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しまもようのパンツ 2019.8

 この国には四季がある。

 表情を変える自然。それを愛でる文化は、世界を鮮やかに表現するすべを育んだ。

 特に色。「紅色」「朱色」「鴇色」など一口に「赤」と言っても多種多様な「赤」が存在する。

 色彩豊かな国。――それは美しい響きなのだろう。

 しかし、僕にとって「色」は、煙のように鬱陶しいものでしかなかった。

「ねーねー聞いて! 彼氏できたの!」

「えー本当! よかったね」

 通りすがりの女子高生二人組の会話。特別、珍しい内容でもない。だいたいは、聞き手役の子のような感想を抱くだろう。

 でも、僕は違う。

 ――あの子、全然「よかった」なんて思ってない。

 脇を通り過ぎたあとも楽しげな会話は続く。だが、それは彼氏ができた子の方だけ。もう一人は、聞こえる声だけは楽しそうではあるが、「見える音」は違う。

 ほの暗い灰色。汚れのない紙に墨を一滴落としたような差が、二人の声にはあった。

 蝉がやかましく鳴く。額から流れる汗を拭い、そちらの音の方へ耳を傾ける。青い空に葉が舞い上がるような緑色を捉えた。

 ふっと息を吐き、「暑い」と言葉をこぼす。


 僕は病気だ。それも誰にも理解できない病気を煩う。

 意識して聞いた音が「色」になって見えるという、奇病を。


   ◇


 高架下を通り、再び日に当てられれば、額から汗が吹き出た。

 絵に描いたような青い空からは、刺し殺そうとする日光が地上にこれでもかと降り注いでいた。――もう、かれこれ一ヶ月くらいこんな天気だ。

 日本とは思えない灼熱地獄と化したコンクリート街に人の数は少ない。熱中症で搬送された人が過去最大と連日ニュースで報道されるくらいだ。誰も好んで外に出たがらない。

 ワイドショーやニュースで対策をとるように、と耳にたこができるくらい注意喚起されているが、それでも依然としてこの猛暑に倒れる人はいる。

 それに、今度は水不足の問題が浮上し始めた。二週間くらい前から節水が呼びかけられているが、今日のニュースによるとあと数日、同じような天気が続くと断水を実施せざるおえないらしい。

 もはや、ここまで来ると皆思うことは一つ。

「雨、降らないかなあ」

 真っ青な空を眺めながら、ぽろりと言葉がこぼれ落ちた。

 本当は外に出たくなかった。でも、空っぽの冷蔵庫を見れば行くしかない。もう少し日が落ちてから出掛ければよかった、と先に立たない後悔を引きずりながら、僕は歩く。

 とりあえず、外に出たからには溜めに溜め込んだ買い物リストを消化してやる。シャンプーに歯磨き粉、洗剤とタオル、あと下着は買った。

 次は、本屋だ。マンガの新巻を買わないと。

 なるべく日陰のある道を選びながら、駅前の本屋に向かっていたときだ。

「どうしよう、どうしよう」

 泣きべそかいた声が耳に入ってきた。

 高架下を抜けたその先に並木道が続く。そこには駅の利用者向けに設置された駐輪場があった。

 最初、迷子の子供がいるのかと思った。

 しかし、自転車の間に身を入れながら、何か探し回っているのは、いい年の大人。それも眩しいくらいの金髪にピアス――ホストと言われてもおかしくないほど派手な男だ。

 そんな風貌の男だからか、それとも灼熱地獄の外にいたくないのか――おそらく両者だろうが、誰もが男を見て見ぬふりをする。

 まるで最初から存在しないように。――いや、さすがにそれはないか。派手な男だ。ちらりと盗み見くらいはしてる。男の整った顔に女性からの視線は熱いが、誰も声をかけようとしない。何故だろうと思ったが、「汗で化粧が崩れているかもしれない顔で、イケメンに声かけられないでしょ!」という通りすがりの、文字通り黄色い声で納得した。

 触らぬ神に祟りなし。良心は痛むが、僕も忙しい。まだ、買い物リストは半分以上残っている。

 そこには誰もいない――そう思いながら周囲と同じように通り過ぎようとした。

 しかし――。

「うわっ!」

「ちょっ!」

 転んだ。この歳になってマンガみたいに尻餅をついた。

 男がいきなり飛び出てきたのだ。このうだるような暑さのせいで、避けられるほどの瞬発力と判断力なんてあるわけない。

 手に持っていたビニール袋が、音を立てる。途端、月のような黄色とも白ともつかない色が僕の視界に入った。

「ああ、大丈夫ですか」

 大丈夫、と答えようとしたところで僕はあることに気づいた。


 男の声には「色」がない。


 ――どういうことだ?

 男から視線をそらして耳を傾ける。駅のホームに流れる発車音、アナウンス――機械の音は総じて白い。それは漂う煙のようで、簡単に他の音の色にかき消される。

 いつもと同じ光景。

 音の色が見えなくなったわけではない。

 それじゃあ、なぜ?

 差し出された手に気づかず、自力で立ち上がれば男は再び何かを探し始めた。

 ない、どうしよう、困った――と口々に言いながら。

 ――この人は、一体何者なんだろう。

 音に色が見えないのは初めてのことだ。無意識のうちにじっと見つめていたらしく、目があってしまった。

 蝉が鳴くのをやめるくらい暑い中だというのに、男は汗一つかいていない。カラーコンタクトだろうか、目は自ら光って見えるほど透き通った黄色だった。

 どこか人離れした視線に射抜かれ、たじろぐ。

 じろじろ見られていい気分になる人間は、そうそういないだろう。僕は素早く頭を下げると、そのまま駅に向かおうとした。

 そのときだ。

 手首を引かれ思わず振り向けば、再び宝石のような男の瞳がぶつかる。

「手伝ってくれませんか」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

「あなたも探すのを手伝ってくれませんか」

 呆けた顔をしていたのか、しびれを切らしたのか。男はもう一度言葉を紡ぐ。そこには、断ることは許されないと思わせる何かが存在していた。

 声に「色」がない。それだけでも驚きなのに、光り輝いているような姿。

 派手な人間は、行動自体が良くも悪くも派手だ、と僕は思っている。そんなことはないとわかっていても、断れば報復を受けるのではないかという考えが頭をよぎった時点で、僕の返事は決まってしまった。

「――少しだけなら」

 よかったと言葉をこぼす男とは対照的に、僕の胸の内はしんしんと冷え切っていた。


 僕の目に見える世界は汚い。

 音の色が見えてよかったことなんて何一つない。ましてや人間なんて、見栄のためなら平気で嘘をつく生き物だ。

 何も知らなければ幸せだってことは、山ほどある。僕も普通の目を持っていたら、こんな苦労はしないだろう。

 僕にとって「音」は、聞くだけでなく、色と形で見えるものだ。

 踏切の警告音、鳥のさえずり、人の笑い声――そのすべてが僕の世界を塗りつぶす。音は色の付いた煙のようで、音の大きさや高低の差などで形が変わる。

 これは生まれつきではない。

 僕は一度、生死をかけた病になったことがある。まだ幼いときだ。手術は無事に成功し目覚めたときに見た、両親の安心した顔を今でも覚えている。

 でも、何か違和感があった。

 真っ白な天井を見ているはずなのに、緑色の煙が絵に描いた風のように漂う。何だろうと見つめていたら今度は、線香のように白い煙が見えた。

 煙は、ずっと漂うことはなく溶けるように消えていくが、音が止まらない限り続く。

 変だ、と幼心ながらも思った。しかし、口にすることができなかったのは、もう両親に迷惑をかけたくないという気持ちが働いたからだ。

 だから、こう思うことにした。

 僕は幻覚を見ているのだ、と。

 おかしいのは僕の方なんだ――そう思えば何もかも解決する。

 それから耳を傾けない限り、音が「見える」ことはなくなったが、生活をする上でそんなことは不可能に近い。

 それに、一番厄介なのが人の声なのだ。

 さっきのように、言葉と気持ちが伴っていないことが文字通り「一目」でわかってしまう。

 だから、人と会話をするときはなるべく周囲の音を聞きながら、耳を傾けないよう努めているのだが――。

「ありましたか?」

「いえ、それらしきものはありません」

 投げかけられる声。僕らは駐輪場を離れ、駅前の公園に移動していた。

 砂場に滑り台、ブランコや鉄棒などこのあたりにしては、遊具がそろっている。

 しかし、人影は見あたらない。――僕ら以外。

 木陰に入って一休みするものの、汗はまったく引かず滝のように流れ続ける。額の汗を拭ってもすぐに玉のように吹き出る。

 太陽が殺しにかかっている。

 空を見上げ、熱い息を吐き出す。

 日差しが、刺すように痛い。熱されて溶けそうだと本気で思う。

 木陰にいるというのに、流れ落ちる汗が地面に落ちた瞬間、後も残らず消えていく。

 こうも暑いと、動きたくなくなるどころか、思考力も低下している気がしてならない。それにもかかわらず、相変わらず男は黙々と落とした物を探し続けている。

 男が落としたのは、布らしい。

 ハンカチやストールではない。布だ。それも腰に巻けるくらい大きい布。

 正直、なんでそんなものを落としたのかわからないし、そもそも必死になって探すこともないと思う。

 だが、男は言葉少なげに黙々と手を動かす。

 誰かからのプレゼントとか、形見とか――そんなところなのかもしれない。

 もう少しだけ、手伝うか。

 僕は動きたくないと叫ぶ体に渇を入れて立ち上がった。

 そのときだ。

 バタバタと不揃いな足音が耳に入る。何画にも折れ曲がったような形と鉛色。嫌な予感しかしない。そしてそれは的中した。

「助けてください!」

 こんがり焼けた小学生くらいの男の子が三人、僕らの姿を見るなり声を上げた。

「和成が、友達が地下に落ちて!」

 話を聞くと、立ち入り禁止になっている場所に友達が足を踏み入れたら、地面に穴が空き落ちてしまったという。

 僕はその場所がどこか、すぐにピンときた。

 僕がさっき通った高架下。その道中にある赤く錆びた鉄扉のことだ。戦時中に作られた物らしいが何の用途があるのか知らない。

 扉の向こうは、人ひとりが通れるくらいのトンネルしかなく、途中で行き止まりになってる。それも今ではかなり老朽化しており、立ち入りは禁止されていた。

 何故、僕が知っているのか。それは、僕も小学生だった頃にもあの扉についていろんな噂話があったからだ。

 幽霊をみたといって嘘をついた同級生がいれば、それを本気で信じて怖がってしまった子もいた。わんわん泣き出すものだから、「あれは嘘だよ」と教えてあげたかった。でも、僕が見ている音の「色」が幻だから。だから、慰めることもできなかった。

 ――って、今はそんな場合じゃない。

 僕は男に向かって声をかけようとした。でも、その必要はなかった。

 彼にも少年たちの話が聞こえていたのだろう。男は、金髪を輝かせながら、すでに歩き出していた。慌てて僕もその背中を追う。

 追いついた、と思った瞬間。男が振り向いた。

 なんだ――?

 身構える僕とは対象的に、男は日に当たり輝く水面のような瞳で僕を見据えると、「色」のない声で言った。

「その場所まで案内してくれ」


 さっきは泣きべそみたいな声を出していたのに。

 まるで天気のような変わりように、納得がいかない。僕が案内しなくても、後から追いついた少年たちが先陣を切って走り、道案内してくれた。

「涼、まだ和成と話はできるか?」

 鉄扉が見えてきた途端、少年のうちの一人が扉の前にいる別の少年の元へ走り出した。

「うん、まだ大丈夫。でも暗くてどういう状況なのか全然わからないって」

 鉄扉に近づいた僕は、一人目を丸くしていた。

 涼と呼ばれた少年が、携帯の明かりで照らすその先には、思っていたよりも大きな穴がぽっかりと空いていた。

「他の大人に助けを求めたか?」

 そう聞けば少年は首を降った。

「新しい連絡通路ができたから。誰もここには来ないよ」

「そうか」

 透き通るほど青くまっすぐな音。少年の言葉に嘘はないだろう。

 少年の言うとおり、最近新しい連絡通路ができた。そっちの方が冷房も効いていて涼しいのだろうが、僕はあえてこの道を通っている。

 人の多い場所は、うるさいのだ。耳にも、目にも。

 落ちた少年は、思いの外元気なようだ。話をすることはできる。ただ、足をくじいてしまったようで自力で出ることができないという。

 それに穴の深さもわからない。ただし、反響していることはわかる。わずかではあるが、音の「色」が重複しているのだ。

 少年の体重で穴が空くほど地盤が緩いのであれば、僕が下手に立ち入らない方がいい。

 こういうときは、救急車を呼ぶべきなのだろうか。携帯を取り出し、画面を睨んでいたときだ。

 悲鳴にも似た甲高い音が耳を突く。顔を上げれば、男が扉の中へ足を踏み入れていた。

「ちょっと、まっ――」

 僕が止めるのも聞かず、男は穴まで近づくと何を思ったのか、自分もその中へ飛び込んでいった。

 少年たちの驚きの声があがる。

 おいおいおいおい!

 気づけば体が扉に延びてた。落ちるかもしれないという恐怖は、頭から抜けていた。

 鉄扉の向こう側は、光すら届かない。ただ闇しかない。

 それは僕の目も例外ではない。

 ただ、僕は音を「色」としてみることができる。

 耳を、立てる。

 光を奪われても、僕には関係ない。

 暗闇の中で、音の「色」が光のように際だつ。これは僕のみる幻。でも、僕は心のどこかでこの音の「色」を信じている。

 だからわかる。

 ――少なくとも、すぐに崩落することはないだろう。

 足下に視線を落とす。自分の足がおぼろげに見える。だが、穴の底までは何も見えない。

「何やってるんだ、あんた!」

 思わず口から出た言葉に、自分でも驚く。

 放っておけばいいと頭ではわかっている。冷静になって助けを呼べばいい話だ。

 でも僕は今、鉄扉の向こうにいて、彼が落ちた穴をのぞいている。

 赤の他人だってことは百も承知だ。でも、目の前で姿を消した途端、僕の肝は冷えた。

 もう心動かされることなんてないと思っていた。

 でも、そうじゃなかった。

 僕はまだ、色があふれかえった世界で心揺れることがある。

「すみません」

 鼓動が早鐘のように鳴る中、のびやかな声が耳を打つ。

「思ったより深くて。すみませんが、引き上げてくれません?」

 へなへなと笑う男が、うずくまる少年の手を握っている。安心したのか、少年は涙を拭っているようだった。

「わかりましたから、そこから動かないでくださいよ」

 そう言うなり僕は扉を抜けると少年たちに協力してもらって、太いロープを持ってきてもらった。

 それを近くの街灯に括り付けると、穴に垂らし力一杯引っ張る。

 視線の先にある暗闇を睨みつつ、息を止め手に力を込めたときだ。

 僕は気がついてしまった。

 視線の先は暗闇。いくら視線が慣れたとしても人間の目だ。そこまで鮮明に見えない。

 それなのに、だ。

 さっき僕は男の顔がはっきり見えた。近くにいた少年の仕草もだ。

 理由は簡単だ。

 あのときは、気がつかなかった。でも、今思えば明らかにおかしい。

 ――人が光って見えるわけがない。


   ◇


 何度も頭を下げる少年たちと別れ、再び公園に戻る道中で、僕は思わず声を上げてしまった。

「どうしました?」

 耳元で揺れるピアスが、日光にあたりまぶしい。

 大したことではないので、言うか迷ったが、彼があまりにも言葉の続きを待つものだから、仕方なく口を開く。

「いや、彼らにも落とし物を探すの手伝ってもらったらよかったなって」

 どうせ探すのなら人数は多い方がいい。それに、彼らなら快く手伝ってくれただろう。

「かなり大きめの布なら、すぐに見つかりそうなものですけどね」

 どのあたりに落としたのか、男はわからないという。だから、ここまでの道中を遡っているのだが、一向に終わりが見えない。

「差し出がましいことを言いますけど、代わりでもいいのなら買った方が早いですよ。何に使う布なんですか?」

 ここまで来てしまえば、最後までつき合ってやろう。そんな気持ちで問いかけたときだ。

 男は顎を指で挟み、少し考えると「腰」と一言、ぽつりとつぶやいた。

「えっと――つまり腰巻き、ですか?」

 この暑さだ。男もスカートのようなファッションをしても不思議ではない。そもそも、この男なら履きこなしそうだ。

 このあたりにそういう取り扱いのある店があったかな、と思い巡らせていたときだ。

「風神雷神図屏風ってわかります?」

「……ええ。まあ一応」

「あんな感じに使う布です」

 僕は思った。この暑さだ。思考力が著しく下がり、小学生どころか酔っぱらい以下の頭になっている気がする。

 そして、それは僕だけじゃない。

「えっと、それはつまり最初からパンツを探していたってことですか?」

 僕も何を言っているのかわからない。でも、気づいたら口から言葉が飛び出てた。

 対する男は、怒るでも怪訝そうな顔をするでもなく、かゆいところに手が届いたような顔で僕を見返す。

 マジかよ――。

 足腰の力が抜けてしまった。ずっと探し続けてきたものが、まさかパンツだったとは。

「大丈夫ですか?」

 男の声には相変わらず「色」がない。差し出してくれた手を掴む。

「あの、もし嫌じゃなかったらこれ」

 僕はビニール袋の中から、とある物を取り出した。

 さっき買ったばかりのトランクスパンツだ。

「縞模様だし、サイズが合うかわからないですけど……」

 男はさっき、図屏風の話をした。たしか、あれに描かれた腰巻きは模様がなかったような――そんなことを思って模様の話をしたのだが、そもそもそうじゃない。

 ふと冷静になった。

 そうだ。普通、見ず知らずの人にパンツを渡す奴がいるか? いないだろ。

「すみません、変な事言って」

 差し出したパンツを引っ込めようとしたときだ。

 くしゃっとビニール袋が音を立てる。視線を上げれば、真剣な眼差しが突き刺さる。

「――んですか?」

「へ?」

「本当にもらってもいいんですか」

「え、ああ、うん。イヤじゃなければ。さっき買ったばかりだし」

 ――噛みつかれると思った。

 男は、ほっと安心したような顔で僕のあげたパンツを見つめている。

 そんなに喜ばれるのなら、探し始める前にちゃんと何を落としたのか、詳しく聞けばよかった。

 男は、僕の存在に気づいたように顔を上げると「ありがとうございます!」と文字通り、まぶしい笑顔でお礼を言った。

 彼が本当に感謝しているのか、「色」が見えないのでわからないが、この言葉に偽りがないことだけは間違いないだろう。

「お役に立てたのなら何よりです」

 僕の顔も自然とほころぶ。

 そのときだ。

 雨が一つ落ちたような呟きに耳を疑った。

 ――冗談のつもりなのか。

 笑い飛ばそうと顔を上げた瞬間、男の姿は消えていた。

「え――?」

 どういうことだ。

 見晴らしのいいこの場所で、いきなりいなくなることなんてあり得ない。

 僕は夢を見ていたのだろうか。

 狐に化かされた気分で首をひねる。――いや、そんなことはない。

 だっておかしいだろう。

 それなら小学生を助けたのは一体誰なのか。こればかりは幻であるはずない。

 僕は走った。

 彼の風貌なら忘れることの方が難しい。まだこの近くにいるはずだと探し回る。しかし、彼の姿どころか通りかかる人の数も少ない。

 額を流れる汗。火照った体が気持ち悪い。でも足は止まらなかった。

 名前を聞けばよかった――後悔が僕の中で渦巻くがどうしようもない。

 そのときだ。

 視界の隅で、はじけたように何かが光った。

 彼かもしれないと思った僕は、顔を上げた。

 そのとき見たものを僕は一生忘れることはないだろう。

 一言で表せば、鬼がそこにいた。

 半裸の二匹の鬼。一方はいくつもの太鼓を円に背後にし、もう一方は大きな袋のような物をたなびかせる。

 ――そう屏風で有名な風神雷神そのものだ。

 しかし、腰布だけは違う。風神は記憶の通りだが、雷神は縞模様のパンツ――それもさっき僕が渡したものだ。

 ふっと思わず笑いがこぼれる。

「何だ、あれ」

 くすくすと笑っているうちに、二神はいなくなっていた。

「僕は神様の捜し物を一緒になって探していたのか」

 それとも暑さでみた幻か。

 だとしても――。

「あの風貌でストライプトランクスとか、ウケるだろ」

 罰当たり、と言われかねないが、彼ならそんなことはないだろう。

 やっと雨を降らせることができる――そう、姿を消す直前に言ったのだ。

 そのときはわからなかったが、今ならわかる。

 空模様が怪しくなってきた。さっきまで青い空が広がっていたにも関わらず、どこからともなくどんよりとした雲が覆っている。

 天気予報だと今日も一日晴天だったはずだ。

 しかし、晴天では聞くことのない、巨大な獣のうめき声のような雷鳴が、空に響きわたった。ぽつりぽつりと空から水滴が落ちてくる――雨だ。

 熱せされたコンクリートに点々とした模様が増える。同時に雨が降り出したときの香ばしいような匂いが立ち上る。

 傘を持っていないのか、駅に向かって走っていく姿を尻目に僕は空を見上げていた。

 さっきまで絵に描いたような青空だった。それなのに、灰色の絵の具で塗りつぶしたような空色は、昼夜が一変したようだった。

 もう一度、大地を揺らすような音が響きわたる。

 雨だけでなく風も出てきた。夕立というには荒々しい天気だ。

 それでも僕はその場に立ち尽くす。雨が顔をうち、髪から水滴が滴り落ちても気にならない。

 そのときだ。

 鉛色の空を割るような一光が走り、遅れて吠えるような轟きが続く。

 音よりも光の方がずっと早い――それを一番身近に感じたのは、他ならぬ雷だった。

 足下から駆け上がるような鳥肌が立った。

「……なんだ。やっぱり色があるじゃん」

 彼の「声」も例外なく「色」が見える。ただし、それは僕だけじゃない。

 僕はまばゆい光が駆ける空をずっと見つめていた。















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