詩人
「赤。見渡す限りの赤。初めての恋に乙女が染めた頬のようじゃ。夢見の乙女。じゃが現実は夢のようにはいかぬ。目の前には幾多もの苦難が立ち塞がっておる。燃え上がるのは嫉妬か情熱か。あるいはその両方かもしれん。逃げることは許されぬ。かと言って、災禍に立ち向かうほどの勇気を、いかにしてこのか弱い乙女が持ち得ようか。否。無垢な乙女は無垢であるが故に、心の底から人を憎むことなどできぬ。立ち向かうこともできぬ。かわりに、救いを求めるしかないのじゃ。求めれば救ってくれると信じている、その男に。じゃが、果たしてその男は本当に、白馬の王子となってやって来るのじゃろうか。自らの命を犠牲にすることも厭わずに。乙女一人を救うために、喜び勇んで死の領域に足を踏み入れる豪胆な男が、果たして今の世にいるかどうか。恋とは焦げ臭いものじゃ。壮絶に燃え上がり、すべてのものを焼き尽くした挙句の果てに残るものは、愛した男への疑念。なぜ、自分を救ってくれなかったのか。救いたくても救えない理由があったのか。それとも不実を働いたのか。真実は黒い煙に包まれたまま、心を乱された哀れな乙女はもがき苦しむのじゃ…………おい、聞いておるのか。なに、たちの悪い戯れと申すか。失礼な、わしは常に真実しか語らぬ。おい、返事をせよ。このままでは災禍が乙女を呑み込むぞ…………」
近隣の住民が通報したおかげで、火はなんとか消し止められた。消防隊員によって、ひとりの老人が救出された。
「か弱い乙女をかようにも待たせるとは何事か。貴様を白馬の王子と認めるわけにはいかぬ。………じゃが、己の命を顧みずに炎の中から現れたお主の姿は、ちと勇敢じゃった」
消防隊員の腕の中で、老人は煤だらけの顔を火照らせて言った。