2125/05/07-2 星空の下、名前を決めて
「……ここは」
無機質な灰色をしたビルや、ギラギラしたいかがわしい建物などの一切ない景色。まだ日は完全に沈んでおらず、星らしい星は見えなかったが、それでもぼくはそんな光景を捕まえるように、展望台へ向かって走った。
「不思議と、懐かしく感じるよ。地球に降り立ったばかりの頃を思い出す」
”確か宇宙船は、太平洋の方の無人島にあるって言ってたわね”
「……うん。あそこは昔人が住んでいた痕跡があったけどね。それでもだいぶ前の話で、少し名残がある程度だった。ぼくが今住んでいる屋敷や、やっとのことでたどり着いた東京は、人間の文明だらけでめまいがしたのをよく覚えているよ」
”あなたがこうした自然の景色を人間の文明に侵されていないもの、と定義するなら、まだまだ人間の文明は未熟よ。都会の真ん中にある私の家から、車で何時間か移動するだけでこの景色を見られるのだから”
柔らかい海風がぼくの髪を揺らす。本当は弓依の真似をして作り出したその髪も、皮膚より若干丈夫なだけの偽物だ。外見は人間の髪の毛そのものでも、手触りはまるで異なる。それでも、そんな髪を撫でる風が心地いいことはぼくにも分かった。
”私も思い出した。昔両親に連れてこられて、何度かここに来たことがあるの。生まれた時から都会の空気に包まれていた私に、自然の大切さ、素晴らしさを教えてくれた。こんなに簡単に見られる景色が、果たして自然そのものかどうかは怪しいのだけれど”
「ぼくが自然そのものだと思ったんだから、間違いないよ。ぼくたちは今、地球の自然を垣間見ている」
ぼくがいた星に、こんなにきれいなものはなかった。ぼくのいた星は、汚いものばかりだった。あの星の終わりは、悲惨そのものだった。大気は常に得体の知れない気体で満たされていたし、表面温度は近くの恒星の影響をもろに受けて、常に上がり続けていた。気づけばぼくたちでさえ生きるのが難しいような環境になっていた。
「せめて、最低限食べるものがあって、死なずに済む環境の星さえ見つかればいいと思っていた。だから地球という星を見つけた時に、感動した」
”……そう考えれば、なりふり構わずに地球を乗っ取ってしまおう、という考え方は理解できるわ。想像を絶するようないい環境が目の前にあって、理性を失わない自信はない。きっと大多数の人間がそうよ。その中であくまで理性的な交渉を試みたあなたは、私たちも見習うべき存在”
「ぼくを褒めても、何も出ないよ。結局のところぼくはだまされて、一度でも人間を征服する、という道を選んでしまったのだから」
だまされないでいた可能性は、限りなく低い。それでも、やはり考えてしまう。もしも交渉がうまくいって、共存ができていたなら。誰も殺さず、存在しない人間のイメージを作り上げてそれに擬態し、人間たちの中で何気ないことで笑える日々を過ごせたら、どれだけよかっただろう。
”……人間が滅ぶのは、もう避けられないの?”
「あがくこともできないよ。少なくとも人間じゃ一体殺すのも難しい。かと言って、ぼくが殺して回るのも限界がある。今はまだ本気を出してないみたいだけど、それでも一日に二体は増殖してる。一週間後に人類がいなくなるって言われても、ぼくは驚かない自信があるよ」
”どうして、本気を出さないの”
「おそらく、人間にバレたくないんだろうね。いくら人間の方が弱くても、数の面では圧倒的に人間が優勢だ。数の差は大したことないように見えて、奇跡の逆転が起きる原因になることだってある。それをよく分かってるんだ」
このままいけばおそらく、ある日突然滅亡の日がやってくることになる。それまでは何の変哲もない日常だったのに、ある日を境に地獄絵図と化す。しかも、復興する時は決して訪れない。もっとも、人間がいなくなって完全に文明が作り変えられた状態を、手放しで復興したと褒めるのであれば、その限りではないが。
”人間の文明は、なくなるの?”
ぼくに尋ねる弓依の声も、まさかとは思うけれど、という感じを含んでいた。自分が死ぬということ以上の、とんでもないスケールの災害が起きようとしている、という事実を前にして、単純に呆然としているようでもあった。
「分からない。人類を滅ぼして、人間の作った文明の中で暮らしてみて。合わないと感じたら、作り変えるんじゃないかな。人間の文明が残るか消えるかは、人類が消えてみないと分からない」
”……人類が消えてみないと、ね”
完全に暗くなってしまう前にと、鴨山がバスケットを渡してくれた。中にはあらかじめ作ってくれたのだろうおにぎりが入っていた。それを鴨山と二人、まるで恋人どうしのようにベンチに座って、景色を眺めて時間を忘れながら食べる。
「ぼくは、鴨山と会ってまだ三か月ほどしか経っていないというのに。不思議と、懐かしさに似たものを感じるよ」
「わたしもですよ。やはりお嬢様そっくりの姿をしたあなたが隣にいると、まだお嬢様が生きているような錯覚に陥ってしまいます」
弓依は小さい頃、両親にこうしてよくいろんなところに連れて行ってもらったのだという。使用人の鴨山も、いつも一緒だったらしい。ぼくは弓依の記憶を共有しながら、その時の情景に思いをはせる。
「……ぼくは、苦しいよ」
「……」
「ついこの間までのぼくは、怒りで周りなんて何一つ見えてなかった。でも怒りを向ける相手を失って、冷静になった。ぼくはこんなに高度に発達した文明と、ぼくたちと同等かそれ以上の知性を持つ生命体を滅ぼそうと考えてしまうほど、我を失っていたのかと。そんな決断を、冷静さを失った状態でしてしまうほど、追い詰められていたのかと」
「……では、あなたが」
すでにおにぎりを食べ終わった鴨山が、ぼくの方を向いて言った。
「あなたが、人間の文明を記憶に刻んでいく。かつて人間という生物がいて、多種多様な文明を築いていたのだという記憶を、未来につないでいただけませんか」
「……ぼくが?」
「人間の文明という遺産を、あなたに継いでほしいのです。人間でないわたしが言うのも、違和感がありますが」
「……ぼくが、そんな大層なものを継いでいいのかな」
「わたしも本当は、記憶を未来につなぐその役目を果たしたかった。ですが、そうするには私は、あまりにも弱い存在なのです。十年に一度人間に診てもらわなければ、ろくに動くことすらできない」
やり方はきっと、いくらでもある。かつてあった文明の姿を語り継ぐだけならば、いくらでも。だが、嘘のように百八十度立ち位置を変えたぼくが、そんな重荷を背負っていいのか。
「あなたならできると、わたしは信じています」
「あまり完全な形では、語り継げないかもしれないよ? ぼくは人間でないというだけで、それ以外に特別なところがあるとは、とても思えない」
「それでも、やっていただきたいのです。このまま記録が残らずに人間の文明が消えるのが、わたしは耐えられません。わたしという存在を作ってくれた、この文明を残してほしい」
もっとも、そんな時間が残されているのかどうかさえわたしたちには分からないのですが、と鴨山は自嘲気味に笑った。
ご飯を食べた後、鴨山が先に車に戻っていった。ぼくの気が済むまで星を見て、弓依と話してほしい、と言ってくれた。少し突き放すような言い方に聞こえたが、弓依いわく鴨山なりの気遣いらしい。
「……ぼくにできるのかな」
”私はできると思ってる”
私ね、と続けて弓依が言った。
”もし、どのみち殺されていたのだとしたら、の話だけど……殺したのがあなたで、今はよかったと思っているの”
「それは随分ネジの飛んだ発想だね」
”どうせ殺されていたなら、という条件つきよ”
「……それにしても、分からない。ぼくは人間を滅ぼす、と高らかに宣言していた奴だというのに、どうしてそう友好的になれるのか」
”……あなたが、あくまで交渉を望んでいたと聞いたからよ”
その考え方が、そんなに大事なんだろうか。本能のままに生きる獣どうしであるならばともかくとして、同じ知性がある存在ならば、大人しく交渉をした方が余計な血が流れなくて済む。それはぼくがわざわざ意識したことではなく、自然と考えていたことだ。
それをほとんどそのまま弓依に向かって言うと、告白するようにぽつぽつと弓依が話した。
”……実はね。私、怖かったの。あなたたちからのメッセージを最初に受け取ったのは私だった。オカルトには、以前から興味があって。少なくとも人間の言葉とは思えないメッセージだったから、いろいろ勉強して、自力で解読したの。でも同時に、どんな姿をしていて、どういうことを考えているのかも分からない存在と、そうやってコンタクトを取れている自分が、急に怖くなって。結局人を集めて戊辰会、なんていう組織を作ったけれど、怖さを紛らわせたかったとか、オカルト好きを道連れにしたかっただけなのかもしれない”
弓依も決して、完璧というわけではなかったということか。それでも思いつきであれほど大規模な組織を作り上げてしまうというのは、すごいことなのだが。
「だから思ったよりぼくが理性的だと知って、安心したわけか」
”あなたの話を聞いた時点で、誤解しているとは思った。でも私だけが言っても説得力はない。何とかして穏便に、誤解を解くことさえできれば、あなたは冷静さを取り戻せると思った。……皮肉にも、それより先に仲間に裏切られていたことが分かったわけだけれど”
ぽつぽつと話しているうちに、いよいよ空が暗くなって星が見え始めた。ぼくは星に関しては素人らしい弓依の知識をもとに、あれが北極星で、あっちは北斗七星かな、と指差していろいろ探してみる。特に目的もなく星空を見るのも、なかなか悪くない。
”ねえ”
「うん?」
”あなたに、名前をつけてもいいかしら”
「名前? ぼくにも一応、同族内で区別をつけるための名前は存在するよ。まあ、人間には発音できないのは間違いないけど」
”友好のしるしに。あなたを、名前で呼ばせてほしいの。名前は決めてある”
「……やっぱり弓依、君は変わっているよ。でもまあ、その決めた名前とやらを聞いておこうか」
”……イユ”
自らの名前を逆から読んだものだということは、ぼくにもすぐに分かった。
「そんな名前……もらっていいのかい?」
”友好の証だって言ったでしょう? 弓依とイユで、少し面白いかなとも思ったの”
「……変わってるよ、君は」
”そうね”
ぼくは星を見るのをやめて、鴨山が待つ車へ戻る。
”少しでも、人間の文明を覚えてもらえると嬉しいわ”
「ぼくは今、君が思った以上に楽天家であることに驚いているところだよ」
”……そうかも。現実を直視しているはずなのに、私は案外絶望していないのかもしれないわ”
明るい星から暗い星まで、大きい星から小さい星まで。いろんな星が、ぼくたちの頭上の夜空を彩っていた。その一つ一つが、もしかするとぼくたちに残された希望なのかもしれない。ぼくは弓依のものだった顔をほころばせて、鴨山の車に乗り込んだ。