2125/08/11-1 二人の原点、花火大会
「……しかし、弓依ほどのお嬢様が、友達と花火大会に行くなんてね。驚きだよ」
“それは誤解よ、イユ”
花火大会当日の昼下がり。ぼくは鏡の前に立って、浴衣を着ていた。いくら弓依の記憶があるといっても、それだけでは難しい。弓依に逐一教えてもらいながら、何とか形にすることができた。
「誤解?」
“世の中いろんなお金持ちがいるけれど、私の家はそれほど絵に描いたような大富豪のような暮らしではないの。大きな権力や、政府への影響力もあるわけじゃない。旧財閥系とは言うけれど、財閥解体を機にうちは、企業経営をやめたのよ。この大きなお屋敷もその時の名残であるだけだし、それを代々相続してきて、使用人をやっと一人雇えるくらいの余裕を作ってきただけ。偶然、少しいい暮らしをさせてもらっているだけよ”
「少しいい暮らしだという自覚はあるんだね」
“ええ……普通は私専属の使用人なんて、いないでしょうから”
ぼくが今弓依の代わりに通っている高校は、別にお嬢様学校の類ではない。金がある者もない者も、公平な受験によって選抜される。受験の際に金があった方が高度な指導を受けられ、その結果試験に通りやすいという事実はあるようだが。つまり弓依はその基準でいえば金がある側の人間で、鴨山という優秀な家庭教師がいたからこそ、この高校に通えているのだ。
”……実玲は、私の幼馴染なの。ちょうど、幼稚園の頃の花火大会で出会って以来、ずっと仲良くしてもらってる”
「それは知ってる。記憶を探れば出てくる話だ。その先を、少し教えてほしいと思っているんだけど」
”……あの子、外国人なのよ。日本人の血は一切入っていないの”
聞いたことがある。同じ人間という種族なのに、全く姿形が異なる。この日本にも多くの外国人、と呼ばれる存在がいて、それで気づいた。日本人とアメリカ人、それからブラジル人では、肌の色や背丈から、本当に同じ種族かと疑ってしまうほど異なる。単一の種族しか存在せず、基本的に無性生殖を行うぼくたちには、にわかには信じがたい話だった。そして、実玲はその外国人なのだという。
「……へえ。それは驚きだ」
”エイミー・ロイヴァンス。それが実玲の元の名前よ。日本に帰化して、日本人名を名乗っているの”
「それにしては妙に日本人っぽい顔つきだし、よく日本語も話せるようだけど」
”生まれてからすぐに日本に来たそうよ。お父さんもお母さんも日本によく関わる仕事をしているから、ほとんど日本語が母語みたいなものなの”
日本人っぽい顔つきなのはよく分からないけれど、と弓依は言った。どうやらそこに関しては、弓依も同意らしい。
「実玲が実は日本人じゃないことは分かったよ。でも、それがどうして特別になるの?」
”いくら元から日本人みたいって言っても、幼稚園とか小学校の頃は、まだ日本語がたどたどしかったの。あの子の両親は大人になってから日本語を学んだだけで、完全に日本語が母語というわけではないから。拙いしゃべり方をするから。ただそれだけの理由で、実玲は仲間外れにされたり、友達ができなかったり……いじめを受けていた”
聞いたことがある。百年経っても二百年経っても、愚かな人類が撲滅できない悪しき風習だ。ぼくは人間を滅ぼすのに加担するのをやめたつもりだが、人間が相も変わらず愚かである、という考え方に変化はない。その理由の一つが、いじめの存在だ。自らの種族の繁栄を妨げるようなことを、どうして労力をかけてまでする必要があるのか。正直理由を追求する必要さえ感じない。それこそが、人間が愚かである証左となっているのだから。
「いじめ、などという文化は、ぼくたちの種族には存在しない概念だ。念のため聞いておくけど、この文化をぼくは受け継ぐ必要があるかい?」
”ないわ。悪しき風習であるという点は、私も同意よ”
悪しき習慣だと思う人間がいたことに、ぼくは少しだけ安堵する。その問題を認識できていないのではない。分かっていながらも、どうやって撲滅すればいいのか。具体的かつ有効な方法を、人間は考え出せずにいるのだ。
「……そうか、実玲がいじめをね。全くそうは見えないけど」
”それはきっと、実玲が必死に不安を押し隠しているからよ。きっと今だって、自分が日本人じゃないことで何か言われはしないか、内心怯えているはず。私や鴨山にいつでも弱音を吐いていいから、せめてできる範囲で、明るく振る舞えるように頑張ろう。実玲とは、そう約束しているの”
「……ほう」
”実玲と初めて会ったのが、今日行く花火大会だった。それ以来実玲の両親の他に、私と鴨山も加わって、実玲に日本語を教えたの。今じゃ実玲が日本人だと思うほど、日本語が上手でしょ? それは何とか教えるのが間に合ったおかげなの”
実玲にとっては、一生の恩人とも言える親友に出会った場所。弓依にとっては、お嬢様という一人になりがちな境遇から救ってくれた友達を見つけられた場所。この花火大会は二人の思い出の地でもあり、二人の始まりの地でもあるのだ。それなら確かに、毎年行われるこの花火大会は、二人にとって重要な意味を持つ。
「じゃあ、行こうか。遅れたら、実玲に悪いしね」
「行ってらっしゃいませ、イユ様」
「うん。気をつけるよ」
弓依と実玲の原点。それだけに、本来は弓依の護衛をもこなす使用人であるはずの鴨山は、この花火大会の時だけは家で留守番を務めることになっているらしい。ぼくは家のことを鴨山に任せて、駅まで歩いて向かう。
「遅いよ、イユちゃん」
「遅いって、ちゃんと集合時刻の十分前には着いているんだけどね」
「私はさらに十分前に着いてましたー」
「それは知らないよ。実玲が勝手に早く来ただけじゃないか」
「イユちゃんは私より早く来ないといけないって決まってるんですー」
「そんなこと言われても」
ちょうどぼくが到着したタイミングで、電車が行ってしまった。次の電車は十二分後。それまで、駅のベンチに二人で座って待つことになった。
「……聞いたよ、実玲。実玲の昔のこととか、毎年のこの花火大会が、二人にとっていかに大事かって話とか」
「じゃあ、私が日本人じゃないのも知ってるんだ。まあ、隠すつもりは今さらないんだけど」
「知ってるよ。ただ単一の種族しか存在しないぼくたちにとっては、それほど驚くような話ではなかったけどね」
実玲の浴衣もすごくきれいだ。ぼくが艶やかな浴衣を着るのはなんだか、言い表しがたい違和感があったのだが、実玲はよく似合っている。
ぼくがそんな実玲に見とれていると、ふとぼくの方を見ていた実玲が前を向いて、ぼやいた。
「イユちゃん、人間の文明を保存しようって、頑張ってくれてるんだよね」
「そうだよ。でも、圧倒的に時間が足りない。もっと分身を生み出せばいいのかもしれないけど、生み出そうとすればするほど、ぼくにはリスクが重くのしかかる。ぼくは同じ種族の中でも、繁殖力が弱い方なんだ。一つ分身を作るのに、とてつもない体力と精神力を奪われる。いつも、次こそ死ぬかもしれないなんて不安を抱えながら、分身を作ることになる。この地球上から人間がいなくなってしまう前に、ぼくが死んでしまったら意味がないんだ。だから。……どれだけ効率が悪くても、ぼくが一人で回収して回れば、結局一番人間の文明を吸収できる」
期限は、今年のクリスマスまで。その話は、すでに実玲にはしてある。実玲はまだ殺されていない、人間のままだという絶対的な自信があったから。その時の実玲が、諦めに似た悲しそうな顔をしていたのを、ぼくはよく覚えている。
「……私ね」
しかし実玲は、ぼくの話を遮るようにつぶやいた。やんわりと、ぼくのこれまでやってきたことを否定するかのように。ぼくはおそるおそる、なに、と聞き返す。
「……もしかしたら、イユちゃんが人間の文明を保存するために、そこまでやる必要はないんじゃないかって、そう思うの」
ぼくは、目の前がすうっと暗くなっていくような錯覚に襲われた。ぼくがおぼつかない足取りで歩いていた道を、横から急に突き崩されたような。そんな気持ちだった。




