2125/10/21-2 イユのエゴ
「イユちゃん……!」
表に出たぼくの姿を認めるなり、実玲は涙を浮かべてぼくにすがりついた。頼れる存在に再会できたことに相当安心したらしく、実玲はその場にへなへなとへたり込む。
「イユちゃん……お父さんと、お母さんが……」
「伝わったよ。……いつかは、やってくる話だったんだ」
おそらく実玲は両親がまさに殺され、擬態される瞬間を見たのだろう。ただ擬態を見ただけなら、こうはならない。むしろその場で襲われて、今ごろ実玲はここにはいないはずだ。
「……ただ、こうも早くこの時が来ることを、考えないでいた自分がいる」
ぼくが心のどこかで嫌味なほどに落ち着いているのは、そのせいかもしれない。いい意味でも悪い意味でも、まだ慌てる時ではないとぼくの中でささやく声があるのだ。しかし、この時が来てしまった。
「私……どうすればいいの」
「実玲の家に行くのは危険だ。ひとまずここに……いや」
ぼくの側にいればとりあえずは安心だろう、ということを実玲に伝えようとしたその時。ぼくは実玲の肩に、何か付着しているのに気づいた。吐き出したガムのようなそれをはがして手に取る。
「それは……?」
「……まずい。実玲、もしかしてしばらく陰で見ていたりした?」
実玲が黙って、おそるおそるうなずく。
「実玲が気づかないうちに、マーキングされている。自分の身体のかけらを付着させて、餌場を知らせる目的があるんだけど……どうやら実玲の居場所は、現在進行形で知られているようだ」
ぼくはそのかけらを握った手を触手に変えて、酸を出して溶かす。少なくとも臭いで追ってくることはできなくなった。
「……ごめんなさい」
「実玲が謝る必要はないよ。ただ、奴らがここに来る可能性は十分にある。逃げよう」
実玲が自分の家に帰ることは、もうできない。この状況で実玲を一人にして、実玲の両親に擬態した二人を殺しに行くのはリスクが大きすぎる。となれば、ぼくにできるのは実玲をかばいつつ、追っ手が来ないところに逃げることだけだった。
「九條家の別荘がございます。ひとまず、そこへ」
「ここからどれくらい?」
「車では向かったことがないため、分かりません。ただ、車で行くことが可能な場所ではあります」
「分かった。すぐに車を出してくれ」
ぼくは鴨山にそう頼む。実玲の家はここからそれなりに近い場所にあるから、荷物やら何やらを積み込んでいる暇はない。玄関近くにあったお菓子だけいくらかかばんに入れて、ぼくたちはその場を去る。
「別荘も一応定期的に使っておりますので、生活に困ることはないでしょう。食料品や生活必需品は、改めて買う必要がありますが」
「それは全く構わない。弓依の両親は死んだんだ、九條家のお金をどのように使うかは、ぼくが決められる。実玲を元気な状態で生かすことに、力を注ぐんだ」
ここで実玲を殺されるわけにはいかない。それはぼくと鴨山の共通認識だった。クリスマスの日、実玲を人間として、あるいはぼくの仲間として連れて行くのかは分からない。ただ、今は人間として生かさなければならない。そこにぼくがこだわる理由は、ぼくにもはっきりとは分かっていなかった。
「ここからしばらくかかります。お嬢様も七道様も、どうぞお休みください」
「……実玲。君は寝ておくといい。心を落ち着けるための睡眠は、人間にとって重要だと聞いた」
ぼくのその言葉でふっ、と緊張の糸が切れたのか、実玲がぼくに肩を寄せた。
「ありがとう……イユちゃん」
「礼には及ばないよ。これは、ぼくのエゴなんだ」
人間たちはエゴ、なんて言葉を持っている。自分勝手とか、利己主義という意味らしい。ぼくがただ、擬態先である弓依の親友だからという理由だけで実玲を助けたのは、ぼくのエゴなのだ。他に何人か助けられる人間がいたとしても、助けた方が利益のある実玲を選んだかもしれない。
「……矛盾しているんだ。ぼくは」
弓依を殺しておいて、実玲は人間のままでいてほしいと願う。いくら考えを改めたと言っても、ぼくはころころと行動を変えている。
「そんなことないよ。イユちゃんは弓依を死なせる前から、たぶん変わってない」
「どうしてそう言えるんだい」
「イユちゃんを見てたら分かるの。いつも人のことを考えてくれる。一度味方だって認識さえすれば、優しく接してくれる。イユちゃんの性格なら、だまされて人間を滅ぼせって命令を下したのも、仕方ないかなって思う」
消え入りそうな声で、実玲が言う。鴨山の運転がぼくたちに心地よい振動をもたらしてくれるおかげか、実玲はほとんど眠りに落ちかけていた。しかしぼくはと言うと、全くもってその気配がない。そもそも人間に比べて、睡眠が疲労回復の手段になりにくいのだ。精神的な疲労があっても、それが眠気につながることはほとんどない。
「仕方なくないよ。あまりぼくのこれまでの行動を美化するのは、やめてくれ」
「……」
返事がない。実玲はいつの間にか寝ていた。ぼくに体重を預けて、すうすうと寝息を立てている。そんなささいなところに、妙に人間らしさを感じる。
「お嬢様も。どうぞ、お休みください」
「……分かった」
ぼくからは、鴨山がどんな顔をしているのか見えない。それでも穏やかか、それに似た顔をしているのだろう、ということは分かる。機械なのに妙に人間臭い鴨山は、ぼくよりよほど感情豊かだ。
結局のところ、ぼくはいろんな場面で鴨山に助けられている。鴨山にとって、ぼくは主を殺した敵であるはずなのに。まるでぼくが最初から主人であったかのように、鴨山は振る舞う。どうしてぼくに対してそこまで尽くしてくれるのか。
「……鴨山。鴨山は、ぼくのことをどう思っているの」
「お休みくださいと申し上げたのに、聞き入れてくださらないんですね」
「……すまない」
今度こそぼくは後部座席に背を預けて、目を閉じる。九條家の別荘に着くまでの今が、安心できる最後の時間かもしれないのだ。
「……わたしは、お嬢様がわたしに対して思われている感情は、何一つ抱いていませんよ」
「……」
「すでに寝てしまわれたのなら構いませんが……確かに、弓依お嬢様を亡くしたことを忘れたわけではありません。あなたが弓依お嬢様を亡き者にしたあの時のことは、いまだ鮮烈に記憶に残っています。けれどそれゆえに、あなたに復讐する機会をうかがったことは一度もありません。あなたに、わたしを殺す気がないのと同じように」
思えば、そんな鴨山の思いをぼくは何度も確認しているような気がする。鴨山が裏切らないか心配なのか。そうではないだろう。裏切る裏切らない以前に、ぼくは彼のかつての主人を殺したのだ。仮に裏切られたとしても、それはぼくが黙って受け入れるべきことだ。
「……それどころか。わたしは、感謝さえしております。一度は滅ぼすと決めた人間を、今度は救おうとしてくださっている。もちろんこう言えば、お嬢様がそんな大層なことはしていない、とおっしゃることは承知しております。しかし、それでも。七道様を選んで助けた、などということは、どうぞおっしゃらないでください」
「……分かったよ」
どうせぼく一人が動いたとて、今生き残っている人間を全員救い出すことはできない。それなら目の前にいる実玲を助けられただけでも収穫なのではないか。たとえぼく自身がそう思えなくても、そう考えろという鴨山からのアドバイスなのだろう。
「さあ。まだまだ到着まで時間がございます。どうぞ、お休みください」
今度は返事をしない。ぼくは実玲に少し肩を寄せて、実玲の温かさを感じることに集中する。




