲気ではない。
「やっぱりダメかぁ。すこしは騙せると思ったんだけどねぇ。東の要の調整予算は窯口さんに相談しておくよ。なるはやで修理の依頼を頼んでおくよ」
「頼んだぜ、博物館は開いてて意味があるんだからよ」
紙吹雪さんは館長とも話す時もその態度を変えない。父親以上は年齢が離れている様に見えるが、彼女の態度は、それこそ本当に父親に話しているような態度だ。
あ、あれかな上と下の距離感が近いのかな。
「そうだったねぇ、それも天出さんの口癖だったねぇ。それで美香くん。今日のアレと『叫び』の搬入はどうだい、順調に終わったかい?」
「ああ、アレの方は今のところは大人しくはなった。今は大吾に様子を見させてる。あたしもこれが終わったら合流して、調整に入るよっと」
紙吹雪さんは、少し離れたゴミ箱に食べたお菓子の包み紙のごみをシュートする。
「『叫び』に関しては所詮は模写だよ。本物じゃないし特に大きい問題は無かった。つうか、なんで『叫び』まで生物班が搬入しなきゃいけんねぇんだよ。絵画の専門は天狗鳥だろう」
「まあまあ、そう言わずにね。仕方ないじゃないか、模写とも言っても相手はムンクの『叫び』なんだよ、万が一に備えて君にいてもらいたいんだ。それに『叫び』も広義的に捉えれば紙と捉える事ができる、君の系統だろう?」
「昨年新しく入った円中坂っつ奴がいるだろうに。アイツも似たような同じだろ」
紙? 神? 何を言っているんだ、系統? それに今、ムンクの『叫び』って聞こえた気がするんだが。
「君の系統でプロフェッショナルは、うちでは君だけなんだから。円中坂くんには身が重いよ。模写とはいえ何かあったら大変だしね、まあまあ良いじゃないか」
「あ、あの! 『叫び』というのは、ムンクの『叫び』ですか」
館長と彼女で俺が居ないものとして、話が進んでしまっているので、俺は唯一知っている聞こえた単語で、会話に割り込んだ。
「あ、ごめんね丹藤くん置いてきぼりで、君も流石に知ってるよねムンクの『叫び』。紙吹雪くん達に今日搬入して貰ってねぇ」
「そうなんですか! 僕実物初めて見るかも知れません!」
「流石に本物じゃないよ。模写だよ、模写。なんか知り合いの所が手に余るってね、くれたの」
くれたって、模写にしてもそんなに気軽に扱っていいものなのか?
「管理しきれず押し付けられたの間違いだろう」
紙吹雪さんは、ぶっきらぼうにそう吐き捨てた。
「まあまあそんなこと言わずに、博物館同士はもちづ持たれずなんだから」
その時、館長室に一人の男性職員が駆け込んでくる。
「紙吹雪さん!!! やっぱりここに居た! よかったぁ!」
「どうした田中」
紙吹雪さんはスッと立ち上がり、またさっきの一度見た真剣な顔つきになりしゃべるトーンも変わった。まるで別人だ。
「か、紙吹雪さん、フェ、フェイ達が! また」
「チッ またかよ。今行く。お前は、関係各所に連絡して、生物層の隔壁閉鎖申請出しとけ、今日搬入したアレは!」
「そ、それは大吾さんがなんとか、でもだから俺達じゃ、フェイ達を抑えられなくって!」
「わかった、じゃあな丹藤、期待しせるぜ!」
彼女は俺にサムズアップしてからそう言い残し、館長には挨拶もしないで走り去っていった。
俺はその姿に唖然とする。
「それで丹藤くん」
館長に名前を呼ばれ、一瞬で俺は我に返る。
や、やば面接中じゃん俺! 紙吹雪さんに気を取られ過ぎて忘れてた!
俺はマニュアル通りに背筋を伸ばして元気に返事をする。
「はい!」
「あ、一応自己紹介しとくね。僕はここの館長をしてる箱舟です。ごめんね名刺は切らしちゃったみたいだわ、あはは。まあいいよねどうせ採用だし」
箱舟館長はにこやかに薄い頭を搔きながら笑う。
「そ、そうですか。箱舟館長ですね、よろしくお願いいたします」
い、今、どうせ採用って!?
「そうそう、みんなそう呼んでるから丹藤くんもそう呼んでよ」
「はい! そう呼ばさせていただきます!」
さぁ、今度こそ、次の質問は何だ! なんでも来てくれよ館長! 志望動機か!? 学生時代頑張ったことか!?
「そうそれで、採用通知の封筒は持ってきてるかい?」
「え!? あ、はい! 持ってきています」
俺はビジネスバッグの中からクリアファイルを取り出し、それに挟んでいたボロボロの洋封筒と採用通知を取り出して、箱舟館長に手渡しした。
「おお、これが、これは、これは……だいぶ、ボロボロになってるねぇ」
箱舟館長は採用通知をそのまま机の上に置き、両手で大事そうに洋封筒持ち上げ、天井の明かりに透かすように持ち上げて眺める。
「え!? あ、あのそれは……さ、最初からでして、僕の手元に届いた時には……」
え、もしかしてこれは何かの試験だったってことか!? 博物館だし古い物を大切に……とかか? やべぇよ、クリアファイルに挟んでたけど、結構雑に扱っちゃったぞ……。というか受付の美人のお姉さんもそうだけ、なんで採用通知じゃなくて、封筒を見ているんだ?
箱舟館長は俺の言い訳なんて聞いていないのか、こちらを気にしない様子で洋封筒を未だに眺めている。
洋封筒を取り扱う箱舟館長のその手は、非常に丁寧でやさしく、それこそ美術館品を扱うようだ。
「いやー、左ちゃんから話を聞いた時には耳を疑ったよぉ、でも本当なんだね、僕も初めて見たよ。『時間逆行郵便』」
ん? なに? 時間? 何って言ったんだ箱舟館長は。
「それもこれは八十年以上か。いやー博物館の館長やってみるもんだねぇ。エンバーゴの奇跡の実物を見れるなんでねぇ。いやーこれは死ぬまで自慢できるよぉ、ありがとう丹藤くん」
ん? 箱舟館長は採用通知の入っていた洋封筒を大絶賛している。さらにはお礼も言われた。おかしくないか、その洋封筒は箱舟館長が送ってきたものじゃないのか? そんなに貴重な物なのかその封筒は。
「いや、あのー、その手紙というか、採用通知は館長が僕に送ってくれたものですよね?」
「もちろんそうさ、ウチの館長が君へ送ったものだよ。このシーリングワックススタンプはウチの館長しか持っていない一品物だからね、ほらこれでしょ」
館長は自身の指にはめている豪勢な飾りがついているシーリングワックススタンプを見せてくれた。たしかに、そのスタンプには封蠟と同じ印が刻まれているな。
「まあこれは、うちへの紹介状みたいなもんだよ。誰かは知らないけど、天出さんの後任として君を推してくれたってことだろうよ。ほらこの文章を書いてくれた人だと思うよ……たぶん」
館長は採用通知書の裏面に書いてあった達筆で書いてあった直筆の文章を指さす。
「は、はぁ」
な、何言ってるんだ、ここの館長は貴方じゃないのか? じゃあこの文章を書いたのも箱舟館長じゃないのか? ま、まあ、働けるならなんでも良いか。
箱舟館長は今度は、可愛い丸字の方を指でなぞる。
「お、こっちの文章は彼女だねぇ……ここに書いてある、クグロフは買ってきたかい?」
「え、あ。はい! 買ってきました!」
よかったぁー、やっぱり試験じゃねぇかよ。あぶねぇー。
俺はビジネスバッグに入ったビニールの袋に詰められたクグロフを取り出し、館長へ見せる。
「なら、大丈夫そうだね。……それでぇ、丹藤くん。ウチとしては明日からでも来て欲しいんだけど、大丈夫そうかなぁ」
「はい!!! はい! 不肖、丹藤大地粉骨砕身の覚悟で頑張らせていただきます!! よろしくお願いいたします!!」
俺は立ち上がり箱舟館長へ体を九十度曲げたお辞儀をした。
やったぁ、内定だぁぁぁ。なんか出会った博物館の人はみんないい人ぽいし、今度こそ頑張るぞぉ、俺はここに骨を埋めるんだぁ!!
「こちらこそよろしくね、丹藤くん。給料とかめんどくさい書類は明日来る時までに用意しておくね……それとぉ……この封筒はこちらで預かっていいかな? もう使えないんけど、これはこれで価値のあるものだから、一応……博物館としても買い取りって形で預かりたいんだけど……どうかなぁ」
俺は考えもなしに立ち上がり頭を下げたので、座るタイミングをなくし、頭を下げたまま応答をした。
「え、あ、はい、というかそれは元々館長の物なので、お金はいただけません。お返しします」
その洋封筒がどれだけ大切な物かは知らないけど、正直ボロボロだし俺はいらない。元々は館長が送ってきてくれたものだから、返すのは筋ってもんだ。
「え!? それは本当かい。それは寄贈ってことかい!? 」
箱舟館長のしゃべるトーンが2段階くらい上がる。頭を下げていてわからないが非常に興奮しているのがわかる。
「いやー、本当に助かっちゃうなぁ、でも本当にいいの? 使用済みとはいっても、エンバーゴの奇跡のだよ? 流石にこれでも10か20くらいはしちゃうんだけど……」
10? 20、20円って事か? いらんいらん、流石に使用済みの封筒を20円で売るとか流石に意味不明すぎる。ワンちゃん20万円でも俺は流石に受け取れない……受け取……りたいけど! ここでこれから働くんだこれくらいは、我慢しよう。館長にいい印象を付けるのも必要だ!
「ええ、大丈夫です、博物館に寄贈いたします」
俺はやっと下げていた頭を起こした。しかし座るタイミングを逃して今度は俺だけ立ってる変な状況になる。
「いやー、すっごく、すっごく助かっちゃうなー、これで時間の目玉展示品が一つ増えたよぉ、担当の長針さんもすっごく喜ぶと思うよぉ、いやー本当ありがとう」
館長は立ち上がり俺の両手をがっちりつかんで、熱い握手をしてくれた。箱舟館長の顔はとてつもない笑顔だ。
「いや、こちらこそ。改めて、よろしくお願いいたします」
「いやー、よろしくねぇー丹藤くん」
館長は俺との握手をし終わった後、自分のデスクへ移動しながら声をかけて来る。
「丹藤くんがよければなんだけど、これから担当する展示品見に行かないかい? 『彼女』にも面通ししておきたいからさぁ」
「は、はい! よろしくお願いいたします」
館長直々に博物館の案内なんてすっごくこれは貴重な体験をできるのではないのか。
それに前任者の天出さん?という方はいらっしゃらないのであれば、展示品についてもあれこれ聞きたいし。
「またまた助かっちゃうなー、じゃあ着いてきてよ」
箱舟館長はデスクからガキの束を取り出して、扉を指さした。
「はい! よろしくお願いいたします」
俺は今度は箱舟館長の後ろに続いた。
行きに紙吹雪さんと通った道とは、違った道を右へ左へ、博物館のバックヤードを練り歩く。
勢いでここまで来たが、俺は重要なことを箱舟館長に伝えていないことを思い出し、確認のため歩きながらだが、話しかけることにした。
「あ、あのー。箱舟館長」
「なんだい、丹藤くん」
館長は俺の前を歩いたまま返事をしてくれる。
「俺あんまりその……美術品とか詳しくないんですけど、勤まりますかね……」
面接のときに言う予定だったんだけど、ごめんなさい!
チキンな俺は心の中で誤った。
「ああ。良いの良いの。そんなに難しい事はない展示品たちだから大丈夫よ」
「は、はあ」
「あれだよ、お客さんが来たらニコってしとけばそれで良いよ、紙吹雪くんみたいに実動を要する展示物は無いし、フロア全体も静かなもんだよ」
「は、はあ」
それで天下の国博の学芸員が良いのだろうか、実動ってなんだ。あ、でも確か生物とか言ってたな紙吹雪さん。
「展示物については追々詳しくなってくれば良いよ、それにね。今はほらデジタルってやつでしょ。音声が勝手に流れてくれるあれ」
「ええ、最近よく聞くようになりましたね、音声ガイドですよね」
デジタルって表現は正しくはない気がするが。
「あれが有るから大丈夫よ、むしろあれの方が今は儲かるらしいから、ツアーとかじゃない限りもう直接展示物を紹介することなんてないんじゃないかなぁ」
「わ、わかりました」
「まあ展示物の資料は明日あげるから、読んどいてくらいかな」
「あ、はい」
あ、明日から勉強だな。
この際にもう一個気になっていたことも聞いてしまおう。
「……それと前任者の方なんですけど」
「ああ、なんだい、丹藤くんは天出さんと知り合いかい?」
「いえ、知り合いとかではないんですが、さっきからちょくちょく話が出てきていたので、80歳後半の方だったとか」
「天出さんねぇ、すごい人だったんだよぉ。いやぁ僕が子供のころにはもうここで働いてたっていうんだから、凄いよねぇ。僕も昔あの人の博物館見学ツアー参加したことあるんだよぉ」
やっぱりいい意味でもすごい人だったんだ。館長の声も紙吹雪さんと同じでどこか優しい。
なら聞かなくては、この胸につっかえている小骨を。
「……亡くなられたんですか」
前任者ってことは、辞めたって事だろうし、80後半って話だし――
「いんや、普通に退職だよ。今でもご健在、でもね三年前からぎっくり腰でねぇ。でも人に頼るのは嫌いな人だったから、紙吹雪君の強い推しもあって、余生を楽しむってことでお辞めになったよ」
「ほっ……よかった」
「ん? どしたの丹藤くん」
「いや、実はさっき受付で、紙吹雪さんはその人にお世話になってるって聞いて、受付のお姉さんも親孝行だーって、言ってたので」
「ああ、紙吹雪くんは小さい頃からうちの博物館のファンだったからねぇ、本当に小さい頃から。天出さんは彼女にとっての二人目の父親でみたいなもんだったんだよ。天出さんの博物館見学ツアーの最多参加者は間違えなく彼女だし、正式にウチの一員になってからでも、彼女は天出さんを師と仰いでいた」
「えっ」
「働く二人は本当に親子のようだったよ。いっつも喧嘩してたけどねぇ、『あの展示品はそう扱うんじゃない』『ここの展示フロアに合ってない』お客さんの前ではやらなかったけど、バックヤードでは毎日怒号が飛び交ってたよ、もう名物だったねぇ」
「ほ、本当に仲がよろしかったんですね、天出と紙吹雪さんは」
「本当にねぇ。今でもウチの展示物の半数ほどは、天出さんの貴重な知識を彼女が全部引き継いでくれたおかげでなんとかやっていけてるのよ。彼女の博物館ツアーは即日完売のウチ人気商品なんだよ」
え、嘘。ちょっとすごい人だとは思ってたけど、紙吹雪さんめちゃくちゃ優秀な人じゃん。ただのヤンキーじゃないんだ、やっぱり。あの服装からバイトなんじゃないかって思ってたよ少し。
「へ、へぇー、そうなんですね」
「でも、口の悪さまでは引き継がなくてよかったんだけどねー、はっはっはー」
ああ、そういうことか彼女の口の悪さはその人譲りってことか。
「そういえば丹藤くん、専攻はなんだい?」
また聞いてきた。そこまで大学が大事なのかこの職場は。
「流体です」
「ああ、流体系なんだ。そうかそうか、珍しいね」
「ええ、紙吹雪さんにもそう言われました、そういえば、まだお聞きしてないですけど、僕担当する展示のコーナーはどんなところなんですか?」
紙吹雪さんは生物と言っていた、あと絵画もあるって言ってたな。絵画は博物館じゃなくて、美術館じゃないのか。
「君の担当は、切断だよ」
切断? 今、切断って言ったか箱舟館長。
「せ、切断って」
「え? 君ウチに来た事ないの?」
「え、ええすいません。15年前か、それより小さいときに来たのが最後で申し訳ないです、不勉強者で申し訳ございません」
「まあマイナーカテゴリーだからね切断。小さい子はあんまり興味ないよね、紙吹雪くんの特殊生物や渡辺くんの絵画、あと長針くんの時間あたりが人気だからねウチは」
「あ、はい」
特殊生物ってなんだ? 寄生虫みたいなものか? それか爬虫類か? あとまた時間って言ったな、時計の展示ブースでもあるのだろうか。
「でもウチの切断はそれなりに有名だと思ったんだけどなぁ。あ、ついたよここ」
箱舟館長は大きな鉄の扉の前で止まる。持っていたカギをシリンダーに回し中に入れてくれた。
展示ブースに入った最初の感想は広いだった。今まで通っていたバックヤードと違い、入った展示ブースは途轍もなく広い部屋であった。部屋というか通路というのが正しいのか。ブース全体は黒色で統一されており、床も壁も天井も黒色、アクセントとして赤色のラインが壁の一部や展示物の台には入っていた。
「すっごく広いですね」
「天井までの高さは15メートル、ここから反対側の壁までは100メートルほどかなぁ。廊下と連結している入り口は三ヶ所。真ん中に『彼女』への特別展示の通路があるよ」
俺から見えているこの黒い廊下のような展示ブースには確かに三ヶ所廊下の光が差し込んでいるのが見える。あそこが廊下への通路なのだろう。
展示品の中にはスポットライトが当てられ、ガラスのケースに入れられている物もあれば、宝石店の様なガラスのケースに入れられているもの、壁に埋め込み式のガラス張りのケースに入っているなど、展示品の展示方法は普通の博物館と変わらなかった。
少し身構えていたが、恐竜の骨のような、なにか凝った作りで展示されている物は見当たらなかった。
「廊下から見てみる? うちは廊下も自慢なんだよ」
俺はそのまま箱舟館長についていき、一度展示ブースから、廊下へ出る。
「……うわっ、すっご」
「でしょぉ、掃除がめんどくさいのが難点なんだけどねぇ」
廊下は展示ブースとは真逆で真っ白の空間であった。白い壁、床は大理石であることがわかる。天井までの高さは20メートル以上はあり、天井の形はアーチ状で、凝ったレリーフが彫られている。左右を見渡してみるが、どこまでこの通路は続いてるのだろうか、左右の見える壁までは100メートル以上はある。壁面には絵画や、案内表示の看板が見える。
「廊下の向こう側の展示ブースは、今閉鎖中だからこの一帯はここ専用みたいなもんだよ、廊下に何か展示したいとか、アイディアがあったら言ってね」
指を差されて向こうの壁までは、40メートルはあるだろうか、向こう側の壁にもここと同じように展示ブースへの入り口のようなものが見える。
「は、はい!」
「まあ、廊下はこんなもんかな、じゃあ戻ろうか、何か気になるのがあったら聞いてよ、僕もこれでも館長だから、紙吹雪くん程ではないけど解説はできるよ」
「はい!」
俺は箱舟館長を追いながら、切断のブース展示物へ戻り、展示品の間を歩いていく。
ブースに入ってとりあえず一番手前にある、展示品のプレートを読んでみる。
ガラスのケースに入っているのは一本の錆びついたナイフだった。
えっーと、なになに、『カノニカル・ファイブ・ジョージ・ヤード』なんだこれ、全然わからない。
説明はっと…………1888年にイギリス・ロンドンのホワイトチャペルのジョージ・ヤードで使われた、ジャック・ザ・リッパーのナイフ!?
「ジャック・ザ・リッパー!?」
その単語に思わず声が出てしまう。
「ん? どうかしたかい丹藤くん」
「あ、あのこのナイフが、ジャック・ザ・リッパーのナイフって……」
凄い歴史的な物なんじゃないのか、これは。それに説明文を読み進めると、実際に使われた物らしいし。
「ああ。ジャックのナイフね。それはウチにしては珍しい本物だね」
「え? え? すげぇ、あのジャック・ザ・リッパーの実際のナイフだなんて!」
切り裂きジャックなんて、今じゃゲームでしか聞いたこともない名前だけど、そうなんだよな実在はしたんだよなぁ、それにしてもすげぇものだな、どうやって本物ってわかったんだ。
「世界中に5本あるうちの1本だけど、何か付与されてるわけじゃないし、タダの古いナイフだよ、それ、そんなに珍しい? 教科書にものらないマイナー展示品だよ」
「え、ジャック・ザ・リッパーがマイナー?」
「正直数合わせだよねぇ、同じ時代の品でも、これが『2本の切ったひまわりを切断したナイフ』か『ゴッホの耳を切り落としたナイフ』だったらもうちょっと、ウチの切断も盛り上がるんだろうけどねぇ」
「ゴッホって、『ひまわり』でしたっけ? あの画家のゴッホですか」
ゴッホもさすがに聞いたことがある。『ひまわり』って聞いて、思い出しただけど。でも耳? 耳を切り落としたナイフ? て言ったか。
「そうフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ、彼の『ひまわり』は有名だからね、流石に知ってるよねぇ。僕も文献で読んだけど『ひまわり』は当時から大変だったみたいだね、イギリス全土を全てひまわり畑に変えそうになったって、話だし」
「は、はあ」
話が全然わからん。埋め尽くすってブーム的な何かか?
「今より絵画分野の技術が進歩していなかったってのが大きいんだろうけど、世界は一度彼に滅ぼされっけたと思うとゾッとするねぇ。このナイフだって彼の『ひまわり』を切断したあのナイフだったらーって思うよ。2次元空間から対象を切断し、切り取ることができるなんて、一度は拝んでみたいものだよ」
「は、はあ」
ダメだ、言ってる事がいっちゃんわからん。箱舟館長の悔しい思いというか、このナイフに文句がある事しかわからん。このままだと俺が全然美術品に詳しくないのがバレる! わ、話題を変えないと!
俺は目に入った、隣の展示の和槍を指差した。
「あ、こ、この槍いいですねぇ」
俺は展示品の作品紹介プレートの名前をチラ見して、話を作る。
「……『蜻蛉切』ですか」
「そう、天下三名槍の1本、三河文珠派の刀工・藤原正真の作った伝説の槍だね。かの徳川四天王が一人、本多忠勝が愛用したことで知らる名槍、穂先に止まった蜻蛉が切断された事からその名前が与えられた――」
さ、流石は館長だ。俺が読み進めている作品紹介プレートを空で読み上げている。
「『御手杵』は戦争で、焼失しちゃったからねぇ、実にもった得ない事だったぁ。『蜻蛉切』は同じ三名槍の『御手杵』、『日本号』と違って、対象が狭いからね、蜻蛉と認識したものしか切れない。いかんせん不便だから戦争にも持ち出されずに済んだからよかったと思うべきなのかなぁ。まあ今のご時世刃物より銃の方が人を殺すには効率的だしねぇ」
「あ、あはは、そうですよねー」
そりゃぁ、銃と槍を比べたら銃が勝つだろう。
「まぁ、未だ兵器として使われる『日本号』と違って、『蜻蛉切』は幸運なのかもねぇ。兵器として使われるくらいなら、こうやって美術品とされた方が良いと私は思うし」
箱舟館長は、『蜻蛉切』が展示されているガラス張りに手を当て、『蜻蛉切』を我が子のように慈しむ目で見ていた。
や、やばい。また箱舟館長が語り始めちゃった。とりあえず会話をすり替えながら、続けるように努力しなくては。
「もしかして切断って言うのは、歴史上で価値のある刃物のコーナーのことなんですか?」
「んー、まあ、『彼女』居るからそうとも言えるけど、もっと手広くやってる展示だよ、えーっとねぇ」
そう言って『蜻蛉切』から興味が離れた館長は、さらに奥に進んでいく。俺もその後に続く。
館長はさらに展示ブースを少し進んだところにある、一つの展示物の前で立ち止まる。
「ほら、これなんか少し特殊だけど切断だよ」
箱舟館長が紹介してくれたガラスケースには、鼓動をする真っ赤な人間の心臓らしきものが展示されている。
「し、心臓? ですかこれ」
正直グロい。なぜかガラスケースの中にある心臓は血管どこにも繋がっていないのに鼓動をしている。
「そう『ペーノ・パイプラインの生きた心臓』」
「えっ!?」
「人体を生きたまま切断し、肉体にそれを認識させない、いやー本当にすごいよねぇ。まあ本当にすごいのは未だにこの心臓を鼓動させている魔法なのかもしれないけど」
いきなり箱舟館長は何を言ってるんだ、魔法? それにこんな悪趣味というかグロイ展示物を、今まで歴史的にすごい物よりって。
「こ、これって、本物じゃないですよね」
心臓が鼓動し続けているなんて、ありえるわけがない。なにかジョークグッズ的な奴か? どうせ心臓のレプリカかなんかの何にモーターでも入れて、動いているんだろ。
「おお、よく気づいたねぇ」
「そんなの流石に気づきますよ」
流石に天下の国博の展示物にしてはジョークが過ぎますよ。
「本物は二十年前にちょっと事件があって紛失しちゃったんだよね、あ、これはオフレコでよろしくね。今でもこれ本物として展示してるからさ。たぶん『彼女』が気に食わなくて殺しちゃったんだと思うんだけど……」
本物? もう駄目だ、本当に何を言っているかわからん。
箱舟館長はさらに、展示ブースの奥へ奥へ歩みを進める。
恐らく箱舟館長は、あの奥に見える通路? 特別展示って言ってたかな、あそこに向かっているのだろう。あそこには一体何が展示されてるんだ?
今度は特別展示の通路の近く、壁に埋め込まれた大きなガラスケースの前で箱舟館長が立ち止まる。
ガラスケース内の広さは縦3メートル、横は10メートル、奥行きも2メートルほどはある。
「ああ、コレなら君も知ってるんじゃないかな、数術学の教科書にも載ってるし。『彼女』を除けばウチの切断の中じゃエースだよ」
箱舟館長が自慢げにガラスケースに向けて手を広げるが、そのガラスケースの中にはなにも展示されていない。いや正確にはガラスケースの中には1メートル四方のガラスケースが鎮座している。しかしその中には何も入っていない。
「あれ? これも知らないの?」
リアクションのない俺に箱舟館長は驚き振り返る。
「ええ、すいません…………不勉強で」
これは何かの展示物なのか? やべぇよ 何もわからねぇよ。家に帰ったらこれは猛勉強しなきゃ、マジでまずいな。
「『微細に切断された数_No67』だよ、そりゃNo.1やNo.7に比べれば有名じゃないけど、No.67も有名だと思うんだけどなぁ」
微細に切断された数? また箱舟館長は何を、また俺の理解が及ばない芸術のことのことか。
「ええ!? 本当に知らないのぉ! なのに『カノニカル・ファイブ・ジョージ・ヤード』なんてマイナーなの知ってたねぇ」
「すいません」
俺はもう謝ることしかできない。展示品の紹介プレートに目を向ける。
えーっと、なになに。魔法界の数術学の父、アブトラヒ・C・ベルトの最高傑作『微細に切断された数』シリーズの67番。箱の中には微細に切断された67という数字の概念が保管されている。箱の中では67という数字は存在する事が出来ず、67は崩壊し、67以外の存在になるか、消滅をしてしまう、だと。
何をいってるんだ、魔法? またジョークグッツか? 嘘だろ、意味不明過ぎないか、数の概念ってなんだよ。
俺は一応、説明に従い、ガラスケースの中の透明な箱の見つめた。
しかし目を凝らしても見たが、何も見えない。
「ま、僕達には見えないんだけどねぇ」
「え?」
「僕らでも現象は確認はできるんだけど、有史以来、数を視認できる人は天才アブトラヒ・C・ベルトだけだったからねぇ。我々凡夫には見ることのできない至高の芸術品だよ」
「ええ?」
なんだそれ、裸の王様って事か? 俺たちに見えないってそれはもう、なんでもありじゃん。じゃあこれただの箱じゃん。箱舟館長人が良さそうだし騙されてないか。
「なんでも本人の残した手記には数は異次元の色彩だったらしい、いやー見てみたいものだ」
「は、はぁ」
やばいよ、たぶんこれは館長詐欺られてるよ……大丈夫かなぁ。
そして俺たちは特別展示があるという通路の前にたどり着く。
目の前には漆黒の闇が広がっている。
「あ、あのーこれ……の先ですか?」
その通路のあまりの異常さに俺は、通路を指を差し箱舟館長に確認を取る。
正直に言うと怖い。壁が黒色であるから、正直どこまでが壁であるかさえもわからない。闇が俺を飲み込もうとしている錯覚に陥る。
「あれー、照明、切れてるわぁ。あれかな『彼女』が切ったのかなぁ」
「よ、よかった、この真っ暗な通路が展示物ですとか、だったらどうしようかと」
「そんなわけないじゃないかぁ、すこし照明の電源を入れるから、これでも持って先に入っててよ」
箱舟館長はどこからか、懐中電灯を取り出し、俺に渡してバックヤードに消えていった。
「えー、これ進むのかぁ」
情けない独り言が誰もいない展示ブースに響いた。
いくら懐中電灯があると言っても怖い物は怖い。しかしここで行かないのも何か違う気がする。
俺は意を決してその真っ暗な通路を懐中電灯片手に進んでいく。
足元を照らして進むが、床の色も黒色で正直進んでいるのかさえ分からなかった。
通路を10メートルほど歩いたくらいで、先ほどまで響いていた足音の反響音が変わり、大きな部屋に出たことがわかった。
「おっと」
足元を照らしていてよかった。俺の足元には、これ以上立ち入らないでくださいと警告表示張ってあった。その警告より先の床は赤く、暗がりでもこの先が展示物であることがわかった。
懐中電灯で周りを照らしてみると、その先の床もすべて赤色に綺麗に染まっていることがわかる。
暗いなぁ、そしてなんだろう、この広い部屋らしきところに入ってから強い鉄の匂い? がする。
そして、誰かに見られている様な気持ちの悪い感覚に襲われる。
「あ、あった。あった。このスイッチだ」
どこからか箱舟館長の声が聞こえ、その後ガコンっと、どこかでスイッチが入った聞こえた。
俺の目の前が真っ白になる。
「っつ、があぁ」
今まで暗闇にいた俺は、突然の強い光に目に痛みを感じて両腕手で顔をかばい、思わず立ちくらみをしてしまう。
チャプ、と踏み外した、左足の下から水溜りを踏みつけたような音がする。
水溜り?
「ああごめんごめん、丹藤くん」
目をつぶっているが背後から箱舟館長が来るのがわかる。
目も徐々に明るさにも慣れてきて、両目を瞬きしながらその部屋を視認する。
目を開いてまず飛び込んできたのは一面真っ赤な床であった。その広い部屋の床が全て綺麗な赤色に染まっている。
ここの展示ブースが黒を基調としてきたのは、この赤い床を強調するためだったのか。ん?
「あれが彼女『マリーアントワネットを処刑したのギロチン』だよ」
いつの間にか俺の横に居た、箱舟館長は誇らしげに手を広げ部屋を紹介する。
「マリーアントワネットなら俺も…………」
俺は明るくなった部屋の中を見渡す。
特別展示の部屋の形は目測で20メートルの四方の黒い正方形の部屋だ。展示のある底面は綺麗な赤色の床が広がっており、それ以外の5面はすべて黒色で統一されいる。そして部屋の真ん中にギロチンらしき、木製のやぐらが鎮座していた。
「へー、これが…………ん?」
俺から中央の木製のやぐらに目を凝らしてみると、目の端にありえないものが移る。平面のはずの赤色の床が波打っているのだ。それこそ水に何かを投げ込んだ水面の波紋のように。
「はっ!」
俺は自らの左足を見る。俺の足はその赤い床にめり込んでいた。
「う!、うわぁぁぁぁぁ!!!」
俺は急いで足を引き抜き、後ろに倒れ尻餅をついた。その部屋に充満する独特な鉄の匂いで、俺はその赤色の正体を理解する。
こ、これは血だ。赤色の床じゃない! 血が床一面に張られているんだ!
俺が勢いよく、足を引き抜いた事で、水面が激しく揺れ、俺の予想が正しい事がわかる。
「ああ、ダメだよ、踏み込んじゃ、『彼女』が怒るよ」
箱舟館長の態度は先ほどの美術館品紹介と何も変わらない。
「い、いやぁ。あ、あの!?」
血!? これ一面が血溜まりなのか!?
部屋の中央にあるギロチンに備え付けらている木製の桶のような所から、その血は流れ出ているように見える。
「あ、ああ、あのぉ! こ、これは、この血は、本物ですか!」
いくら部屋の中央に鎮座するあの茶色のお立ち台のようなオブジェが、箱舟館長の言った通り本当にあのマリー・アントワネットを処刑したギロチンであったとしても、この展示方法は不謹慎すぎるだろ。
「ああ、そうだよ。彼女の娘であるマリー・テレーズの毛髪とDNA鑑定をした結果、科学的に証明されてるよ。正真正銘の本物、この流れている血はマリー・アントワネット本人の物だ」
え!? 本人!?
「僕達には確認することはできないんんだけど、天出さんと『彼女』の話によると、あの血が湧き出ている木の桶の中には、未だに彼女の首が入ってるらしい、この血はそこから流れ出ているってことさ」
「く、首!?」
えっ、えっ、えっ、どいういうことだよ、え!?
俺が立ち上がれず混乱としていると、先ほど館長室であったように。一人の学芸員が息を切らして俺たちの元へ走りこんできた。
「か、館長! 緊急事態です!!!!」
「ん? なにかあったの」
「せ、生物層で、ワ、ワイルドハントが暴れています!! 至急、応援を!! 聖堂魔法教会へ緊急要請をお願いします!!!」
「なんだって!」
箱舟館長の声色でその出来事が非常事態という事だけはわかった。
「い、今、紙吹雪さんと、大吾さんが抑えていますが、いつまでもつか」
「神道系の神宮寺君たちのチームは!?」
「東の要の調整で外に出ているので、門が閉じているの今は、表からでは生物層まで行くに時間がかかってます!!」
「そうか、僕の門じゃ、裏にいないと繋がらないし……」
どうやら先ほどよりも深刻なトラブルが起きたらしい。二人の真剣な表情からその緊急性が伺えた。
すると箱舟館長は未だ床に座り込んでいる俺を見る。
「丹藤くん!」
「はい!!!」
「君は専攻は流体だったね!」
「はい!!そうです!!」
「今は神宮寺君たちが来るまで少しでも時間を稼ぎたい、手伝ってくれ!」
「はい!!」
手伝って何を!?
箱舟館長は懐から金色の豪華な装飾が彫られているカギを取り出した。
そいして、何もない虚空にそのカギのシリンダーがあるように平行に前に突き出し、左に回した。
ガコッンと、大きな音が鳴り、箱舟館長の前に金の装飾があしらわれている木製の扉がどこからともなく出現した。
ええ!? と、扉があ!!??
「さぁ行くよ、丹藤くん!!」
俺は箱舟館長に手を引かれ立ち上がり、そのままの勢いでその扉をくぐった。
扉をくぐるといつの間にか俺は、箱舟館長と共に白い広い空間に移動していた。
こ、ここは博物館の廊下!? い、いつ移動したんだ。
それに俺の視線の先には。黒い霧上の煙と蒼色と灰色の炎をまとった、体長10メートルはあろうか、巨大な狼が暴れていた。その足元には学芸員らしき人たちも居る。
「ぐあぁあああああああああああああああああ」
俺と館長の目の前に女性が吹き飛ばされてくる。
え!? え!? って
その女性には見覚えがある、燃えるような赤色の長髪に緑のアクセント、紙吹雪さんだ。
「紙吹雪さん!?」「紙吹雪くん!」
俺と箱舟館長の声が重なる。
「お、おう……つぅ……お早い登場助かりますよ、館長、神宮寺達に門を……」
彼女は肩から出血をしている、しかしその狼から目線を外さずに立ち上がり、後ろの俺達をかばうように前に立つ。
「こ、これはどういうことなんだい! 紙吹雪くん!」
「アレですよ館長、今日搬入した『ヘルハウンド』……あれが、『ワイルドハントの猟犬』だったんですよっ!! 彦星ッ!!!」
紙吹雪さんは『ワイルドハントの猟犬』と呼ばれた巨大な狼に何かを投げつけた。
赤くきれいな軌跡を出しながらそれは化け物に当たって爆発を起こした。
巨大な爆発が起きたことで、衝撃と音がこちらにまで響き渡る。
俺はその爆風に煽られて再び尻もちをついた。
化け物はこの世の生物とは思えない鳴き声を出し、広い廊下にその声が響き渡る。
「っ! やっぱり彦星じゃ全然傷がつけられないか、死霊相手には相性が悪い!!」
『ワイルドハントの猟犬』と呼ばれた化け物足元には未だに、多くの学芸員の人が居る。
それぞれが氷や炎、電撃をその手から放ち『ワイルドハントの猟犬』を攻撃している様に見える。
それこそロールプレイングゲームの攻撃呪文の様だった。
「……な、なんなんだ!! いったい!」
俺は目の前の現実を受け入れられない。
「緋色の紙吹雪くんでも、『ワイルドハントの猟犬』はキツイかい?」
「装備をしっかりとしていたら問題なかったんだが!! 相手の想定を間違えた! くそぉ! 今は手持ちがこれしかないぞ!」
そう叫ぶ彼女の両手にはいつの間にかそれぞれの手に、赤い折り紙が握られている。
「彦星の素材はこれで最後だ、あとはもうジリ貧、こんなことなら黄色と紫を持ってくるべきだった! クソォがああああ!!!」
彼女は文句を言いながら、片手だけでその手に持った折り紙を高速で織り込み折り鶴に形を変える。それぞれ片手で織り込んだ折り鶴を持ち、右手、左手とそれを『ワイルドハントの猟犬』へ投げつける。
「双彦星ッ!!!」
その両手から放たれた赤い軌跡は再び『ワイルドハントの猟犬』に当たり爆発を起こした。
しか『ワイルドハントの猟犬』の様子は変わらず、近くにいる学芸員の人たちをその爪で薙ぎ払う。
向こうから男性の悲痛な叫び声が聞こえる。
どうやら彼女の攻撃は化け物には有効打にはならなかったようだ。
「チッ…………だめか!」
そう吐き捨てた彼女の手には、どこからか取り出したのか20センチほどの大きさの、既に織り込まれた折り紙が握られていた。
「こんなところで使いたくなかったんだけどな! ごめんな、力を貸してくれケリュネイアッ!!!!!」
彼女の掲げた織り込まれた折り紙から大量の白色の折り紙が噴き出す。吹き出した折り紙達は一つの意思を持っているように、彼女の前に一つの形を取った。
牡鹿だ。ただし普通の牡鹿じゃない。体長は3メートル以上はあるだろう、額から突き出した二本の角は複雑に分岐し、まるで木の根っこのようだった。
彼女はケリュネイアと呼んだ折り紙で出来た牡鹿の背中に、飛び乗って俺たちの方を向く。
「丹藤、そこでぼさっと、座ってねぇで早くワイルドハントを足止めするの手伝えよ! お前は流体系の魔法使いだろ! 先行くぜ! はぁ!」
「ま、魔法!?」
折り紙で出来た手綱を叩きつけ、彼女は牡鹿と共に化け物に突撃していく。
俺は訳も分からず、その現状に指を差し館長に助けを求めた。
「あ、あれは…………ま、魔法なんですか?」
先ほど見たの2点の展示物の紹介プレート、目の前で広げられている巨大な狼と牡鹿の戦い、信じざる負えない状況が俺を襲っている。
「ああ、紙吹雪くんの魔法は特別だからねぇ、驚くのもわかるよ。彼女の専攻は念動力、あの魔法の正式名称は確か、念動力系特殊使役術式魔法『オリガミ』だったかな。彼女はありとあらゆる物体、存在を折り紙で再現し、使役操ることが出来るんだよ」
「あ、あれは、み、みんなあんな事がで、出来るんですか!」
紙吹雪さんは、折り紙で作った牡鹿に乗り巨大な狼の化け物と渡り合っている。そのほかにも、様々な人が光の光子を体から発散させながら、雷、炎を繰り出し、彼女の戦いのサポートしている様子が見える。
「いやいや、世界広しといえど『オリガミ』をあそこまで使いこなせるのは、彼女だけだよ。平安時代から長い歴史がある名家の折紙家の分家。紙吹雪家の一人娘。若干14歳で、日本国立魔法大学魔法特殊生物学を飛び級で卒業、18歳の時には念動力系特殊使役術式魔法『オリガミ』で神獣の再現に成功、その功績を認められ日本魔法協会から特例で『緋色』の称号を承った彼女にしかできない芸当だよ」
お、折り紙?? な、何を言っているんだ。
「丹藤!!! そっち行ったぞ!!!! 避けろ!!!」
えっ
紙吹雪さんが抑えていた化け物『ワイルドハントの猟犬』がこちらに猛スピードでこちらに突進してくる
「う、うわあああああああ」
俺は座った姿勢から横に転がり、化け物の突進を既の所で避ける。
化け物通った大理石の床が抉れており、一秒判断が遅れていれば死んでいたことがわかる。
「ひ、ひぃいぃいいいいぃいぃいいいい!!!」
「丹藤!!!!」「丹藤くん!!」
「え」
俺が顔を上げるとそこには、目の前に化け物の顔があった。
化け物と俺との距離は2メートルも無い。化け物が近くに来たことで、遠くからは気づかなかった独特の獣と血の匂い、そして燃える蒼い炎の熱さを肌に感じ、俺は足がすくんでしまう。
生物としての感が告げている。死だ、俺は死ぬんだ。
「丹藤!!!! ウォーターでもクレイクでも良いあいつの足を止めろ!!!!」
紙吹雪さんが俺に何かを叫んでいるが、俺には届かない。
化け物は俺の前で再び咆哮をする。廊下全体にそのバインドボイスは反響し、すべての動きを止める。
「くっ」
『ワイルドハントの猟犬』は大きな口から涎を垂らしながら、両目を血走らせている。体を低く構え、再び俺に突進をする構をする。嗅いだこともない悪臭に俺は既に恐怖の限界を迎える。
「あっ」
次の瞬間『ワイルドハントの猟犬』と俺の距離がゼロになる。
俺は死を悟り、目を瞑った。
「おいおい、お前様よ。ワシへ貢ぎ物を台無しにする気か」
目をつぶる俺は幼い女の子の声を聴いた。その後地面を揺らすほどの衝撃と、自身のすぐ左右に電車が通り過ぎたような巨大な物が通り過ぎた感覚と、何かの液体が激しく飛び散る音が聞こえた。
いくら身構えても想像した衝撃は来ず、俺はゆっくりと目を開いた。
「え」
俺の目の前にいるのは化け物ではなく、幼い女の子だった。
腰まで伸びる絹の様に細い白髪、雪のように白い肌、白いワンピースを着た身長140センチメートル程の女の子が俺の前に立っていた。
女の子は先ほどまで化け物がいた方向に向けて手を伸ばしており、その片手は手首まで真っ赤に染まっている。
女の子が俺の方に体ごと振り返る。彼女の視線は俺ではなく、俺のはるか後方に向けられている。
「まったくどこぞの犬かわからんが、行儀がなってないのぉ」
俺もその視線に釣られて後ろを振り向く。
「え、えええ!?」
俺と彼女が居た場所より少し前を起点に、俺の後方へV字に血の跡が伸びている。
まるで化け物は彼女にぶつかり半分に切断されたように。俺のはるか後方には『ワイルドハントの猟犬』が頭から縦に切断された死体が左右に転がっている。
綺麗な大理石の壁は化け物の臓物と血で赤い羽根のように血痕が付いていた。
「よもや、貢物をそのまま持っていってしまうとは、馬鹿かお主は、万死に値するのじゃ」
彼女は何事もなかったかのように俺に近づいてくる。そして俺のビジネスバッグを持ち上げ、その場にひっくり返す。
俺の足元にバックの中身がぶちまけられ、その中から彼女は俺が買ってきたビニールに包んであるクグロフを掴み、包装を開ける。
「はっ」
意識を取り戻した俺はやっと現状を理解する。
な、ななななんなんだ!?
俺はやっと周りの声を聴くことができる。
「彼女だ」「初めて見た私」「マリーだ」「マリー様だ」「マリーだ」
「あ、あの――」
俺が口を開いた瞬間にその言葉を紙吹雪さんが遮る。
「マリー!!! そいつはワイルドハントだ!! 切断したくらいじゃ死なねぇ!!!! まだ生きてるぞ」
「え」
俺は再び振り返ると、1つだった絶望はひと回り小さい二つの絶望に変化を遂げている。
「に、2匹になってる!?」
2匹の黒い獣は自分の血の道をそのまま逆走し、こちらに向かってくる。
「知っておるとも」
白い彼女は散歩でもするように、片手に持ったクグロフに噛り付きながら、俺の後ろに回る。
「全く、誰に物を言っておるんだ美香よ、ワシに殺せぬものはない。たとえそれが死霊であっても」
俺と彼女に向かってきた2匹の『ワイルドハントの猟犬』は俺達の1メートル手前で、全身から血を吹き出し、体が砂のように雲散霧消した。
「死霊であっても、生きてはいるのだ、現生との繋がりを切断してしまえば、この世にとどまる事はできんよ」
もう既に俺の理解を超越した現象が立て続けに起こり、俺は訳が分からなくなる。
目の前の白い彼女はクグロフを片手に、俺に振り返る
「全く、玄一の奴。後任者に無魔法能力者を連れてくるとは、何を考えておるのじゃ。まったく……まぁしかしお前さんの貢物のセンスは褒めてやろう。クグロフはワシの大好物じゃからのぉ! やはりパンよりケーキが一番じゃ」
白い彼女はもう一口手に持ったクグロフを噛り付き、俺に笑いかける。
限界まで来ていた俺の精神と意識はそこで途絶えた。
な、なんだ。
雑踏の中のような騒音で俺は意識を覚醒させる。
「――――――――――」「――――――――――――」「――――――――」
雑踏が何かを言っているが理解できない。
はっ! か、体が!
両手は後ろに縛られ、体が動かない。
ど、どこだ…………ここは。
意識がはっきりして、周りの景色を眺める。
俺はかなり高い位置に居る。多くの人たちが俺を見上げている。
しかしその人たちの服装はどこか古めかしく、顔立ちも日本人ではない。
見える街並みもヨーロッパ風だ。
首を動かしたときに首も動かないことがわかり、自分がどこにいるか理解する。
こ、ここはギ、ギロチンだ! 俺はギロチンにかけられているのか!!
がっ!!
特別展示室で見たあの木製の櫓の形を思い出した。
横にいた男に俺は頭を下向きに抑えられる。
いっつううぅ。
力強い力に頭を押さえられ痛みに顔をゆがめる。
ん?
視線の先に何かある。
明るい茶色の…………はっ!!
うあわあああああああああああああああああああああああああ
分かった、俺の目の前にあるこれは、人の生首だ。
ががあああああああああああああああああああああああああ
俺が叫んだ瞬間に、動くはずもないその生首がグルンっとこちらを振り向き、俺と視線が合った。
「うあああああああああああああああああああああああああ」
叫びながら俺は体を起こした。
「お、丹藤起きたぞー」
「へっ!?」
「あ、あれ!? さ、さっきのな、生首は!?」
「生首ィ? 何言ってんだお前」
「え!? はっ!」
俺は気づくと館長室に居た。さっき面接を受けたソファの上に寝っ転がって上半身だけ起こしている。
ソファの向こう側には紙吹雪さんと、箱舟館長、それに見たことのない黒髪の巫女服を着た女性が座っていた。
「え!? こ、ここは!」
体をひねりソファに座り直し体を彼女達に向ける。
「神宮寺、たぶん大丈夫だと思うけど見てやってくれ、呪われてると面倒だ」
「はい、わかりました」
紙吹雪さんに神宮寺と呼ばれた彼女は立ち上がり俺の隣に座る。
「丹藤様、こちらに体を向けていただいてよろしいでしょうか」
「あ、はい」
俺は彼女に言われた通りに上半身を彼女に向けた。
うっはっ。
神宮寺さんは巨乳だった。
彼女は俺の胸に手を伸ばして目をつぶる。彼女の体から光の光子が発生するという超常現象が起きているが俺の視線は彼女の腕につぶされ、変形をした彼女のおっぱいに釘付けだ。
「はい、異常無いみたいです。もう戻していただいて大丈夫ですよ。丹藤様」
「え!? あっはい! え!?」
い、いま何が!? 光ったぞ彼女、 彼女のおっぱいが光ったぞ!
「丹藤君」
「あ、はい!」
箱舟館長に名前を呼ばれ、俺はおっぱいワールドから抜け出す。
三人に向き変えると丁度神宮寺さんが、紙吹雪さんの隣に座った
大、小……。
俺がそんな不謹慎なことを思っていると、箱舟館長と紙吹雪さんは真剣な顔で俺に頭を下げた。
「丹藤様くんごめんぇ、まさか君が無魔法能力者だったなんて気づかなかったよ。本当にごめん」
「あたしもすまなかった、お前が爺の後任って聞いて、何も確認しなかった。巻き込んだすまねぇ」
「え」
巻き込んだって…………はぁ!
俺は冷静になり、今までのすべてのことを思い出す。あの廊下で見た黒い獣についてを。
「あ、あの化け物はい、一体! というかここは!?」
頭を上げた箱舟館長が片手で頭の裏をかきながら申し訳なさそうに俺を見る。
「あれはね『ワイルドハントの猟犬』、そしてここは国立魔法博物館だよ」
「国立……魔法?」
な、なにを。
「君には理解ができないかもしれないけど、魔法は実在するんだ」
「ま、魔法が!?」
俺は今日の出来事を思い返すと、その言葉を信じざる負えなかった。奇妙な展示物、あの廊下の出来事、それこそ10メートルを超える化け物に襲われたのだ。
「ま、魔法って存在したんですね、ゲームの世界だけかと」
「丹藤大地君、起きて、さっそくなんだけど大事な話がある聞いてくれるかい」
「は、はい!」
「君は今二つの道があるんだ」
丹藤館長はテーブルの上に一つの書類を差し出す。
「『魔法による記憶の消去と示談金の同意書』?」
俺は書類のタイトルをそのまま読み上げる。
「一つは今日見たすべての魔法に関する記憶を消去して、今までの現実に戻る事。無魔法能力者が偶発的に魔法を知ってしまった時と同じ処置を行う。通常であれば否応なしに記憶の消去が行われるのだが、今回は特例。国立博物館の館長並びに国立博物館特別動物層の主任が故意に無魔法能力者を巻き込んで、あまつさえ命の危機に晒した。もちろん記憶はなくなるが迷惑金としてお金を受け取り記憶を消させても貰いたいという物だ」
箱舟館長の説明に捕捉をするように、紙吹雪さんが説明を続ける。
「今日の出来事に関しては記憶の欠落が起きるが、数日すれば勝手に記憶が再構築されて何事もなく日常には戻れる。記憶を消してしまえばお金も黙っていられると思うが、流石に魔法も万能じゃない。強烈なトラウマなど精神的障害になるほどの記憶は取り除くことが難しい。今後の日常生活で支障をきたすかもしれないという意味も含めてのお金が払われる」
「今回は君が持ってきたクグロフによって、我々の被害は最低限で済んだ。命を落とす者もおらず、ほとんど軽症者のみだ。だから我々は誠意と感謝の念も込めて君にしっかりと経緯を話したんだ。神宮寺君、この場合は迷惑料は大体いくらになる?」
「通常の事件であれば2000万程度ですが、今回はお二人の立場もありますし、『マリー』様がいらっしゃらなかったら、最悪命を落とす状況もございました。状況を考慮すると7000万円ほどでしょうか」
「な、7000万円!?」
「まあ今回は巻き込んだのが僕と紙吹雪くんだからねぇ、恐らく紙吹雪家からもお金が出るんじゃないのか?」
「まだ兄貴に確認してねぇけど、あたしの懐から3000万は出せる」
「流石だねぇ」
「旧家はメンツで生きてるからな、今回の事件はもみ消すには多くの目に触れ過ぎた。あー、これから兄貴に電話するのきちぃー、あーつら」
7000万円足す3000万ってことは一億円ってことか!? すごいぞ、宝くじ1等に当たったようなもんじゃないか! やったぞこれで貧乏生活とはおさらばだ!
「そ、それでぇ」
そ、それはいくつ貰えるんですか!
「ああ、もう一つの道ね」
すると箱舟館長はテーブルの上の書類に掌を乗っける。
「これはあまり褒められた方法ではないのだけれども、聞いてくれるかい」
「あ、はい」
箱舟館長の顔は先ほどよりも真剣だ。
「もう一つは、君が普通の無魔法能力者では無かったという話にすることだ」
「え!?」
普通ってどういう事だ……?
「まぁ、そういう反応になるよね。でも一応聞いて欲しいんだ。幸い君が普通の無魔法能力者つまりは我々魔法使い側の人間ではないという事実を知っているのはごくわずかなんだ。今回の件で問題になっているのは魔法使い側ではない、人間界の無魔法能力者を巻き込んだっていうところでね。君が魔法使いもしくはこちら側の世界の無魔法能力者であったら、今日偶然今日入社してきたスタッフが、展示物の事故に巻き込まれたってことで処理することができるんだ」
「事故?」
つまりは揉み消しって事か……?
「無論、魔法界の法律にのっとって労災として幾分かのお金は出る。たぶん200万位だと思うんだけど」
「……200万」
一億円を聞いた後に200万円を聞くとスケールダウン感がすごい。
「メリットといえば今後魔法社会で暮らすことになる位かな。おそらく君の生きている普通の社会よりは、刺激的な物にはなるとは思うんだよね。だって君たちはよくファンタジーって言って僕らの世界の話をするし、魔法という究極の学問を学ぶことが出来るからね。あとは…………ウチの内定があるくらいじゃないかな、残ってくれるなら話した通り天出さんの後任を君に任せたいと思っている」
「な、内定!」
「どっちを選んでもあたしたちに文句は無い。一億貰って記憶を消すか、200万貰って内定をもらうか好きな方を選べ丹藤。この顛末、お前の納得する方にな」
「我々が本当に伝えたいことは、君のおかげで助かった命があるということだ、今回の件は本当にありがとう」
箱舟館長達三人は再び俺に深々と頭を下げた。
俺の出した結論は。
「しゃああ! ここが俺の今日から職場か!」
俺が見上げる先には、日本国立博物館元い、国立魔法博物館があった。