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本を読む化物 2019.6


 私の家には、今ではあまり見かけない白塗り壁の大きな蔵がある。

 祖母いわく、祖母の祖母が生きていた時代にはもうこの蔵はあったらしい。「いつからあったの?」と誰に聞いても「さあ?」と返されるばかり。この蔵のことは家族でもよく知らない。

 いたずらがバレてしまったとき、決まってこの蔵に閉じこめられた。経験上、「出して!」と叫んでも出してくれないのはわかっているので、一通り怖がって泣き叫ぶフリをしてから、開けてくれるのを待つ。父も母もそこまで非道な人間ではない。反省したと思ったらきちんと出してくれる。せいぜい三十分か四十分くらいの間、このカビ臭くほこりっぽい蔵の中でじっとしていればいい。

 それにしても――。

「ああもう、最高!」

 両手で口を覆い、くつくつと笑いを堪える。今日のいたずらは、びっくり箱の要領で鍋の中に蛙を忍ばせたものだった。腰を抜かしてひっくり返った母の姿を思い出すだけで、しばらく愉快な気分になれる。

 しかし、その興奮も次第に冷めてくる。つまり暇だ。

 罰を受けているのだから当然だ。初めてこの蔵に閉じこめられたときは、昼間にもかかわらず真っ暗なことに驚き、心の底から震え上がった。

 まるで自分だけ日常から切り離され、得体の知れない世界に放り込まれたかのような不安と恐怖。涙で顔はぐちょぐちょで、あまりにも泣き叫ぶものだから、あのときはすぐに出してもらえた。そのこともあってか、「これはお仕置きに使える」と両親も思ったのだろう。それからというもの、古い蔵は私のお仕置き部屋へと変わった。

 しかし、人間は慣れる。

 何度も閉じこめられれば、お仕置きの意味もなくなってくる。だから、反省しているフリをしなくてはいけないのだが、出してくれるまでじっと待つのも飽きてきた。

「……たしか、このへんに――あった!」

 カチっと音がして目の前が浮かび上がる。人間は学習する生き物だ。閉じこめられるとわかっていれば、事前に準備だってできる。

 懐中電灯で照らす蔵の中は、思いの外広かった。農具や杵や臼、木材やブルーシートなど年行事に使うものがところ狭しと並ぶ。

 だが、それだけではない。蔵の奥、そこには下り階段の入り口が見えた。

「あたしって天才ね!」

 普段、お仕置き以外で入ることのない蔵の中だ。何か面白いものがあるかもしれない。

 それこそ徳川家の埋蔵金みたいな日常生活の中では滅多にお目にかかれない、面白いものが。怖いか怖くないかといえば、怖い。しかし、今まで何もなかったのだ。祖母からもこの蔵に関する曰く話なんて聞いたことがない。

 結局、恐怖心より好奇心の方が勝った。

 古い古い家の蔵。家系図とか武士の刀とか鎧とかそんなものがあるんじゃないかと期待に胸を膨らませながら、階段を下ろうとしたときだ。

 目の前がぐにゃりと歪んだ。声を出す間もなく体が傾くと、寸分の光もない闇の中へ引きずり込まれた。

「いたたた……」

 じんじんと痛む尻に手を伸ばす。

 床に転がった懐中電灯を拾い、階段に向ける。見ると、壁から木の板が飛び出ているような粗末な階段のうち、数段の板が折れて使い物にならなくなっていた。

 さっと血の気が落ちる。

 どうしよう、また怒られる――。

 そう思ったときだ。

 何かが落ちたような大きな物音が耳を刺す。びくりと肩を震わせ、とっさに懐中電灯を向ける。物音に気づいた両親が、蔵の扉を開けたのかと思ったが、違う。音はこの奥から聞こえた。

「……誰か、いるの?」

 口から出た声は、思っていた以上に震えていた。風が小さな火を煽るように、恐怖が全身を駆けめぐる。手先が震えだし、手に力が入らなくなって、懐中電灯を落とした。

「きゃっ!」

 頭を抱え、うずくまる。もう、一歩も動きたくなかった。

 早く誰か来てよ!

 涙が目尻に溜まる。ふと、最初にこの蔵に閉じこめられたときのことを思い出した。

 大声で泣き、叫び、喚き――今思い返せば、なんであんなに怖かったのか、不思議でならない。

 私はもう、あの頃とは違う。

 身の内を暴れ回っていた恐怖心は、怒りによって食いちぎられていく。

 こんな古い蔵、しかも人が滅多に立ち入らない地下だ。鼠の一匹や二匹、いてもおかしくない。

「――幽霊なんかいるわけないじゃない」

 実際に見たわけでもないのに、何に怖がっているというのか。

「もしいても、塩撒いて追い返してやる!」

 ナメクジみたいに縮んでしまえばいいのだ。

 そう思いながら、懐中電灯を拾い、周囲へ向けたときだった。

 真っ黒な人影と目があった。

 声にもならない悲鳴を上げつつ、もう一度明かりを向ける。

 見間違いかもしれない――そんな淡い期待は、和装姿の男を捉えた瞬間、泡のごとく消え去った。目を見張るような、白い肌と漆黒の髪。中性的な顔つきに袖からのぞく細い手首。華奢な青年は、深窓の令嬢と言われてもしっくりくる雰囲気をまとっていた。

 しかし、見た目は男でも人間ではない。――そう本能が訴えるのだ。

 食い入るように見つめていれば、青年もまっすぐこちらを見る。

 蔵に忍び込んだ泥棒という線は、男の目を見た瞬間なくなった。

 絵画のように美しい青年。その双眸は、鮮血に似た色をしていた。

「君は、泣かないんだね」

「……だれ?」

 人ではない。肌が粟立ち危険を訴える。

 とにかく逃げなければ――。

 気づかれないよう、そっと足を後ろへ滑らせる。

 だが――。

「逃げるのかい?」

 次の瞬間、男が目の前に現れた。驚きのあまり、声も出ない。大人の足でも十歩以上ある距離を、足音もなく一瞬で移動したのだ。人間にそんなことができるはずがない。

「可哀想に。……震えているね」

 頬に氷を当てられているようだった。温もりなどいっさい感じない。寒さのせいだけではない震えが、全身を駆けめぐる。頭の中はパニックだ。少しでも現状から逃げ出したくて体中の恐怖が喉に集まり、叫びだそうとしたときだ。

 冷たい感覚が喉元に当たる。

「騒げば殺す。喧しいのは嫌いなんだ。それに、安心しなよ。食ったりはしないから。――君が僕の望みを叶えてくれれば、ね」

 息ができない。叫びの固まりは、喉元であめ玉みたいに引っかかっているし、目の前には今にも私を殺しそうな人の姿をした化け物が立っている。

 目の前が大きく歪む。私はそのまま意識を手放した。


   ◇


 はっと飛び起きたとき、そこは自室のベッドの上だった。体がしぼむほど、深く息を吐く。

 カーテンをめくり外を眺めれば、すでに月が昇り星が煌めいていた。

 様子を見に来た母曰く、蔵の中で寝ていたらしい。私の他に男がいなかったかと聞けば、「変なこと言わないで」と一蹴されてしまった。

「……夢、だったのかな?」

 目を閉じても開いても、異様に赤い目がはっきりと脳裏に浮かぶ。

 夢ならそれでもいい。

 あんな目にあって夢で済ますことができるなら、納得はできないけど安心はする。時間が経てば笑い話にだってなるだろう。

 でも――。

「夢だったのかなー」

 両腕を伸ばし、ぐっと延びをしてからもう一度寝ようとしたときだ。

 視界に入る、自分の腕。めくれたパジャマからのぞく腕を見て、息が止まった。

 墨で書かれた文字のような模様。

 どこかにぶつかってできた痣というには、あまりにも不自然な形と大きさ――。

 すぐに、火事でも知らせるような勢いで部屋を出ると両親に腕を見せた。しかし、父も母も首を傾げると口をそろえて「何もない」と言う。

「そんなことない!」

 私は噛みつく勢いで抵抗した。

「見てよ! 墨で文字が書いてあるでしょ?」

 しかし、結果は同じだった。それどころか「頭でも打ったの?」と言われる始末。そんなことはないと言ったところで、聞く耳持たない。

 重い足取りへ部屋に戻ると、月光の下、もう一度両腕を見た。ミミズが這ったような文字は、何が書いてあるのかわからない。ただし、誰の仕業なのかは嫌でもわかった。

 読めないのなら、聞くしかない。

 幸いと言ったら何だが、望みを叶えてくれるなら食わないとあの化け物は言っていた。望みが何なのかはわからない。でも、叶える前に殺されることはないだろう。もちろん、怖いものは怖い。けれど、腕がこのままだというのも気持ちが悪い。

 窓の外に穴が空いたように浮かぶ満月を眺めて一人、決意する。

 もう一度、蔵に行ってみよう。


 蔵の中に入る――そう決めたものの、そう簡単な話でもない。

 蔵の扉には南京錠がかかっており、鍵は両親が持っている。素直に「蔵に入りたい」と言えればどんなに楽だろう。しかし、そんなことを言えば今後のお仕置き方法は確実に変わる。塾に通わせるとか言い出されたら、たまったもんじゃない。

 さて、どうしようか。

 ランドセルを背負ったまま、玄関ではなくまっすぐ蔵へ向かう。鍵のかけ忘れとかないかなと都合のいいことを考えながら扉を見ると、錠が外れ扉がわずかに開いているではないか。背筋に寒気が走ったのは言うまでもない。

 怖い――。

 両手の平を合わせ指を組む。人の形をした化け物が呼んでいるような気がした。洗っても落ちない腕の文字は、他の人には見えない。書いてあることがわからない以上、聞くしか方法は思いつかない。

 無視して生活を送ることは簡単だ。しかし、腕が目に入るたびに蔵で起きたことを思い出す。気をもみ、うんうんと頭を悩ませるくらいなら――。

 蔵の扉に手をかけた。

「遅かったじゃないか」

 蔵に入った途端、体重をかけて開けた扉が音もなくあっという間に閉じた。突然何も見えなくなって、思わず叫びだそうとした瞬間、どこからともなく蝋燭のような淡い光りが蔵のあちこちに点く。

「それで。命の代わりは持ってきたか」

 足を組みこちらをまっすぐ見据える赤い瞳。間違いなく蔵の地下にいた化け物だ。

 私、殺されちゃうんだ。

 化け物の唇から出た「命の代わり」という言葉。そんなもの、用意しているはずがない。

 限界だった。

 口から絞り出すような悲鳴が上がる――しかし、口から出たのは空気の漏れる音だけ。

 どうして! 何で声が出ないの! 

 もうパニックだった。喉を掴み声が出ないのか何度も試す。しかし、口からこぼれるのは、変わらず空気だけ。

「早くしてくれないか」

 これでもかってくらい激しく首を振る。涙で顔はぐしょぐしょだ。

「腕の文字は読んだからここに来たのだろう?」

「そ、そんなの、し、しらない!」

 さっきまで声が出なかったのが不思議なくらい、言葉が自然と口を出る。自分でも思った以上にしっかりとした声だった。

 赤い目をした化け物は、目を細める。それだけで気温が下がった気がした。

「『知らない』? はっ! そんなわけないだろう!」

 びくりと肩が跳ねた。

「その腕の文字が読めないとは言わせない」

 冷たく鋭い声でそう言われれば、言い返す言葉も出なくなる。金魚のように口をぱくぱく動かせば、美しく恐ろしい化け物は、再び目を細めた。

「――まさか、本当に読めなかったなんてことはないよな」

 その言葉に思いっきり頭を上下に振った。化け物は、絵になるような仕草で溜め息を吐くと片手で額を押さえた。

「やはり、会話から得られる情報は信用ならないな。識字率は高いと聞いていたのに」

 戦国時代の武将が書いた手紙みたいな字、私じゃなくても読めるはずがない。ちょっとだけ腹は立ったが、刃向かうつもりはない。

「本だ」

 化け物は片手をこちらに伸ばし短く言い放った。すぐに意味が理解できず、石のように硬直していれば、「命の代わりだ」と言ってきた。

「僕に食われたくないのなら本を持ってこい。そう書いた。――ここに入った以上、本か命か差し出してもらう」

 暑くもないのに汗が背中を伝った。本なんて持ってない。図書室なんて勉強嫌いの私にとって無縁の場所だ。

「ないのなら命をいただく」

 そのときだ。頭の中で火花が弾けたようにひらめいた。

「本なら――何でもいいんでしょ」

 どうせ食われるのなら、と一か八かでランドセルから取り出したのは、国語の教科書だ。授業で使うからなくなるのは困る。しかし、命には代えられない。

 化け物は無言でそれを受け取ると中を開いた。そして端から見ていてもわかるほど、大きく目を開く。

「……何だ、この文字は」

 蔵の中には、祖母や両親も知らない、昔の本がたくさん入っていたのだろう。今の文字が読めないなんてこともあり得る。もし、「こんなもの本ではない」と言われたらどうしよう――芽生えた不安が、小さな胸を押しつぶそうとする。

 だが、その心配は必要なかった。

「なるほど。音の変化はあまりなくとも文字は大きく変わったのだな。――一眠りのつもりが、随分眠り込んでいたようだ」

 化け物は、教科書を食い入るように見つめながら言う。

「――面白い」

 そう言って小さく微笑んだ。

 何が面白いのかわからない。けれど、その笑顔を見た瞬間、私の中で何かが弾けた。さっきの比じゃない。胸を打ち抜かれたような衝撃。どう表現すればいいのかわからない。でも、もう一度だけその笑みを見たいと思った。

 気づけば蔵の前に立っていた。さっきまで中にいたはずなのに、蔵の扉はしっかりと施錠されている。

 今度こそ夢でも見ていたのではないか――そう思った。けれど、腕に書かれた文字は消え、ランドセルからは教科書がなくなっている。

「……夢じゃないんだ」

 あの美しい化け物は存在している。そして、その存在は私しか知らない。自然と笑みがこぼれた。


 それからというものの、校内案内のとき以外足を踏み入れたことのない図書室に通うようになった。担任の先生からは「勉強嫌いのお前が本を読むようになって嬉しい」と感激の涙を流されたが、本は借りても私は一行も読んでいない。

「今日も来たのか」

 蔵の扉を開ければ、美しい化け物は目を細めてこちらを見た。なんだかんだ言って、私が本を持って行けば蔵の鍵を開けて待っているあたり、まんざらでもないのだと思う。

「君は僕が恐ろしくないのかい?」

 本を持ってこなくても、もう命を奪われることはない。それなのに餌を運ぶ親鳥のように本を持ってくる私を不思議に思ったのだろう。

「……怖くない」

 嘘だった。

 怖いか怖くないかと言われれば、正直怖い。――でも、あの顔をもう一度見られるのなら――何でもする。

 化け物は「そうか」とだけ答えると再び手元の本へと目を落とした。見とれるほど美しい横顔。どこか非現実的な美しさがあるからこそ、人間ではないと自分に言い聞かせることができる。

 人間のような姿の化け物。その美しい化け物は、何よりも本を好む。


 化け物と出会ってから、十年が過ぎた。

 たかが十年、されど十年。時代におけるこの十年は、実に目まぐるしかった。

 まず、有害図書の駆除が始まった。いわゆる成人向けのマンガや小説の規制だ。それは次第に、差別用語や危険思想へと範囲を広げ、自由だった創作物は、規制という名の足枷をつけられた。

 続いて、森林の減少。本を作るには最低でも紙とインクが必要だ。その紙の原料となる木が、世界人口の増加に伴う居住区や農地確保のために伐採され、環境破壊が大幅に進行した。さらに、温暖化の影響か、海面が上昇した結果、悪循環に拍車をかけた。

 紙は本にだけ使われるものではない。身の回りを見渡すと紙は生活必需品であることがわかる。それに、時代と共に娯楽も多様化しており、本を読む人間が減ったことから、世界規模で本の電子化が進み、今では紙の本は売られなくなった。

 これに一番困ったのが、蔵の化け物だ。

 一度だけ電子機器を渡し、電子書籍を読ませようとしたことがある。しかし、化け物の目にパネルの光りは合わないらしく、すぐに手放してしまった。

 だから、私は書いた。小さなメモ帳に、裏の白い紙に、トイレットペーパーに。興味がなかった読書も、彼が楽しげに読むものだから、いつの間にか苦痛ではなくなっていた。書き始めて三年。私もすっかり成人していた。

 今日も昨日と変わらず蔵に行く。大学は自主休講だ。そうでなくても、最近このあたりで爆弾魔が現れるから、大学も休校になっただけなんだが。

「続き、持ってきたよ」

 あの頃よりも簡単に開けられるようになった蔵の扉の向こう、化け物は十年前と変わらない姿で本を読んでいた。

「遅かったな」

 相変わらず感情のない声。しかし、何となく怒っていると思った。続きを持ってくるのが遅かったからかもしれない。

 月日は、私の化け物に対する恐怖を和らげるには十分な時間だった。今では友達に会うような感覚だ。言葉もいつの間にか砕けていったが、彼は変わらない。

 小さなメモ帳を鋭利な爪をした手のひらに乗せると、彼はそれを開き始めた。紙は高価になっている。小さなメモ帳を用意するだけでも一苦労なのだが、化け物はもちろんそんなことは知らない。

 締め切った蔵の中は、湿気が高くカビ臭い。それでも化け物が作り出す、蝋燭に似た淡い光りの中で過ごす時間は、何にも代え難かった。

 私は化け物の近くに座ると、じっと彼を見つめた。彼のいる蔵の中は電波が届きにくいらしくスマホは使えない。だったら美しいものを眺めている方がよっぽど有意義だ。

 彼は人間ではないから、見つめられることを気にしないし文句も言わない。ずっとこうしていたいなと何度も思う。

 ただ、彼は本を愛する化け物だ。私がどんなに話しかけても答えてくれることは少なかった。

 ――もう少しだけ、こっちを向いて。

 そう思ったときだ。

 蔵の扉が開いた。まぶしさに視界を奪われる。

 一体、誰がと疑問を抱いた瞬間、「警察だ!」という声が響きわたった。

「ここにいるのはわかっている」

 ちょうど化け物が影になっていたせいか、警察官には私の姿が見えていないようだ。化け物は、蔵の扉が開いたというのに、そちらには目もくれず、一心不乱にメモ帳に書かれた物語を読んでいる。

「お前は誰だ?」

「かくまっても無駄だぞ!」

 数人の警察官が、蔵の中へ足を踏み入れた。おそらく、外にもまだいるのだろう。私は持っていた鞄をぎゅっと握りしめた。

 私の姿を捉えたのだろう。「いたぞ!」と言って駆け寄ってきた。

 そのときになって、ようやく化け物は顔を上げた。

「誰?」

 その問いかけは、警察官にではなく私に向けられている。

「警察官。――実はね、今の時代、紙に物語を綴ることは禁じられているの。前にも説明したでしょ? 紙の原料が少なくなっているって。だから、無駄に使うことは法律で禁止されている。――私はそれを守っていなかったから、捕まえに来たんだよ」

 ふっと息を吐くと覚悟を決めた。

「だから、これでさよなら。もう貴方が私の書いた小説を読むことは二度とないわ」

 そう言って、真っ赤な目を見つめながら微笑んだ。


 その瞬間だった。


 吹き飛ばされそうなほどの突風が、突然吹き荒れた。

「……渡さない」

 化け物はゆっくり立ち上がると、警察官を睨む。

「この人間は絶対に渡さない!」

 私は思わず両手で口を押さえた。そうでもしないと、息ができなかった。

 ――この心臓の高鳴りを何と言えばいいんだろう。

 警官たちは、顔を覆い必死に突風に耐えている。蔵に置かれた物が、音を立て飛び始めた。壷が割れ、ロープが絡まり、ビニールがけたたましく鳴る。それでいて私や化け物の周りは風など吹いてはいなかった。まるで竜巻のようだ。

 これからどうしよう。例え美しい化け物が警官を追い払っても、その場しのぎでしかない。化け物がここにいる限り、私のいる場所もここだ。

 そのときだ。

 ふわりと体が宙を浮く。声を出す間もなく化け物は私を抱え、蔵の外へと飛び出した。

 風を切り、驚くほどの跳躍で、化け物は空を駆ける。

 首にしがみついた私は、顔が赤くなるのを感じた。

 ――夢を見ているみたい。

 こんな間近で顔を見たことはない。睫毛一本にいたるまではっきりと見える位置にいることが、嬉しくてたまらない。

 顔を見られたくなくて首元に埋める。落とされないようにぎゅっと腕に力を込めれば、腰に回った化け物の腕が強く締まる。

 口元が緩んで仕方がない。

 化け物は知らないだろう。


 私は彼に嘘をついている。


 確かに紙の本は数を減らした。しかし、完全になくなったわけじゃない。

 それまでに出版されてきた本の数々――それらはきちんと保存されている。もちろん、今までのように簡単に貸し出しはされていない。

 本は金よりも貴重になったのだ。

 それに、あの警官たちは私が紙に小説を書いていたから来たわけではない。個人で行う創作を規制する方が難しい。

 ドンっと地面を揺らす音が響きわたる。

 私は煙の上がる方角を見て、口角をあげた。煙が上がっているのは、私の通っていた大学、その図書館だ。

 紙の本はあってはならない。

 蔵に置いてきた鞄の中には、いくつかの爆弾が入っていた。最近起きている爆発事件。その犯人を捕まえに彼らはやってきたのだ。

 ――そう、金より貴重になった紙の本を壊す私を捕まえに。

 すべてはこのときのため。

 化け物の首に頭を寄せる。私は今、とても幸せだ。

 彼にとって本がすべて。きっとまだ読める本があると知れば、そちらへ行ってしまうだろう。だから、私は嘘をついた。もはや、美しい化け物にとって、私は本と同等、いやそれ以上の価値がある存在になった。

 だからこうして腕の中にいられる。

 幸せだ。

 これから先、彼は私の書いたつたない小説を読み、あのとき見せた微笑みを浮かべるのだ。これ以上、望むものなどない。

 きっと真相を知れば、皆は私を心の醜い化け物だと言うだろう。

 それでもいい。


 彼が本を読む化け物なら、私は彼のために本を書く化け物になろう。


 了

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