アンティパスト・前菜
目覚まし時計は9時27分を指している。
手作りのバッチ ディ ダーマの入っていた袋は、テレビゲームのコントローラーの横に空になっておきっぱなしである。
起き上がると、昨日の夜更かしのためか、体はだるくて少し頭痛がした。
寝ぼけながら、ドアを開けると、家の中は何の物音もしなかった。
…トゥルルルル。
ふと、携帯電話が鳴る。
僕は携帯電話の釦を押す。
「はい」
「なつ?今、スーパーに来てるんだ。おにぎりが冷蔵庫にあるから、食べて」と義兄が言った。彼の背後はがやがや言っている。「おっと、順番来たから、後でね」
「分かった。じゃあ」
と返事をして、電話を切った。
そういえば、昨日、晩御飯の時にそんな事を言っていた気がする。
おそらくあんまり僕が起きるのが遅いから、起こさないで出て行ったのだろう。
僕は、キッチンに行くと、冷蔵庫からおにぎりを出す。特大おにぎり。僕は、それを食べると、昨日の続きをやろうとゲームに取り掛かったのだが、頭痛がひどくなったので、セーブをして、テレビの電源を切った。
冷凍庫にある氷枕を取ってくる。
義兄が帰ってくるまで寝ていようと、再び横になった。
「姉さんまだ来ないな」
天井にある丸い電灯を眠たい目をして見つめながら、僕は昨日の事を思い出していた。
それは、昨日の晩のことだった。
☆☆☆
僕は、イタリアレストラン「アルコバレーノ」のオーナーシェフをしている。昨日は、定休日だったので、ずっと家でレシピブログを見ていた。
僕のお腹がぐぅとなったので、時計をと見ると、時計の針は、午後7時だった。
パソコンを消して、キッチンに行った。冷蔵庫の扉を開けると、ボッタルガが入っていた。それに、パスタとベーコン、卵にチーズがあった。食品庫には、オリーブオイルもある。
「夕食はカルボナーラ・スパゲティにしよう」
ただ、生クリームが生憎ない。それに、塩とこしょうが切れかかっていた。
僕は、残りの材料と明日の朝ごはんを買いに近くのスーパーに行くことにした。
財布を鞄に入れて、コートを羽織った。
新品の靴を履いて、外に出ると、寒くて身震いをした。
スーパーまでの道のりは近い。徒歩、10分の所にある。12月22日。街はクリスマス。ツリーの電灯がチカチカするたびに、僕の気持ちもわくわくする。空を見ると、藍色をしていた。スーパーに辿り着くと、休日のせいもあって、賑わっていた。店内には、聞いたことのあるクリスマスソングが流れていた。僕は、歌を心の中でハミングする。
「今年も、クリスマス・ケーキ買おうかな」そんなことをぼんやり考える。
パン屋さんの前を横切ると、行列ができているのが見えた。どうやら、新商品が発売されているらしい。一瞥すると、その行列の横を通り過ぎようとした。
「こんにちは」
そこでばったり会ったのは、同じアパートの田山さんだった。もう定年していて、趣味はパチンコ。髪は黒く染められ、眼鏡をかけ、ふっくらとした顔をしている。きっちりした性格なのか、そうでないのか、回収時間の8時少し前にゴミ出しをする。僕も目覚ましでその時間に起きているので、遭遇回数が多い。
田山さんは、慌ててきたようで、コートのボタンをかけ間違えている。
「こんにちは」僕は挨拶した。「どうしたんですか?そんなに息せき切って」僕は尋ねた。
パン屋さんにコロンバが安売りしてあるのが、目に入って、今日のおやつにと籠に放り込む。
コロンバとは、イタリアの菓子パンである。
「いや、娘におつかいを頼まれたんだよ。そういえば困った事があってさ…」
あらい息で田山さんは答える。
「困った事って?」
僕は田山さんを見据えた。
「空き巣に入られたんだよ」
「空き巣?」
そういえば、角のタバコ屋の前にある看板に「空き巣に注意」と書かれていた気がする。とうとう僕の知り合いの家まで。なんだか嫌な予感がした。
「それで、とられたのは机にあったお金だけだったんだけどね」田山さんはメロンパンを手にして籠に入れる。「だから、君も気を付けた方がいいよ」彼は忠告してくれた。
「ありがとうございます」
彼に手を振って、レジの会計へと進む。
レジの会計は、若い青年だった。なぜだか、どこかで会った気がした。ネームプレートには、井田と書かれてあった。僕がじっと見ているのが分かったのか、彼は頭を下げ、僕も慌てて頭を下げた。
レジを通って、袋に品物を全て入れる。そして、僕はスーパーを後にした。帰り道、空を見上げると、一等星が一つ見えた。
家に着くと、怪しげな人影が僕の家をのぞき込んでいるのに遭遇した。
僕は驚いてあ、と小さな悲鳴を上げる。
そして、その場に立ちすくんでしまった。
人影は僕の方に気付いたらしく、こちらに向き直った。
「やあ。久しぶりだね」
人影は僕の知り合いだった。
「お義兄さん、どうしたんですか?」
僕は少し呆れた声をして、尋ねた。
「うん。少しやっかいになることにしたよ」彼は後ろに背負ったリュックサックを見せた。「君のお姉さんと喧嘩してね。家出してきた」
「はぁ」僕はため息をついた。「どうぞ、家の中へ」
こうして、義兄は僕の家に帰ってきたのだった。
家に入ると、すぐに夕飯に取り掛かった。
始めに、ボッタルガを薄切りにして、オリーブ油をかけた前菜を作った。
それを兄に渡すと、彼は、無言で食べている。
「これ、何?」
食べ終わると、彼は尋ねた。
「マグロのカラスミ。どうですか?」
「美味しい」
彼は、頷いた。