2125/04/20 九條弓依
『2120年革命―人類の地位が揺らぐ時―』
こつ、こつと規則正しい足音が響く。自分がやってきたということを、あえて知らせているのだろう。そしてその音は、ぼくが今いる書斎の前でぴたりと止まった。少し間を空けて、控えめなノックが二回。木製の扉が落ち着いた音を出す。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは男性の使用人だ。執事という言葉は旧世代すぎるし、第一彼はあまり執事のイメージには当てはまらない。やはり使用人というのがふさわしいだろう。
「コーヒーを、お持ちいたしました」
「うん。ありがとう」
ぼくが読んでいた本から目を離すことはなかった。一方で、コーヒーが執務机に置かれたのは目の端で捉えている。淹れたてなのだろうコーヒーを、ぼくは何のためらいもなく一口すすった。
「鴨山」
「はい」
名を呼ばれた黒髪の使用人は、部屋を立ち去ろうとしたその姿勢のまま振り返った。
「ぼくの顔を見てくれ。特に変わったところは?」
「……いいえ。特にお変わりありません。いつも通り、お美しい」
「ありがとう。好きだよ、鴨山」
「……恐れ入ります、お嬢様」
余計なことは言わない。主従関係以上のものがそこにあってはならないと、鴨山は考えているのだろうか。鴨山はさっとぼくの部屋を後にした。再び一人になった部屋で、ぼくはつぶやく。
「……三か月前なら、君はうなずいていたんだろうか」
* * *
九條弓依。
ぼくの名だ。詳しいことは言うのも野暮だろう。名家のお嬢様だという理解さえあれば、それで十分だ。
両親はほとんど海外にいて、滅多に帰ってこない。日本の某所にあるこの屋敷は、実質的にぼくのもの。ぼくと使用人の鴨山の、二人で暮らしている。
「……それにしても、鴨山はコーヒーを淹れるのが上手いね」
ぼくは湯気の立つコーヒーを、ゆっくり味わうようにして飲む。側から見れば、少し変な光景かもしれない。休日、それも家の中だというのに、ぼくは高校の制服を着て、書斎の椅子に座っている。
ぼくはこの制服を気に入っている。だからといって家の中でまで着る必要はないだろう、と言う人がいるかもしれない。でも、ぼくがスカートの柄やデザインを気に入っているのだから、仕方ない。
「この制服とやら……よく考えついたものだよ」
おかげでぼくは替えの制服を、何着も持っている。どこの学校に通っているのかはすぐに分かってしまうが、あまり場所を選ばない。学生の正装である。
「……おや」
横着をしてしまった。ちょうど興味深いページだったものだから、つい本を読んだままコーヒーを口にしてしまった。口だと思っていた場所はもう少し右で、口に含まれるはずだったコーヒーはそのままスカートを汚してしまった。
「……なかなか難しいね」
初めの頃、目や鼻の辺りにコーヒーを流し込んでいたのよりは、いくらかましにはなったが。
ぼくはティッシュである程度コーヒーを吸い取ってから、そのまま浴室へ向かう。そろそろ夕方だし、入浴にもちょうどいい時間だ。
「お嬢様。ご入浴の際は、脱衣所の扉を……」
「分かってるよ。それは覚えた」
「かしこまりました。ごゆっくり」
鴨山はぼくの身の回りのことまで、全て覚えてくれている。大した使用人だ。
ぼくは鴨山の言いつけ通り、脱衣所の扉を閉めてから服を脱ぐ。鴨山いわく、他人にこうした姿を見せるのははしたなく、恥ずかしいことなのだそうだ。
「おや」
ふと、ぼくはスカートを脱ぐ感触がいつもと違うことに気づいた。実際確かめると、その感覚は正しかった。スカートの内側に少し、べっとりと汚れがついている。特定の一か所に染みがついている、という感じではない。布の生地に沿って、薄い膜を作るように汚れが付着している。となれば、原因は一つしかない。
「……そろそろ、皮膚の替え時かな」
自らの言葉を合図にして、ぼくは本当の姿を鏡の前で現す。人前では決して見せることのない、ぼくの本来の姿。人間でいうこめかみの辺りから、後ろ向きに角が左右で一対生える。ヤギのそれのようで、もっと獣臭さを持った、禍々しい雰囲気さえ感じさせる角。それを合図に、ぼくの全身の皮膚が絵の具のように溶け出して、床にこぼれ落ちる。水より少し粘度が高い程度であるその液体は、そのまま下水道へ流れていった。古い皮膚が流れ落ちるのと同時に再生した新しい皮膚。皮膚が入れ替わる一瞬の隙に、ほんの少しだけ、緑色をした本来の表皮が見える。
「……ふう。人間のふりをするのも、なかなか大変だ」
ぼくは、人間ではない。九條弓依という人間に擬態した、地球外生命体だ――