貝のみぞ知る
以前、別のペンネームで投稿した作品です。
諸事情で削除しましたが、また投稿させて頂きます。
夕食時。その時私はボロアパートの自室で、貝の味噌汁を食べようとしていた。私は貝が好きだ。コリコリとした食感と、磯の香り。もうたまらない。
しかしそんな至福の時間に邪魔が入った。何者かが、玄関の扉を叩いた。私は汁椀と箸を卓袱台に置いて、扉を開けた。
「こんばんは。大谷拓人さんですか?」
そう質問してきたのは、制服を着た中年の警察官だった。何故警察官だと分かったかというと、その中年男は制服を着ていた。そして手には警察手帳を掲げていた。
私は少し狼狽した。何も身に覚えがないが、何もなかったら警察は家にまで押しかけては来ない。
「はい。そうですけど……。一体なんの用ですか?」
「いやいや。そんな警戒なさらずに」警察官は笑いながらそう言い、続けた。
「ちょっとね。今交番に身元の分からない少女が保護されているんですけど。何やらあなたに乱暴されたと言っているんですよ。まあ、虚言の可能性も十分にあるとは思ってますよ? でもそう言われた以上、一応調べないといけないじゃないですか? それでね、大谷さんの家を訪ねたってわけなんです。何かご存知じゃないですか?」
「ちょ、ちょっと待って下さい。僕はそんなことしていません。何かの間違いじゃないですか? だいたい僕は今日は一日中家に居たんだ。アリバイだってあるんだ。証人はいないけど……。でも、やってません。僕は潔白だ!」
「いやいや、分かってます。分かってます。でも一応、交番の方までご同行願えますか? そこで大谷さんの身の潔白を証明しましょう、ね?」
そうして私は卓袱台の上に貝の味噌汁を残して、家を出た。
交番に着くと、確かに一人の少女がいた。貝殻のような目をした、美しい少女だった。
早速警察が少女に質問をした。
「この男の人が、君を乱暴したんだね?」
「はい、そうです」少女は小さな声で言った。
「ところでね、そろそろ君の名前を教えてくれないかな?おじさん、お嬢ちゃんのことを君って呼ぶのは呼びづらいし、名前が分からないと、お嬢ちゃんをお嬢ちゃんのお家まで送ることもできないんだよ」このやり取りは何度も行われてきたようだ。警察官も辟易しているのが、直ぐに分かった。
「私は、貝です。名前はありません。家は海の底です。家族は居ません、死にました」そう少女は言った。
警察官は、「またかぁ……」と呟いて顔を顰めた。そこで警察官は私に向かって言った。
「ずっとこんな調子なんですよ。名前はない。しかも私は貝ですって。でもあなたに乱暴されたと言っているんだ。こんな娘を保護したのは初めてだよ。本当にあなた、何か知りませんか?」
「知っているわけないでしょう。こう言っちゃ悪いが、この娘は少し頭のネジが緩んでいるんじゃあないか? こんなくだらないこと、付き合いきれない。もう僕は帰りますよ? いいですね?」
そう言って私が踵を返そうとしたその時、その少女が叫んだ。
「待って!」
私はいきなりの大声に、ビクッと体が震えた。だが次の瞬間それは、その少女に対する怒りに変わった。
「一体全体なんなんだ! 僕に乱暴されただとか、訳の分からないことばかり言って。あまり大人をからかうなよ」
だが少女は、そんな私よりもなお強い憤りに満ちた声で言った。
「私たちに、あんなことをして……。それでもあなたは白を切るつもり?」
「だから一体何なんだ! 僕と君は今初めて会ったんだぞ。意味のわからないことを言うな!」
そこに中年警官が割って入った。
「二人共、少し落ち着いて下さい」そして警官は耳元で、私にだけ聞こえるように小さな声で言った。
「やはり、この少女、少しおかしいようです。大谷さん。もう帰っていただいても構いません。ご足労申し訳ありませんでした」
そして私はいささか疲れた気分で帰宅した。卓袱台の上の貝の味噌汁はすっかり冷めてしまっていたが、もったいないので食べようと箸を取った。
味噌汁に入った貝を眺めているうちに、私は変なことを考えてしまった。
『もしやこの味噌汁の貝は、あの変な少女と関係があるのだろうか。この貝は、あの少女の家族なのではないか? そういえばあの少女、家族は死んだと言っていた。もしや僕が調理したこの貝が、そうだっていうのか?』
そこで私はふと、思い出した。『そういえば昨日、スーパーで買ってきたホタテが冷蔵庫にあったな』
それは砂抜きのために、水を張った容器に入れてある。私はそのホタテがあまりにも立派なので、昨日ずいぶんと指で弄り回した覚えがある。
まさか、まさかな……。
しかし、一度その貝を確認したいという欲求が、ふつふつと湧いてきた。そして私はたまらずに、冷蔵子の扉を勢い良く開けた。
そこにはホタテのために水を張った容器が入っていた。中にはホタテはなかった。だがその容器の水の水面に、怒りに顔を歪めた、先ほどの少女の顔が写っていた。
私は絶叫し、気絶した。
翌朝、冷蔵子のブーンという稼働音で目が覚めた。私は慌てて開きっぱなしになっていた冷蔵子の中身を確認した。
水の張った容器の中には、ちゃんとホタテが一つ入っている。
「なんだ、夢……だったのか?」
私は容器からホタテを取り出してみた。そしてそれの裏側を見た時、私の顔からサッと血の気が引いた。
裏には文字らしきものが浮かんでいた。それにはこう書いてあった。
『怨』
それ以来、私は貝が食べられなくなった。